うたかた 1 - 5


(1)

 今日、久しぶりに佐為の夢を見た。
 佐為はオレに背を向けて立っている。

(────佐為!!)

 名前を呼ぼうとするのに声が出ない。
 こっちを見て欲しいのに。

(佐為!!)

 オレの方見ろよ

(佐為!!)

 オレの名前呼べよ

(────…さい…)

 お前が居ないのが、こんなにも苦しい。



 佐為はやがて、オレに背を向けたまま歩き出した。
 オレに何も言わないまま。
 オレに笑顔を向けてくれないまま。





 苦しいよ、佐為


(2)

「進藤、お前目ェ赤いぞ?どうしたんだ?」
 毎週土曜に和谷のアパートで行われる、若手プロたちの研究会。検討の途中でヒカルは少しぼんやりしていたようだった。
「えーと…、き…昨日、徹夜でゲームしてたら目が腫れちゃって…。」
 少し苦しいかな、と思いながらも何とかごまかす。
「おいおい、なに無茶してんだよー!!」
 和谷が、しょうがないやつだと苦笑した。
 その後も幾度となく注意を受けるヒカルに、和谷は段々本気で心配になったらしい。研究会がいつもより早く終わるように取り計らった。

 家まで送ってやると真剣に言う和谷に、その都度平気だと笑って断った。和谷のアパートを出て、独り歩き出す。

 ────どうして今更、佐為の夢を見るんだろう…。

 自分はもう乗り越えたと思っていた。

(佐為はオレの碁の中にちゃんと居るんだから、大丈夫。)

 呪文のように唱える。こうやって自分を安心させようとするそれは、伊角との対局のあと身に付いた術(もの)だった。

(……ダイジョーブ…)

 つま先に視線を落としながら、あてもなく彷徨う。素直に家に帰るのは嫌だった。いま閉鎖的な空間に入ると、気分がますます滅入ってしまうような気がした。
 この心を反映したかのように、どんよりと暗く潤った空が、ついにぽつりと雫を落とす。
「あー…降ってきちゃったか…。」
 一つ溜息をついて傘を広げる。今日は少し肌寒い。これ以上外にいても風邪をひくだけだということは、わかっていた。

(そういえば…)

 傘がワンタッチで開くのを見て、佐為が大騒ぎしたことがあった。

 不意に目頭が熱くなり、慌てて頭を振ったその瞬間────
「うわっ!!」
 いきなりすさまじい風が吹いた。傘が全身でそれを受けて、あっという間にヒカルの手から離れる。
 宙を舞って車道に落ちた傘を見留め、急いで拾いに行ったヒカルの目には、右から迫り来るバイクの姿は映っていなかった。


(3)

「オイお前!!死にてぇのか!!」
 バイクから降りた男の怒鳴り声に、びくりと我に返った。
 一瞬のうちに起こった出来事を、ヒカルはすぐには理解できないでいた。ただ、バイクのタイヤとアスファルトの強く擦れる音が、自分の鼓膜をひどく振動させたのは覚えている。
「────…ッ」
 道路に座り込んだまま、ガクガクと震えの止まらない身体を両腕で抱きしめた。

 男がバイクのハンドルをもう少し遅く切っていたら、確実に重症だっただろう。道路に大きくJの字に付いたタイヤの跡が、事故のリアルさを物語っている。雨で濡れたアスファルトでバイクが転倒しなかったのも奇跡に近い。
 ヒカルの代わりに轢かれた傘からは、痛々しく骨が突き出していた。

「オイ、どっか怪我してんのか?」
 身動きしないヒカルの前に、男がしゃがみ込む。
「ん?お前…進藤じゃねぇか!!」
 いきなり名前を呼ばれ、驚いて頭を上げる。

 懐かしい顔がそこにあった。

「────かが…」


(4)

(危うく後輩轢くとこだったぜ…ダセェ…)
 ヒカルの熱い額に触れながら、加賀は自嘲的な笑みを浮かべた。
 バイクの運転には自信があった。自分なら、どんなじゃじゃ馬も簡単に乗りこなせる────バイクだろうが、人間だろうが。
 そう過信していただけに、今日の事故は加賀を動揺させるに相応しかった。
「年貢の納めどきっつーやつかァ…?」
 冗談めかして呟いたその言葉は、湿った空気の中に溶けて消えた。

