枸杞の実 第三章 1 - 5
(1)
自動ドアを抜けると、受付で緒方さんと市河さんが二人で話しをしていた。
びしょ濡れで碁会所に戻った僕に、二人は酷く驚いた顔を向ける。
きっと僕はいま非道い有様のはずだ。
「アキラくん!心配してたのよっ!進藤君追い掛けて走っていっちゃうし…アキラくん?」
心配そうな市河さんの声は聞こえるのだけれど、ちっとも頭の中で咀嚼できない。
一瞥して奥へ行こうとする僕の頭にふわりとタオルの重さがかかる。
驚いて見遣ると、緒方さんが美味しそうに煙草を燻らせて、眼鏡の奥の瞳を細めていた。
「どんな理由があるのか知らんがそのままじゃ風邪をひく。早く頭を拭いてついてくるんだな。」
「……え?」
「家まで送ってやろうと言ってるんだが、迷惑か?」
そういって片方の眉をあげるいつもの仕種をする。
緒方さんからそんな申し出を受けて、僕が断れるはずがないのに。
「やっ…緒方さん!アキラくんなら私が送りますから!ねっアキラくん?」
慌ててまくし立てた市河さんに、僕は横目で緒方さんの顔を伺う。その横顔はまるで他人ごとだとでも言うようにあらぬ方向を向いていた。
「……いえ、今日はせっかくおっしゃって下さってるので緒方さんの車に乗せていってもらいます。ありがとうございます市河さん。」
すまなそうな顔をして軽く頭を下げる。身体に纏わり付く制服が気持ち悪くて、胸に渦巻く感情に押し潰されそうで、とにかく早く家に帰りたい。
「そう…そうね…」
小さく返事をして俯く市河さんの隣で緒方さんがゆったりと煙を吐いた。
「ならさっさと頭を乾かすんだな。全身びしょ濡れじゃないか。」
まったく、という顔をして僕を促す緒方さんはいつものように意味がわからない。幼い頃から知っているにも関わらず、未だにその思考を理解できない時がある。
今日は突然どうしたんだろう。いつも碁会所にいるわけじゃないのに。
部屋の隅で頭をごしごしとタオルで擦り、水を吸って重くなった上着を脱いだ。
詰め襟の下のブルーのワイシャツが胸や背中に張り付くのが気にはなったが、まさかこれまで脱ぐ訳にもいかない。ワイシャツに手を差し入れて水気を拭き取っていく。そのうちタオルはたっぷりと水分を含んで使い物にならなくなってしまった。
それを洗濯カゴに入れてしまうと、履き心地の悪いズボンのままに地下にある駐車場へと小走りで向かった。
(2)
和谷が少し早目の夕飯のつもりで牛丼を食べていると「ピンポンピンポーン」と連続でドアチャイムが部屋中に響いた。
はいはい、と呟いて散らかった折り畳み式テーブルの上に牛丼を置いてドアに向うと、またチャイムの音が鳴る。
「はいはい!誰ですか!?」
ガチャリと乱暴にドアを開けると、目の前にずぶ濡れの進藤が立っていた。
いつものような元気はなく悲愴な面持ちで、心なしか目元に赤みが射している。
「進藤!?どうしたんだよオマエ…そんなかっこで!」
「……なか…入ってもいいか…?」
「お、おう!早く入れよ。」
俯き加減でぼそぼそ喋る進藤なんて初めて見るんじゃないか?
