とびら 第三章 1 - 5


(1)
横にいるヒカルは仏頂面のままだった。
平日のおだやかな昼下がり、電車に乗っている人影はまばらだった。
棋院に呼び出したアキラを待っていたのは、ものすごい怒りをあらわにしたヒカルだった。
そのあまりの憤りにアキラは戸惑った。
「何だよ、あれは! 最後まで並べるって約束だったじゃないか!」
そう叫んだヒカルにアキラはしれっと答えた。
「うん、でも一度ですべてを並べるなんて言ってない。きみも一度だけとは言わなかった」
この言葉は少しも論理的ではなかった。突き詰めていけばほころびだらけだとわかる。
だがヒカルは突き詰めることなどできないので、あっさりと詰まってしまった。
だが憎まれ口はたたいた。
「で、またオレとしたいって言うのかよ。今日ここに呼んだのもそういう目的か? 
 棋院は碁を打つ神聖なところだって、おまえが言ったんだよな」
「僕を肉欲に取り憑かれたみたいに言わないでくれ。一緒に行きたいところがあるんだ」
ヒカルは黙りこくった。疑いに満ちた目で見てくる。
これはアキラにとっては賭けだった。ヒカルが拒否すれば自分にはどうしようもできない。
自分の持つたった一枚の手札にすべてがかかっているのだ。
「……33手目の黒18の十九の次から」
ぼそりとヒカルは言った。アキラはそれが承諾の言葉と一瞬わからなかった。
嬉しくてたまらないのを表面には出さずに、アキラは脳裏に棋譜を並べた。
「白19の十八、18の十二、17の十三、16の十三ツケ、11の十四」
そこで言葉を切った。ヒカルは表情を険しくした。
「5手だけかよっ」
「つきあってくれた後に続きを言う」
――そういう話の流れがあって、今の二人があるわけだった。
とにかくアキラはヒカルとのことを後悔はしていないが反省はしていた。
一度目は無理やりで、二度目は取引。ほめられたものではない。
自己嫌悪におちいってしまいそうになるのを何とか奮い立たせた。
アキラはもう一度自分の心に立ち返り、望んでいることをたしかめた。
欲しいのは身体ではない――いや、もちろん身体も欲しいのだが――心だ、と……。


(2)
降りたところを見て、ヒカルは目を見張った。
「古くさい町だな」
「風格のある下町だと言ってほしいな」
アキラは手を差し出した。ヒカルは不思議そうにそれを見る。
「手をつなごう」
「げ! やだよ、恥ずかしいっ」
「黒10の十七」
ぴくりとヒカルは反応する。そしてあきらめたように手を握ってきた。
屋根の低い木造の町を二人は歩いた。人通りが少なく静かだった。
ヒカルは相変わらず機嫌悪そうにしている。だがしばらく歩いて、ふとその鼻を動かした。
甘く香ばしい匂いが漂ってきたのだ。アキラはその匂いのもとへと進む。
一軒の古い店にたどりついた。
「すみません、二つください」
いかめしい顔をした店主が無言でうなずいた。そして目の前で型にタネを流し込んだ。
実はお互い見知っているのだが言葉は交わさなかった。店主は無口なのだ。
ヒカルは興味深そうに焼いている様子を見ている。
「これ鯛焼きだよな。型が一つ一つ独立してるんだな」
「うん。今では珍しいよね。一枚の板に型をたくさん並べたほうが効率がいいから、
 こういう一枚焼きはもうほとんどないんだ」
「ふーん」
目を輝かせて出来上がるのを待っているヒカルを見て、アキラは予定通りだと思った。
どんなにアキラが言葉を重ね、態度で示しても、ヒカルが想いを受け止めるのは難しい。
ならば三大欲の一つ、食欲を利用してしまえばいい、と思いついたのだ。
人間、食べ物で釣るのが一番早くて、また確実だ。
ヒカルの舌がジャンク・フードに慣れているのなら、さらに好都合。
美味しいものを食べさせて、ヒカルの心を開いていこうとアキラは決めた。
そしてまず手始めに鯛焼きを選んだのは、前に碁会所で和谷がヒカルにおごってやる、
と言っていたからだ。ヒカルも嬉しそうにしていたから好きなのに違いない。
同じ鯛焼きでも、格の違いというものがあることを見せてやる、とアキラは思っていた。


