枸杞の実 第二章 1 - 5
(1)
暮色も迫る五月の夕刻、塔矢行洋の碁会所には今日も沢山の碁打ちたちが集まっていた。
市川は受付の椅子に腰掛けながら、夕日の射す店内を見渡すとその奥の、もはや特等席とも言える場所でアキラと広瀬が向かいあっていた。アキラが盤上に石を置きつつ何事かを言う度に広瀬が溜息をついたり薄くなった頭を撫でたりして、しきりと感嘆しているようである。
黒髪を揺らしながら石を並べていくアキラは、今日は海王中学の制服を見に纏っていた。
私立海王中学校。有名私立として名高いその学校は、裏では校長が制服オタクなのではないかと囁かれ、一部マニアの間で制服はかなりの人気を誇っているらしい。デザインは某有名デザイナーが手掛け、もちろんそれは、全てがオーダーメイドの特注品で、基色は清潔さの象徴ホワイトが使用されており、ウエストに向かってすぼみそこで短く切り揃えられ、上下がはっきりと分離する形になっている。上着の左胸には、KAIOとロゴの入ったワッペンがつけられ一目で判るようになっていて、静かに自己主張しているようだ。ズボンもまた足首に向かってしまり、全体的にカラダのラインが出易く、そこがマニアに受ける理由の一つだと市川は解釈している。
例に漏れずアキラの制服も躯にフィットしており、それが彼の抜群のスタイルの良さを旨く引き立たせていると誰が見ても思うに違いないだろう。
世界広しといえども、(少なくともおかっぱで)この制服が似合うのはアキラ以外に居ない、と信じて疑わない市川は、それ故、いつかどこの誰にイタズラされかねないと気が気でならないのだ。
だからそんなアキラを皆に自慢したいようでもあり、また人目には触れさせたくもないのである。
ガーっという自動ドアの音開くで我に返ると、そこには進藤ヒカルの姿があった。
「あらぁ、いらっしゃい、進藤くん。アキラ君なら奥に居るわよ」
「ん、わかった」
ヒカルが差し出したリュックを受取りながら、奥のアキラに目を遣った。先程までこちらを見ていたのでだろう、アキラのオカッパが流れるように揺れ、また何事も無かったかのように広瀬と向かいあって、そのまま碁を打っている。
アキラの許へゆっくりと歩いていくヒカルを見ながら、ついつい市川は首を捻っていた。
『いつものアキラくんならさっさと指導碁でもなんでも中断して進藤君と打つか、そうでなくても進藤君が来ると分かっている時は大抵他の誰かとは打たないのに…約束じゃなかったのかしら…?変ね。』
しきりと瞬きしつつ、想像を巡らす市川であった。
(2)
「よっ塔矢キタぞ。打とーぜ!」
にこやかな笑顔で、ヒカルが背後からアキラの肩に手をおいた。アキラは一瞬石を打つ手を緩めたが、瞳は盤上に注いだまま、ヒカルを振り返らないで口を開いた。
「済まないが後にしてくれないか。」
スリムで指の長い手が、何一つ無駄のない動きで石を打ち、するどい音をさせる。
「今僕は広瀬さんと打っているだろう。分からないのか?君は少し自己中心的な所があるな」
アキラは冷ややかな口調で言い放ち、そこでやっと、ゆっくりとヒカルを振り返った。
目を大きくさせ、口は半開きの少々呆気にとられたような顔をしていた表情が、みるみるうちに変化していく。
「なっなんなんだよ、いきなり!せっかく来てやったのにそりゃねーだろ!大体お前の方こそいっつも一言多いんだよっ!」
「それは君が言われて当たり前の行動をとるからだろう!?」
歯を剥いて怒鳴るヒカルに負けじと、アキラも椅子から立ち上がり声を荒げた。
二人が睨みあっていると、慌てて広瀬が仲裁にはいった。
「まぁまぁ二人とも喧嘩しないで!」
広瀬はいまだ立って睨みあう二人に汗を拭きながら近寄る。
「アキラ先生も私なんかに指導碁打つより、進藤君と打ってくださいよ。その方が勉強にもなりますし」
「でも…!」
納得いかない様子のアキラを尻目に、広瀬はヒカルの背中を押して自分が座していた椅子に座らせた。
「ちょっ!ちょっと!」
いきなり背中を押されヒカルは前のめりに倒れそうになっている。
「ほらアキラ先生も!」
そう言って半ば強引にアキラも椅子に座らせると、広瀬は傍に立って満足気な顔をした。
さぁさぁ早く打て、と言うような顔をしている。
戸惑うような表情をしていたアキラだったが、その実は心の中では密に胸を撫で下ろしていた。
正直あのままだったら喧嘩はエスカレートし、ヒカルは帰ってしまっていたかもしれない。だがアキラは自分からは決して折れる気など、毛頭無かった。
まるでしょうがないから来てやったというような態度を取られて、アキラはいきりたっていた。
まだその柳眉を寄せてむっつりとした顔をしている。
だいたい、来るならば何故昨日来ない!?僕が誘ったのは一昨日だぞ!?一体泊まりで何をしていたんだ!?