足元に散らかったガラクタや洗濯物を端に寄せながら、のろのろと歩く進藤を先導して部屋に入れた。
「ほら。タオルと服。早く着替えな。」
まだ洗濯してあった衣類が残っていたのに胸を撫で下ろしつつ、着替えさせて濡れた頭を拭いてやる。
進藤はかいがいしく世話をしていた俺に完全に身を任せていた。
すると突然進藤が「くしょん!」と、俺の胸目掛けてくしゃみをした。
「バッ!お前人の方むいてくしゃみすんなよ!」
「へへ、ごめん。」
ふわ、と笑う進藤に不本意ながら胸を跳ね上がらせてしまった。
なんだよ。もうかわいらしい顔して笑ってやがる。進藤の笑顔……女の子みたいだな。
(ってバカか俺は)
最近そんなふうに自分を嘲る回数が増えた気がする。
(どうかしてるぜ)
悪びれず笑った進藤に「この野郎」とほっぺたを抓ってやると雨にあたったせいか、触れた肌はひどく冷たかった。
「ほれ。」
和谷が作ってくれた氷の島の浮くインスタントのコーヒーをちょびちょび飲んでいるうちに、少し落ち着いてきた。
猫舌な俺をよく知っている和谷の心遣いだ。
ほろ苦い香りが鼻先を擽り、高まった気持ちを安らかにさせてくれる。
「どうだ?落ち着いたか?」
そう心配そうに顔を覗き込んできた和谷に「ありがとう」とちいさく礼を言う。
すると面食らったような顔して
「気持ちワリ〜!お前が謝るなんて!」
と笑顔でからかってきた。
ほっとしたぞって顔に書いてある。こいつはいつもこんな俺に優しく接してくれる。
和谷なら受けとめてくれる、そんな考えがあったからこそ自然と足が向かったんだろう。
「そんなことより一体どうしたんだ?オマエ何であんなにずぶ濡れだったんだよ?」
「うん……」
コーヒーに浮いていた氷は小さな泡を遺して消えていた。揺れる水面を見つめながら記憶の糸を辿っていく。
和谷になら…話してもいいかな…
(3)
塔矢の薄い舌が口腔を嘗める度に、思わず声が漏れそうになる自分を諌めた。
舌が、それ自体が生き物のように動いて背筋に、腰に、ゾクゾクと痺れが走る。
雨音の中、零れる自分達の荒い吐息が高まる鼓動を煽る。
チュッと音を立てて塔矢の唇が離れていった。
足ががくがくして膝を折ってしまいそうのを堪える。
二人の舌先をつなぐ銀の糸が妙に艶かしく、この目眩く行為に眩暈すら覚えた。
塔矢が俺の手首を開放し潤んだ目で俺を見つめる。
軽く寄せた眉や艶やかな唇−−−長い睫を濡らす雫がなんともいえず綺麗で目が離せない。
互いの吐息が混じり合う距離で塔矢の俯く、凄艶な美貌が囁いた。
「すまない。すべて……忘れてくれ……」
あいつは明らかな嫌悪の表情を浮かべ、オレから目を逸らす。
眉根に皺を寄せ瞼を閉じている
一瞬の間動けなくて、
「ふ、ふざけんなバカ野郎!」
と、殆ど無意識に塔矢を突き飛ばしていた。
訳がわからない。
「…で、走ってたら和谷んち来てた」
すっかり冷たくなったコーヒーを飲み干す。ちらりと和谷を見遣る。
だいたいのあらましを説明する間(和谷にしては珍しく大人しいな)とは思っていたが、
どうやらちゃちもいれられないほど驚いていたらしい。
口を大きくあけて、恐ろしいものを見たように愕然とした表情をしていた。
ムリないよな。俺だってビックリだもん
「おおおおまえマジで!?それ!」
今にも泡を吹きそうな形相に吹き出してしまった。
「おい!何笑ってんだよ。嘘だろ!」
「ほんとだって!……俺だって信じられないよ……」
「おい……マジなのかよ」
頭を抱えてぶつぶつ言っている和谷をみて苦笑していたら、やがて顔を上げオレの目を見つめてきた。
「な、なに…?」
なんだかひきつった声がでてきてしまった。
あいつは答えずにオレの目を探るような訴えるような眼差しを向けてくる。
なんでこの状況でそんな顔するんだよ?
答えの出ない疑問が頭の中をぐるぐると回る
ずっと注がれるせつない視線が気まずくって、ついに顔をそむけてしまった。
「だから、なんだよ」
「…っ……いや、なんでもない」
和谷が何か言いたげに口を開きかけたけど、なんだかでてくる言葉が恐くて気付かなかったフリをする。
聞いちゃいけない気がした。
さっきまでの寒気が嘘のように消え、いつのまにか手が湿っている。
なんだか、妙に緊張していた。
そのまま、オレが礼を言って家をでるまで、和谷もオレも何もしゃべることはなかった。
今日の和谷は変だった。
まるで、さっきの塔矢みたいだった。
同じように切ない瞳をオレに向けてきた。
あいつはいきなりキス…してきて、そして謝ってきた。
少し唇を噛んで、すごい後悔してるって顔して…
そんなにオレの事が嫌いだったのか?目も合わせたくないほど?
オレのファーストキス、お前に奪われたんだぜ?
