散光 1 - 5


(1)
中学の卒業式の後、ユン先生に挨拶をしようと一人で囲碁部の部室に向かった。
他の生徒達が遠く離れた校庭で別れを惜しみつつ写真を撮り合う声が聞こえる。
「君は特別な生徒だった。いろんな意味で。」
いつもの席から静かに立ち上がるとユン先生はとちらに歩み寄り、優しく髪を撫でてきた。
アキラにとっても先生がこの学校で最初から最後迄味方でいてくれた唯一人の人物だった。
塔矢名人の息子ではなく一人の生徒として向き合ってくれた。
だからユン先生の指が髪から顎へとなぞるように動き、制服の首元のホックを外す動きを
見せた時も特に抵抗しなかった。
ユン先生ならボクに酷い事などしないはずだ、するはずがない、と頭のどこかでそう考え
制服の前を一つ一つ開かれながらもただぼんやりと、先生の顔を眺めていた。
先生の背後の窓の外にある1本だけ他より何故か早く花をつけ、穏やかな光の中で狂ったように
散り舞う桜の花を見ていた。


(2)
「君のこの制服姿をもう見られなくなるのは淋しい。誰よりも君に似合っていた。」
制服の前を外し終わると一度ユン先生は指を離し、じっと見つめて来る。
いつもと同じ優しい目だった。
ボクは外されたホックを元に戻そうとして首元に両手を持って行った。
指先が微かに震えた。その両手首をユン先生にそっと掴まれて、両脇に戻させられる。
「脱がすつもりはない。ただ、もう少しそうしていて欲しい。」
先生の手がボクの手首から肩へと腕を摩るように上がり、そのまま頬に
宛てがわれて来た。温かい大きな手だった。
先生の顔が近付けられて来る。
目を臥せると同時に同じく温かい唇が伏せた目蓋の上に触れられて来た。
目蓋に温かい先生の息が吹きかかってきた。左の目蓋から右の目蓋へ熱が移動していく。
「あ…」
頭の中心が痺れるような感覚が走った。
熱は中央の鼻筋を辿って、やがて唇の上に重ねられて来た。
春の穏やかな窓の外の輝きに比べると教室の中は薄暗かった。


(3)
自分の心の中に隙間があったのかもしれない。空虚という名の。
中学校生活というものに何も期待はしなかった。3年生となって登校しない日も多かった。
学校の行事にも参加しなかった。その結果は今日突き付けられた。
別れを惜しむような相手はこの場所には居なかった。
今後同窓会というものに自分が参加することはないだろう。
もう一度会いたいと思うような相手が居ないのだから。
教室の黒板に傷が付いた訳もクラスメイトのあだ名の由来も知らないのだから。
「後で会えるかい?二人だけで。」
卒業式直後、講堂を出る時に小声でユン先生にそう言われた。
それに同意し頷く事が何を意味するか何となく理解していた。
ただその時は、ここでの先生との行為が学び舎という場所から遠く離れたものになるとは
想像出来なかった。
重ねられた唇の隙間からさらに熱を持った舌が差し込まれて来る迄は。


(4)
やめてください、と言葉と行動で拒絶すればすぐにでもユン先生は止めるだろう。
そして「すまなかった、つい」と、謝り、少し気まずい空気は流れるだろうけど
もう会う事もないだろうから多少軌道を外れた師と生徒の別れ、で済む。
それだけ先生はボクの事を気にかけてくれていたのだと片付ければいい。
だけどそうは出来なかった。そんなに強い力ではなかったのに、先生の両手から顔を引き抜く事が
出来なかった。少しくらい構わないと思ったのだ。
差し込められた舌がアキラの舌を捕らえて絡み付き、優しく愛撫してくる。
開きかけた目蓋を閉じてアキラは先生のキスを受け入れた。
目を閉じても狂い咲く桜の映像が頭の中に鮮明に映る。
桜に酔ったのかもしれない。
抵抗の兆しのない相手の唇を先生は奪い続け、やがて頬から両手を離して力一杯
目の前の体を抱きしめて来た。唇を離して片手で頭を抱くようにしてもう片方の腕を
背中に回し、息が詰まる程に締め付ける。
アキラもそおっと先生の背中に両手を回して優しく撫でた。
「お世話になりました」と小さく声を掛けて、そうして離れる。それで終わりだ。
だが先生の腕の力はなかなか弱められなかった。むしろ力が込められてきた。
そして背中に回されていた先生の手が制服のズボンとシャツの隙間から直接肌に触れて来た。
小さくアキラは体を震わせた。
背骨に添うように先生の温かい手が背中を上がって来たのだ。


(5)
「手放したくない。」
ほぼ耳に唇が触れそうな場所で囁かれる。実際先生の熱い息が耳の中に吹きかかり
舌が這って来た。
「はうっ…!」
脳まで直接触れられたような電気が走り、首や腕に鳥肌がたつ。
逃げようにも頭を抱えられ思うように動けない。
背中にあった手は脇の方に移動し指で下から肋骨を一段一段確かめるように再び上がって来る。
そのまま一歩一歩押されるように移動する。背後には隣の準備室のドアが半開きになっていた。
その部屋に連れ込まれる事がひどく恐ろしい事のように思える一方でその部屋で起きる事を
期待するものが頭をもたげて来る。
すでに熱いものがアキラの体の中心部に向かって流れ込みかかっていた。
アキラは孤独だった。父親も進藤も緒方もここしばらく周囲に居なかった。
理屈ではなく自分に向かって真直ぐに注ぎ込まれる熱情に心と体が飢えていた。
移動しながら手は先生の背中を掴んでいた。
「無理な事はしない。約束する。」
先生の胸に顔を埋めたままその言葉にやや間を置いて小さく頷く。
二人の姿を収めてドアは閉められた。
周囲の壁を戸棚で埋め尽くした中の狭い空間の中にやや不釣り合いに背もたれと
ひじ掛けのある大きな椅子があった。
押さえ込まれるようにその椅子に腰掛けさせられた。



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