考え始めれば、妄想は尽きる事がない。しかしアキラはやるせない忿懣はおくびにも出さないでこの二日間を過ごしてきた。日常では努めて冷静に。忍耐、努力を重ね、生活の全てを囲碁に打ち込んできたアキラのそれは、全てその卓越した才能に現れていると言っても良いだろう。
だがしかし、それもヒカルの前では消えてなくなり、日々装っている仮面からも解放される。
言いかえればそれは、日々の生活の中で唯一アキラが普通の中学三年生に戻ることができる時なのだ。
(3)
「でさ、ここがこうきて…こうで…」
進藤が次々と得意気に石を並べていく。どうやら先日の手合いは快勝だったらしく、手合いの内容を語る口調も心なしか弾んでいるようだ。
彼の打つ碁は本当に良い。のびのびとしていて素直で、それなのにどこか掴み所の無くて狡猾で、そう、彼の全てがそこに見てとれる。彼の碁は見る者を魅了し、虜にさせる。彼の碁をもっと見たい知りたい。彼はどんな風に盤上を見つめ、その見つめる先には何が見えるのか――――そう思わせる。
だからこそ、お父さんが緒方さんが、桑原先生が、皆彼に一目置いている。
そしてなによりこの僕が。
物心がつくより早く碁盤に向き合っていた僕は、日常の全てが囲碁と共にあったと言ってもいい。僕はいつだって目前の道だけを見、そして真っ直ぐに歩いた。気がつけば共に同じ場所を目指し、同じ道を歩んでいたはずの者たちは違う道に分かれて進み。もしくは声の聞こえない遥か後方に居て、そうして歩いているうちに、いつしか僕ただ一人になっていた。
そんな僕の前に突如現れた進藤ヒカル。碁など知らないと言うように屈託なく笑う彼は、しかし僕には手の届かない前方を歩いていた。
そこから僕の運命が決まったんだ。彼だけを見つめ、同じ場所を目指していると言う事だけを頼りにがむしゃらに彼を追い掛け、捕まえた。もし彼に手が届くことができれば、目の前の高い大きな壁を乗り越える術が分かる、と。しかし現実はそうはならなかったのだ。
だが確かに捕まえた時、一旦消えたかと思ったそれは、次には疑念となり焦りに変わり、結局僕は進藤から目を離す事ができなかった。
彼が、僕が15年懸けて歩んできた道をたった三年で追い付いてしまったのか、初めて打った時の彼が本物なのか、未だに分からない。けれど、彼の周りに集まって来る人達は彼の碁に魅き付けられているのはもちろん、彼の人間性に魅かれているのではないかという気がする。
僕は棋院で彼の無邪気な笑顔を見る度、彼の周りに人だかりができるのを目にする度、その思いが深まっていくのを感じている。
「ここで俺が…っておい。聞いてんのかョ?」
「……あぁ。ちょっとその手はマズイんじゃないか?それよりも、こっちの方が数目程分がいいだろう?」
ちろりと上目使いで僕を見上げたその仕種に、クラリと来た自分をなんとかごまかした。
きっと彼の癖は、どれも彼を世渡り上手にさせているに違いないのである。
(4)
「だーかーらっ!右辺を囲って、中央を荒らしていけば問題ねーじゃねーか!」
「問題ない!?一体これのどこが問題が無いと言うのか教えてくれないか!?」
広い碁会所に二人の怒号が響く。
空を覆っていた暗雲は先程より窓を濡らしていたのだが、今やすでに大粒の雨を降らしていた。
「だからさっきから言ってるだろ!中央を荒らしてけばって…わかんねェのかよバカヤロォッ」
「バッ…!?」
アキラは端正な口を少し開けたまま、その端を引き攣らせていた。この時すでに、今まで二人を囲んでいたギャラリーも、足を忍ばせてその場を離れようとしていた。
「バカだって!?君に一番言われたくない言葉だな!ならば僕も言わせておう!」
アキラは座りなおし、乱暴にヒカルの並べた棋譜を崩して、次々に石を置いていく。
先日の手合いとは違う一局を検討していた二人は、他愛ない相手の提案を受ける事のできない気質のせいで、毎度まいどの喧嘩に発展していた。