ってオレも『奪われる』ってなんだよ。ヤベー…
帰りながら心の中でツッコミを入れて、なんだか切なくなってきてしまう
でも、唇ってあんなに柔らかかったんだなぁ
わー!何考えてるんだよ!男のだぞ!男の!
ヒカルは深呼吸を一つついて頭の中の考えを払拭した
しかし心とは裏腹に、ふと艶かしい感覚が頭を過ぎりいつのまにか頬を染めていた
(4)
ついに、堕ちた――――
ぼくはとうとう足を踏み入れてしまった……
留まることができてよかった。
あそこで止めなければきっと進藤を傷付けていただろう
濁流のごとく躯を駆け巡る烈情に…ボクは……
こうなりたいという願望があっても、例え夢に見るまでにそれを欲していても
…恐かった
自分が男であるということは重々承知している
そのうえで彼に思いを寄せる自分を恥じるつもりはない
だが一抹の不安がどうしても拭い切れない
一つの小さな染みがどんどん広がっていっていくように、その事があらゆる懸念へと派生していく
まだ、進藤に突き飛ばされた時の痛みが消えていない
壁にぶつけた後頭部にはたんこぶらしきものができていて、まるで主張するかのように痛む
『ふざけんなバカ野郎!』
甘美な記憶と苦い言葉が交差して幾度となく再生される
彼も、いっそ、僕の所まで堕ちてくれたらいいのに−−
まだざわつく心のまま駐車場へ着くと、緒方さんが車にもたれて煙草をふかしていた。
「お待たせしてすみませんでした」
軽く頭を下げて車のドアを開ける。
そこで初めて、緒方さんの視線に気がついた。
微動だにせずにボクを見下ろしている。いや、まるで観察するかのような眼差しで。
「どうかされましたか?」
眼鏡の奥の色素の薄い瞳は思考を読みとるのに難い。
緒方さんは目を逸らし僕の質問には答えずに最後とばかりに煙草を大きく吸う。
白いスーツの胸ポケットから携帯灰皿をだしソレを揉み消した。
まるでなにも聞こえなかったかのような態度に少々肩透かしをくらう。怒ってる?
「さぁ行こうか」
そう言って緒方さんが車に乗り込んだので、ボクも慌てて低い車体の助手席に座った。
まだボクが訝しげに見つめていると、やれやれとでも言いたそうな顔を向けて、ようやく薄い唇を開く。
「アキラくんは進藤が絡むと別人のようになると思ってな。
いや、囲碁以外のものでこんなにも激情するキミを初めて見たからかもしれん」
怒ってるわけじゃないんだ―
「ボクは、進藤には人をそうさせる何かがあると思っています」
そう答えると緒方さんは口元に含み笑いを湛えてエンジンをふかして車を出した。
「おやおや肯定したか。いつの間にキミが進藤を追う立場になったんだい?」
進藤を追う?いつからも何も、胸の中では出会った時から変わらず彼を求め続けている。
碁会所で二度打った、ボクを完敗させた彼の幻影から今も逃れられない。
そうしてようやく辿り着いたと思った答えは、確かな証拠も見つけられないまま宙ぶらりんの状態である。
未だ胸の中でわだかまっている。
だが確かにあの一局は存在したんだ。
「まるで恋してるみたいだな」
俯いているとなんだか楽しそうに緒方さんが言った
――――恋――――
そう。ボクは彼を恋い焦がれている。でも初めからこんな気持ちだった訳じゃない。
出会った頃は、彼のへの力におののき、畏れ、憧れた。
同い歳なのに到底越えられない壁に感じられて自信を喪失した時期もあった。
「そうですよ。恋しています。彼の打つ碁に、ね」
「ハハハ」
ボクも口を笑みの形にする。からかい口調の言葉にこっちも冗談を言ってみる。
緒方さんはもちろん本気にしてないように笑った。
けど口に出してみると切なくて、本当は冗談なんかじゃないと、自分のものにしたいと
大きな声で叫びたかった。
「でもボクは彼に酷いことをしてしまった…。」
進藤の怒りに潤む瞳が脳裏を過ぎる。
こんな事緒方さんに言ってもしょうがないけど、どうしてか口をついてでてしまった。
いつのまにか家の近辺まで来ていた。雨はもう小降りと言えるくらいになっている。
「アキラ君。人はな、誰かを好きになるとなりふり構わず相手を自分のものにしたくなるところがある。だが
本当にその人のことを好きになった時、いつしか相手の幸せが何なのかを考えるようになっていくものなんだ。」
視線は前方を向いたまま緒方さんが諭すような、いつになく優しい声音で語る。
その言葉は少しだけイタイところを附いていて、緒方さんが何もかも見透かして
いるというように感じさせた。気付いているのだろうか?
