残照 1 - 5


(1)
明日からいよいよ北斗杯が始まる。
最後の注意事項を受けたら、この後は明日の朝まで自由時間だ。
ホテルの食事も飽きたし、晩メシは何を食おうかな、と思いながら、ヒカルは退屈な説明を
聞いていた。
長い、くどくどしい説明がやっと終わって、ヒカルは勢いよく席を立った。
そして、アキラに声をかけようとした時、
「お父さん!」
アキラが声をあげた。
振り向くと、塔矢行洋が立っていた。
「来るのは明日だと思ってたのに。」
アキラはヒカルの横を通り過ぎて、行洋の方へ向かい、それから、思い出したように振り返って
ヒカルに言った。
「進藤、ごめん。」
明日から始まる北斗杯に向けて、前祝いに皆でちょっと豪勢な夕食を食べに行こう、という
約束を反古にするつもりなのだと、それを謝っているのだろう。
「ちぇ、つまんねーの」
ヒカルは小さくこぼした。
せっかく塔矢と一緒に美味いもんが食えると思ってたのに、そう思ってヒカルはちょっと
拗ねて唇を尖らせた。
「へーえ、塔矢ってあんな顔することもあるんだなあ。」
ヒカルの後ろから和谷の声が聞こえた。
言われて、アキラを見てみると、アキラは本当に嬉しそうで、いつものクールな表情が
信じられないくらい、無邪気な笑顔を行洋に見せていた。
―ここんとこずっと一緒にいたオレと、久しぶりに会った親父とじゃあ勝てねぇよな。
しかし、アイツって親父っ子なんだなあ、あんなに嬉しそうにしちゃってさ。
父親の前で小さな子供に戻ってしまったようなアキラを見てヒカルは、しょうがないなあ、
と言う風に小さく笑った。


(2)
行洋の横を軽くお辞儀をして通り過ぎようとしたヒカルの耳に、行洋の低い小さな声が届いた。
「彼は、どうしている?」
ヒカルの足が止まる。
「また打ちたい、と、打てる機会を待っていると、伝えてくれ。」
それだけ言って、何事も無かったかのように、行洋は去って行った。
けれど、ヒカルはその場に釘付けになったまま、動けなかった。
「おい、進藤、どうしたんだよ?」
「え?ううん、何でもない。」
「何でもないって、なんか、真っ青だぞ。今、塔矢先生に何か言われたのか?」
何でもない、はずが無かった。
―どうしている?また、打ちたい。
ヒカルの頭の中で行洋の言葉がこだまする。
佐為との別れを、納得できたと、自分では思っていた。
自分の碁の中に佐為はいる、そう思う事で自分を納得させる事ができたと。
けれど。
―どうしている?また、打ちたい。
それは、ヒカル自身の言葉だった。
また、打ちたい。もう一度、あの頃のように。
いつまでも、時間を忘れて、飽きる事も無く、何度も何度も、打ち続けたあの頃。
また、打ちたい。そう思っただけで、いつも佐為と一緒にいた記憶が蘇る。
そして懐かしい記憶が蘇るのと同時に、もう決してそんな日々は帰っては来ないのだという
絶望が、ヒカルの中に押し寄せる。
「何でもない。」
そう、自分に言い聞かせるように同じ言葉を口にしながら、ヒカルは涙が出そうになるのを
必死に堪えた。