又してもヒカルの突飛な頭脳から考え出された一手を、アキラが絶対の自信を誇って否定した事が発端であったのだが、アキラとて、ヒカルの柔軟な頭は見習いこそすれ、ときたまでるこういう一手を見逃す事はできるはずもなかった。
「どうだ!?ここでツケればもう中央を荒らされはしないだろう!」
客の応対に受付に立つ市川は、独り場違いな事を考え胸を詰まらせていた。怒のオーラを纏った
アキラが一瞬の淀みも、躊躇いもない滑らかさで黙々と打つ姿は何度見ても美しく、艶美だと。
腕を伸ばして碁を打つアキラに、制服に隠された薄い胸板が見えたようで、咄嗟にニヤけそうになる口許を右手で覆い隠す。
久々に碁を打ちにやってきた男は、そんな市川を見て『今日はいつもよりもヒドイのかな』などとお門違いな解釈をつけていた。
盤面を見つめたまま「あぁそうか」と間抜けな声を出したヒカルに、またしてもアキラはどこからか血管の切れる音が聞こえた。
ひと呼吸おくと真正面からキッとヒカルを睨みつける。
――――なんだって?――――
「『ああそうか』だって!?これくらい気付いたらどうだ進藤!」
アキラのその突然の剣幕に、隅で事の経過を見守っていた客も思わずたじろいでいる。
「なに言ってんだ!お前こそこの下がりが見えてなかったくせに!」
怒鳴り付けてくるヒカルにさらに頭に血が集まってくるようだ。
「キミだってここのツケに気がついていなかったじゃないか!だいたい『あぁそうか』ってもう何回キミがいったと思う!?」
「うわーすごいな。レベルの高いケンカだねェ」
目を細めながら、最近のこの碁会所を知らない男はのたまう。一方市川は呆れ顔で二人を見つめ、いそいそとヒカルの鞄を取り出していた。
「そうでもないわよ」
「え?」
市川の言葉にふりかえる男の顔がやや引き攣る。奥での怒声の応酬はまだ止む気配は無い。
「何だよ!そんなの三回くらいしか言ってねーよっ!」
「三回じゃない!四回だ!」
「数えてたのかよ!ヒマだな!お前なんかオレの言った事に六回も『ナルホド』って感心したじゃねーか!」
「デタラメ言うな!六回も言う訳ないだろう!」
二人は今にも顔を突き合わせそうな勢いで喚き合っていた。しばらく睨み合っていたがふいにヒカルが立ち上がり、アキラを上から見下ろして、ものすごく不機嫌そうな顔をした。この時アキラは次ぎに出てくる言葉を容易く予想することができた。
「帰るっ!!」
やっぱりな。予想はしていたもののいざこうなるとアキラは少し焦っていた。
しまった。こんな風になりたかったワケじゃないのに…。むしろこれだけは避けたかったのに。囲碁が絡むと何故こうなってしまうのだろう。
「もう来ねェよ」
一言呟き、スタスタと早足で入口に向かうヒカルの後ろ姿を目で追いながら、無意識に唇を噛み締めていた。
「はい、バック」
市川の差出す鞄をヒカルは無言で受け取ると、そのまま後ろも振り返らずに出ていってしまった。
体全体がドキドキして、腕がふわふわ浮いたような感覚に囚われる。舌の根が乾き、立ち尽くす自分が滑稽でならなかった。今追わなければ彼が誰の許へ行くのか、問わずとも知れている。
「あ!市川さん、さっき雨降ってたよ。あの子傘持ってなかったよね?」
客の問い掛けに窓を見た市川が素っ頓狂な声をあげた。
「アラ!本当!どしゃぶりじゃないの!」
「わッ!わ、若先生!」
アキラが押しのけるようにして碁会所を飛び出したので、とばっちりを食った男の足元がふらついている。その光景に市川はまるでデジャヴュを見た気がした。あの時もそう、進藤ヒカルが絡んでいたのだった。
「アキラくんッ!」
エレベーターは下に降りている途中だった。おそらく進藤が乗っているのだろう。アキラは迷わず階段を駆け降りていた。
外は激しい雨で外に面しているこの階段にも雨は降り注いでいる。滑らないように慎重に、かつ迅速にアキラは駆け降りる。
自分を駆り立てるものはやはり彼に対する恋愛感情だと言うのだろうか。そんな風に言い切ってしまえる自分に驚いた。
だがそれ以外になにがあると言うのだろうか。彼を失いたくない。他の誰かをその瞳に映させたくない。僕だけがいればいい!