悔しくてつい『緒方さんはどうなんですか?』と聞き返しそうになったが、その言葉は飲み込んでおいた。
そうかもしれない。
だとしたら、やはりボクは進藤に関わらないないほうがいいということになる
「緒方さん。一体何人目の彼女のお言葉なんですか?」
「おやおや。するどいな。」
おどけたようにスーツの肩を軽くすくめる。
「だが質問には答えられそうもないな。はたして、何人目か何十人目か、記憶に残ってないものでな。」
緒方さんは酸いも甘いも噛み分けた男の顔で洒脱に口の端で笑うと
「着いたぜ」といってボクに降りるように促した。
仕方なく、碁会所から持って来た傘をさして降りたがさっきの緒方さんの言葉が引っ掛かってしまう。
「なんだ?」
ドアを閉めてもまだ家に入ろうとしないのを不審に思ったのか、わざわざ窓を下ろして問い掛けてきた。
「緒方さんは…進藤にとっての幸せってなんだと思いますか…」
「…やっぱり好きなのか」
「ち、違います!」
「フッ。まぁそれが分からないようならまだまだという事なんじゃないか?」
ボクが悄然と立ち尽くしていると、くっくっくと忍び笑いをしながら
「今日はゆっくり風呂にでもつかるんだな」と言い残して緒方さんは帰ってしまった。
やっぱり気付いているんだ。
ボクはからかわれている。
分かっていても、妙に緒方さんの言葉が頭に残っていた。
(5)
今日も雨だった
梅雨があけたら、今度は台風らしい
独り和室でパソコンに向かいながら、ちらりと窓の外を見遣る
雨がザァザァと庭木を打ちつける
いつかもこんな雨だった
そう、あれはsaiとネット碁を打った日だ
ふっと懐かしさか込み上げる
もう一年以上も前になるのか。だがあの時の棋譜は忘れた事はない
葉瀬中との対戦を経て進藤のふがいなさに落胆していたボクは、saiと彼は違う人物だと考えた
でも今は違う
彼と対局する度に彼の一手一手に、saiがちらつくから
木製の机も、椅子も、あの時と変わらずここにある
ディスプレイの隣には本立てがあって、その反対側には四角い置き時計
そして雨
あの時となんら変わらない部屋と、あまりにも変化してしまった僕の感情
畏怖がどうやってここまで屈折した愛情に変わったのか
もう正確に辿る事はできない
パソコンの電源を落とす
何をしていても進藤が頭から離れない。つい彼に想いを馳せてしまう自分がいる
今日だってそうだ
対局前だって、対局中でさえ彼を目で追っているんだ
そして、そんな自分に気づいては彼から目を逸らす
関わってはいけないと、関わらないと決めたくせに、心が彼を求めてしまう
一瞬でも、例え偶然でも、目が合えば嬉しくて、あながちボクも嫌われてはいないのかもしれないと考える
でも目が合った後でも、彼が駆けよるのはボクではなくて…
苦しそうに眉根を寄せたアキラはデスクに細い肘をついて、キーボードを見つめた
「進藤…」
雨の中、触れた柔らかな唇や絡めた甘い舌を思い出す
「進藤…」
もう一度彼の名を呼ぶ。熱い吐息が漏れる。身体の芯が熱く燃え上がるようだ
自然と手は熱を持ち始めた身体の中心に伸び、ズボンの上からゆっくりと撫でる
「…はぁっ…」
すでに服の上からもはっきりと形が分かるその先端を掻く
身体がその軽い刺激にぴくりと反応した
アキラは掌で、高ぶる牡の象徴をゆっくりと撫でる
もどかしさがつのるのと同時に、次第にズボンの圧力が苦痛になりファスナーを下げて紅潮したものを手に取る
すでに熱く脈打ち、直に手にとり軽く上下にこするだけで一瞬のうちに耽美な世界に引き込まれ
何も他の事は考えられなくなる
求めていたそれを手にした喜びに身体は歓喜に震えていた
「はぁっ…しんどう…」
頭の中では進藤を貫く自分がいる。まだ見ぬその悦楽を想像しながら手の動きは徐々にスピードを増していく
「…はっ」
無意識に腰が浮いて上体をデスクに預けた
キーボードがカチャカチャと音をたてた
「はぁっ…」
進藤の一糸纏わぬ姿に自分が重なっている
唇だけじゃ足りない