 一時間前。
 事故の恐怖からか、ヒカルが立ち上がれなくなった。
「なんだお前、腰抜かしてんのか?」
 普段ならからかう所だが、今回ばかりは洒落にならない状況だったので加賀は軽口を叩くのは自粛した。
「ほら、負ぶされよ。」
 しゃがんだままヒカルに背を向けて、おんぶ待機の体勢になる。
「い…いいよ…、すぐ…たて、たてる…ようになる…」
 俯いて瞳を逸らすヒカルの声は、雨音にかき消されそうなほど小さく震えていた。
「つべこべ言わねーで、オレの言う通りにしろ。」
 加賀は焦れたようにヒカルの細い腕を掴んで、ムリヤリ負ぶった。ヒカルは少し身じろぎはしたが、おとなしくされるがままになっていた。
 背中に触れるヒカルの肌が氷のように冷たい。
「…お前、オレんちで暖まれ。この近くだから。」
「……かがの…?」
「ああ。」
 未遂とはいえ、事故った直後にバイクで二人乗りするわけにもいかず、加賀はヒカルを乗せるとバイクを押して家まで帰った。
 しかし、冷えた身体をゆっくり雨の中にさらしたおかげで、家に着く頃にはヒカルの体温はさっきと打って変わって跳ね上がっていた。
「進藤、オレんち着いたぞ。…大丈夫か?」
 真っ赤な顔でだるそうに目を瞑るヒカルの頬を、軽く叩いた。ヒカルが微かに眉根を寄せる。
 加賀はヒカルをまた背負うと、家の中に入っていった。
 ヒカルの小ささとか、軽さとか、体温が────妙に切なかった。


(5)

 部屋に入るとベッドにバスタオルを何枚も敷き、ヒカルの濡れた衣服を剥ぎ取った。ヒカルのピンクの火照った肌に、一瞬邪な気持ちになる。
(…何考えてんだ、オレは。)
 そこまで飢えてないし、節操無しでもないはずなんだが。
 加賀は事務的にズボンを脱がせると、己の視線からヒカルを守るかのように何枚も布団を掛けた。
 自分の部屋にいるのに落ち着かなかった。詰め将棋や棋譜並べでもして平常心を取り戻そうかとも思ったが、自分の勢いよく打つ駒の音でヒカルの眠りを邪魔してはいけない。そこまで考えて、加賀は小さく舌打ちをした。
 普段なら、他人にここまで細やかな気遣いをすることなど絶対ないというのに。加賀は、なんだか自分で自分が可笑しかった。

 ずれたアイスノンを直してやりながら、改めてヒカルの寝顔を見る。
(少しは成長したみてぇだな…。)
 ヒカルとは卒業式以来会っていない。加賀の記憶の中では、ヒカルはまだ1年生のままだった。
(2年と少しぶりか。でかくなってて当たり前だな。)
 当時はプニプニとしていた頬も、心なしかスッキリしている。それでも女の子のような愛くるしい顔には変わりなく、閉じられた瞼の上には長いまつげが影を落としていた。
「────ン…」
 ヒカルの声で、ハッと体をベッドから離す。いつの間にかえらく至近距離で見つめていたようだった。
 ゆっくりと、ヒカルの瞳が開く。
「…………」
「…大丈夫かよ。」
「……のどかわいた…。」
 すぐに立ち上がって飲み物を取りに行く。
(オレ様をパシリにするとは、いい度胸だ。)
 冷蔵庫には、切らしているとばかり思っていた風邪薬があった。一緒にそれを持っていくと、ヒカルは寝たまま顔だけ上げて、あからさまに嫌そうな表情をした。
「オレ、粉薬キライ。」
「何言ってんだ、クソガキ。」
 コップは受け取るが、薬には手を伸ばそうともしないヒカルの頭を軽く弾く。
「そうか、そんなに座薬入れて欲しいか。」
「わー!!オレ粉薬大好きー!!」
 慌てて薬を口に運ぶヒカルの姿に、加賀は笑いをかみ殺した。



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