切なくて、いつものケンカに過ぎないはずなのに、何かが引っ掛かって、身体の底で大きな何かがうねっているようだ。
「もう来ねェよ」
最後に彼が呟いた言葉。
一瞬彼の顔を横切った愁いの表情が脳裏にちらついて離れない。
僕はまたお父さんが倒れた日を思い出していた。
一階に辿り着きすぐさま表に飛び出した。雨が容赦なく僕に降りつける。だが頬や額に絡みつく髪の毛の煩わしさも、意識に上ることはなかった。
「進藤!進藤ッ!!」
大きなリュックを背負った少年が足を止め驚いた顔で振り向いた。傘を手に持った通行人も何人かがこちらに顔を向ける。
急いで駆け寄ろうとする僕を、彼は苛立たしそうな顔で向かえた。
「んだよ。」
(5)
雨の降りしきる往来で制服姿の二人の少年が、向かいあって立ち尽くしている。薄暗い辺りの景色にアキラの白い制服だけがいやにくっきりと浮かび上がって見えた。
こんな光景はこの雨じゃなくたってかなり人目を引くものであろう。ヒカルは擦れ違う人々が時折視線をなげてくるのが煩わしくてしかたがなかった。
自分は碁会所を出る時、雨の降っていることにも気付かないくらい激昂していたのだ。だからヒカルはビルから出たら、すぐに走って近くのコンビニへ逃げ込もうと考えていた。
その為自分を求める声に、足止めを喰らった気分だった。降りつける雨に急速に体温を奪われていく。
いつだってこいつは、突然現れて…。お前って奴は目立ってしょうがないんだよ。まったく少しは場所を考ろよな…
ヒカルが、もう随分男らしい美貌へと変化した頬を膨らませる。
「ハァッハァハァ…進藤…」
肩を上下させた塔矢が、真っ直ぐ俺の目を見据えてくる。その真摯な瞳が何かを訴えてきたような気がしたが、それを読み取るにはいかんせん雨が冷たかった。
空を仰ぐと、垂れ込めた雨雲はどんどん風に流されていく。
こんななとこでやり合ってなどいられない、と思った。おれもあいつもびしょ濡れだ。
「来い!」
やおら半ば強引に塔矢の腕を掴んで走りだして、ビルとビルの狭い隙間へと滑り込んだ。
どうにか雨はしのげたが、細い路地では決して体格の良いとは言えない自分達でも、やはり少し窮屈な気がした。
塔矢の吐息が自分よりも高い位置から聞こえてくるのが少しだけ癪に触る。耳に入るのは全てを遮断するような雨音だけで、呼びとめたくせにあいつが何も喋らないからなんだか居心地が悪い。
「おい……」
つと見上げると、こちらを見つめる塔矢の切れ長の瞳に捕われた。漆黒の瞳に吸い込まれそうで身動きができない。
ヒカルは睨み返すだけで精一杯だった。
ヒカルのきりっと美しい造形や、瞳の少し充血して潤んでいる色っぽさを楽しみながら、アキラはじっと見つめた。こんなにらめっこなら一晩中だって続けられる自信がある。
やがてヒカルが視線を揺らがせた。おずおずと瞳をさまよわせ、綺麗な長いまつげを伏せた。
「ッ!」
ガチッと一瞬歯が当たって柔らかい唇で口を塞がれた時、何が起きたのか分からなかった。
とにかく、気配を感じて目を開けた時には、塔矢の顔が迫ってきていたのだ。両手首を掴まれ、抵抗しようとするヒカルの動きを封じられた。それでも頭を振ったり蹴飛ばしてはみたのだが、またすぐに捕らえられてしまう。
ヒカルが歯を食いしばるので、アキラの舌は歯茎や唇を貪るように嘗めまわす。ヒカルの蕩けてしまいそうに柔らかい唇に夢中で吸い付いた。ヒカルの身体が僅かに震えて、食いしばっていたはずの歯は舌が差し込められる程にゆるんでいる。
誰も通る事の無い薄暗い路地の中で、いつしかヒカルの抵抗も止んでいた。
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