(3)
何を言うつもりなのか、自分でも分かっていなかった。
ただ、何かを伝えなければいけないと、そう思って行洋の部屋を訪ねた。
ドアをノックすると、中から誰何の声が聞こえた。自分の名を告げると、部屋の主は少し驚いた
顔でヒカルを迎え入れた。
ヒカルの泊まっているシングルルームよりは、随分と広いその部屋を、ヒカルは見回した。
以前に行洋が入院していた部屋を訪れたときにも、その豪華さにびっくりした事を思い出した。
何かを言わなければと思い、けれど言葉が出てこずに逡巡しているヒカルに、行洋はソファに
座るように促した。
「お茶でも飲むかね?」
行洋がゆっくりと丁寧に煎れた煎茶を一口飲んで、ヒカルは思わず声を漏らした。
「美味しい…」
熱すぎず、けれどぬるくもなく、ほのかな甘さが喉にしみいるような味だった。
今まで自分が飲んできたお茶は、これに比べたら色と多少の味がついたお湯のようなものだ。
「オレ、こんなの、はじめて飲んだ。」
ゆっくりと味わいながら、そのお茶を飲んだ。
「お茶って、こんな味するもんだったんだぁ…」
行洋は半ば苦笑してヒカルを見た。
そしてお茶を飲み干して顔を上げたヒカルに、行洋はここに来た理由を話すように無言で促した。
行洋の鋭い視線にヒカルは目を泳がせ、そして下を向いてしまった。
言葉にはしなくても、行洋の沈黙には威圧感があった。その空気にヒカルは圧された。
「…ごめんなさい、塔矢先生、」
俯いたまま、搾り出すように、ヒカルは言った。


(4)
「…ごめんなさい。」
消え入りそうな声で、もう一度繰り返す。
他に何が言えるだろう?
これ以上、何が言えるだろう?
そう思って、泣きそうな顔で行洋を見上げた。
静かな、真っ直ぐな、けれど問うような眼差しで、行洋はヒカルを見下ろしていた。
その視線に、この眼から逃げる事は出来ないのだと悟る。
逃げられないとわかっていたからこそ、ここに来たのではないか?
事実を告げるために、そのためにここに来たのではないか?
だからヒカルは、もう一度、勇気を振り絞って、やっとの思いでそれを口にした。
「saiは…もう、いないんです。」
もう、いない。
言ってしまった。
認めてしまった。
もう、佐為はどこにもいないのだと。
改めて言葉にしてしまった事で、佐為を失った時の苦しみがヒカルの中に蘇る。
「アイツも、すごく、先生と打ちたがってました。でも、」
そうだ。あの時も佐為は言っていた。もう、自分には時間が無いのだ、と。
それをいつものワガママと思って聞き流していた。いつかまた、打たせてやる、と。
でも本当に、そんな時間はなかったのだ。「その内きっと」と、そんな時は訪れなかった。
「オレが…アイツの言う事をちゃんと聞いてなかったから…
そしたら、こんな事にはならなかったのに…」
声が震え、涙があふれそうになっている事にも、ヒカル自身、気付いていなかった。


(5)
ごめんなさい、塔矢先生、と口の中で繰り返す。
そして、ごめん、佐為。

もっと、打たせてやれば良かった。
オレが打ちたい、なんて言わないで、アイツの好きなように、好きなだけ、打たせてやれば良かった。

あの頃、何度も繰り返した、苦い後悔がまた甦る。
自分が打たなければ、もう一度戻ってきてくれるのではないかと、思った事もある。
自分の打つ碁の中に佐為はいるのだから、それで十分なのだと、佐為のいない今も、碁を
打っている時は一緒だと、自分に言い聞かせた事もある。
でもそれは言い訳に過ぎず、それが佐為を失った悲しみの埋め草になる訳じゃない。
佐為がいない代わりに、佐為のように扇子を手にし、佐為のように神の一手を極めるのだと
宣言しても、自分が佐為に成り代われるはずもなく、目標までの気の遠くなるような距離と、
自分の歩みの遅さに、焦燥感が増すばかりだ。
一点だけを見つめて、もっと早く、もっと高みへと、気は焦るばかりで、ピリピリとした感覚が
ヒカルの身を苛んだ。
だがその痛みすらも不快ではなかった。むしろ、もっと、そうやって焦燥感に追われて走り
続けていれば、他の事を考えずに済む。他の痛みを忘れていられる。
それなのに、忘れていたかった、心の奥に封印していた願望が、行洋の言葉で甦ってしまった。

―どうしている?また、打ちたい。



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