あの桜色の唇から零れる喘ぎを聞きたい
あの白く滑らかな肌に触れてみたい
手で唇で、彼の全てを味わってみたい
できるならばどんなにか気持ちいいだろう
アキラの手の動きは高まりに比例して速くなる。
「…んっ」
進藤…
何かを掴むように伸びた手に時計が当たり、ガチャンとデスクから落ちた
「―――っ!」
先端の先にかぶせるようにしてあてがわれた手に自分の快楽を吐き出す
身体を走り抜ける波に身を委ね、暫くその快感に見を任せていた
荒い息を整えると上体を起こして椅子に座り直す
自慰に耽溺した代償は左手にねっとりとこびりついた白濁液
いささかの罪悪感を胸にティッシュで掌を拭いて、乱れた髪を直すと、アキラは深い溜息をついていた
―――進藤に関わらないなんて、やっぱりボクには無理なんじゃないだろうか
アキラは小さくかぶりを振ってその考えを打ち消すと、足早に洗面所に向かった
昼下がり、対局場に降り注ぐ穏やかな陽の光がヒカルの前髪を黄金色に染めている
斜め前に相対する具合に座ったアキラが盗み見るようにそれを見つめていた
真っ直ぐの髪を揺らし顔を背けては、また視線を送る
「くっ…!」
ボクの打った白石に対局者が小さく声を漏らした
この一局はもう終局まで道は見えている
相手は年齢こそ自分より一周りも二周りも上回るのだろうが、腕はたいしたことはない。
すんなり白星をもらうことができそうだった。
今日何度目かの視線を進藤に送ると、いつのまにか彼の対局を和谷が熱心に覗きこんでいた。
無意識に目を細める
いやなリズムで心臓が脈打つ
観戦したい
いや…だめだ
考えを払拭するように瞳を目の前の碁盤に落とす
もう、関わらないと決めた
そう心に決めた時から、早十日経つ
「…むぅ…」
相手は口をへの字に曲げてさっきからずっと長考している
しきりにハンカチで広い額の汗を拭う
無駄な事を
どんな手できたって、逆転などさせはしないのに
「…ありません」
相手は強張った顔で薄くなった頭を下げた
やっとのことで喉の奥から搾り出したとでも言うように、およそ年齢とは不釣り合いな頼りない声だった
「ありがとうございました」
眉一つ動かさず頭を下げる。だが意識はとうに対局から離れ、再び進藤の事を考えていた
「ありがとうございました…」
あおざめた顔でそそくさと席を立ち去る相手には目もくれず、彼の方を確認する
どうやら進藤も終局したらしく、相手は碁盤を見つめ肩を落としているように見える。
初段だという肩書に捕われ、侮ってでもいたのだろうか
彼をそんな事で見くびってもらっては困る
刹那、進藤と目が合った
俯く対局者の肩ごしに立て膝をついてボクを見ている
大きな瞳が、明らかになんらかの意思を籠めて輝いていた
ボクは突然の事に目を反らすことさえかなわない
進藤の物言いたげな眼差しをただ見つめ返す
何がいいたい?
思いも寄らない状況に心の隅で何かを期待していたのかもしれない
だが絡み合った視線はすぐにほどけてしまった
和谷に話し掛けられ、進藤はまるで先程の事など何も無かったように柔らかい笑顔を向けている
そのまま二人は立ち上がりボクの視界から消えてしまった
見るともなく二人を見ていると、さっきの進藤の眼差しに、なんらかの意図があったなんて
考えが怪しまれてくる
ボクの思い過ごし?
ボクの独りよがりな思いが見せた幻想なのか?
「…ハハ」
小さく声が漏れた
自分を嘲笑う
何をやっているんだ、ボクは
進藤に関わらないと決めたくせに、考えることは彼の事ばかり
このままじゃいけないと思っていても、どうしても緒方さんの言葉が気になった
確かに次は彼にどんな事をしてしまうか分からない
自信がない
そうは言っても今の気持ちを放置することなんて、すでにできることじゃない
―――いっそこの思いを全て打ち明けてしまおうか
そこまで考えて自分がまだ対局場に居た事を思い出した
まだ終局していないところもあるが、すっかり人はまばらになっている
屋上に行って新鮮な空気でも吸いたい気分だった
|