(3)
鯛焼きにしては少し高めの値段をアキラは払った。
ヒカルはアキラが払うのを当然だと言うように見ている。
紙越しに伝わってくる熱が心地よい。アキラは一つを差し出した。
「はい、焼きたてだから熱いよ」
「オレ熱いの平気だから」
そう言うと待ちきれないとばかりに、ヒカルは頭にかぶりついた。途端に舌を出した。
「あつっ」
それでも口の中で転がし、はふはふと食べる。飲み込むと幸せそうに顔をほころばせた。
「すげェ、うまいっ」
寒いのでなおさら美味しく感じられるはずである。
「なんかこのあんこ、ほのかに甘いって言うか、そう品がある甘みだよな。
 皮も厚いわけじゃないのに、歯ごたえがあってうまいし」
先ほどまでの不機嫌な顔が嘘のようなヒカルを見て、アキラは胸が詰まった。
泣きそうになってしまう。
「おまえも早く食べたら」
「僕は熱いのが苦手だから、少し冷めてから食べるよ」
「熱いほうが絶対うまいのに」
「ここの鯛焼きは冷めてもおいしいんだ」
ヒカルは味わうように食べ、最後の一欠片を飲み込むと店備え付けの芥箱に紙を捨てた。
「おじさん、絶品だった!」
「そうか」
いつも表情を変えない主人の目尻が下がるのを見てアキラは驚いた。
本当にヒカルは心の垣根をあっさりと越えてしまう。
「塔矢、ちょっとこのへん歩こうぜ」
満面の笑みをヒカルは向けてくる。アキラにとっては初めてのことだった。
やはり食べ物で落としてしまえ作戦は良かったのだとアキラは思った。
「もう冷めたんじゃねえ?」
「うん、でも……」
歩きながら食べるのはためらわれた。
「オレが食いたくなるんだよ。生殺しみたいでヤだから早く食えよ」
自分勝手なヒカルの言葉にアキラは苦笑した。


(4)
中のあんこがはみださないように、慎重にアキラは鯛焼きを二つに割った。
頭のほうをヒカルに渡す。
「食べていいよ」
「何だかオレが巻き上げたみたいじゃん」
「気にしなくていいよ。僕がきみにこの鯛焼きを食べさせてあげたいって思ったんだし」
ちょっと考えたようだが、「それじゃ遠慮なく」とヒカルは受け取った。
頬張るとうなずいた。
「ホントだ。冷めてもうまいな。あんこの甘さが増して、皮がちょっと湿ってきてるん
だけどそこがまたうまい」
「そうだね。とてもおいしい」
今までもこの鯛焼きを何度も食べた。だがこんなにおいしく感じられなかった。
一緒に食べるとそれだけでおいしさが増すのだとアキラは知った。
冬枯れの町は二人をやさしく包んでくれるようだ。
「おい、口元についてる」
「え、ほんと?」
ハンカチを出して拭こうとすると、ヒカルは呆れたように言った。
「口のまわりくらいなめろよ。もったいない」
「僕はそんなみっともないことはしない」
「……オレはしたぜ。みっともなくて悪かったな」
空気が険悪になりはじめる。アキラはこういうときの雰囲気のなだめ方を知らなかった。
いつもそばにいるのは大人で、うまく流してくれていたからだ。
アキラはうつむき、首を振った。これが精一杯の意思表示だった。
自分でも情けないと思う。
不意に頬を挟まれ、顔を上げさせられた。
ヒカルの顔が近付いたかと思うと、唇を舐められた。
「進藤!」
「じっとしてろよ」
ヒカルの舌が丹念に口のまわりのあんこを舐め取っていく。
ちょうど二人のいるところは死角になっていたので誰も気付いていないが、こんな町中で
こんな大胆な行動をするヒカルにアキラは動揺した。
ヒカルは一通り舐め終わると、軽いキスをしてきた。
少し触れただけなのに、全身がとろけるような感覚におそわれた。


(5)
心がふるえる。アキラはヒカルを見た。いったいどんな顔をしているのか知りたかった。
ヒカルはさばさばとした様子で笑っていた。
「おごってもらったお礼。ごちそーさん」
アキラがうなだれたのは言うまでもない。自分を好きだと言っている相手に、軽々しく
こんなことをするヒカルの神経が信じられなかった。
「きみのそういう態度が僕を振りまわすんだ」
「あ? 何言ってんだよ」
自覚がないのか。ヒカルは和谷やアキラに抱かれているのに、少しもそういう色気づいた
ものを感じず、また感じさせない。そこがいいとも言えるが厄介とも言える。
「ほら、行くぞ」
手を伸ばされた。ヒカルにとっては深い意味はないのだろう。
だがアキラはそれだけで十分幸せを味わうことができた。
「しっかしおまえ、これのためだけにここに連れてきたのかよ。けっこう遠いじゃん」
「おいしいものを食べるのに、労を惜しんではいけないんだ」
あいづちを打つヒカルの目は他の店先に向いている。
「うぁっ、さみぃ」
風が吹き、髪がさらわれた。そしてアキラは見た。
ヒカルの髪の毛で隠れていた首筋に、つけられたばかりの赤いあざを。
「……昨日、和谷の家に行ったんだね」
ヒカルの表情が硬くなった。それを見てアキラはやるせなくなった。
叫びたかった。叫んで泣いて、ヒカルをなじりたかった。
噴き出そうとする感情をアキラはこらえた。だが隙間からわずかにこぼれ出てしまった。
「今からきみの家に行きたい」
ますます気色がかげっていくのを、アキラは悲しい思いで見た。
自分がそうさせているのだと思い知る。だがどうしようもなかった。
ヒカルを誰にも渡したくなかった。ヒカルの身体に残る他人の跡を自分が消したかった。
ヒカルは黙って駅のほうへときびすを返した。
もう二人の手はつながれていなかった。



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