Tonight 1 - 6


(1)
自転車で来ればよかった。
こうして電車の中でじっと立っていると訳もわからず気が急いて、駅に着くまでも電車の中でさえ走り
出してしまいそうだった。
早く。
早く、もっと早く。
はやる気持ちを抑えるように電車の中から流れすぎるビルや看板を見る。
以前にもこうして彼の家に行くためにこの電車に乗っていた。
あれはほんの一週間前。
いや、たった一週間さえ経っていないはずなのに、もうずっと遠い昔の事のように感じてしまうのは
何故なのだろう。
――塔矢アキラとも打てるんやな。
あの時、窓の外に目をやりながら誰に言うでもなく、社はぽつりとそんな言葉をこぼした。

塔矢アキラ。
その名を思い出すだけで、何故だかわからないけれど心が騒ぐ。
早く。早く駅に着け。もっと早く走れ。
各駅停車のスピードがゆっくり過ぎるような気がして苛つく。

――塔矢アキラとも打てるんやな。
塔矢アキラという、名前だけはよく知っている存在に対する、期待と、怖れと、不安と、そんなものが
入り混じったような声だった。
そうして3日過ごした彼の家へ、今度は一人で向かう。
知らない存在ではない。よく知っている相手だと思う。何度も打った。3日間、寝食を共にし、2日間、
共に戦った。よく知っている相手の筈なのに、なのに、もしかしたら自分は彼の事は何も知らないの
かもしれないと思う。
彼の何を知っているだろう。彼の碁と、彼の碁に向かう態度と、精神と、盤上を見詰める鋭い眼差しと、
それ以外に何を知っているというのだろう。
ガタン、と電車が大きく揺れて止まる。考え事に夢中になって目的の駅に着いたのに気付かなかった。
慌てて電車を降り、人波をかきわけて階段を駆け下り、改札を通り抜け、彼の家を目指してヒカルは走
り出した。


(2)
久しぶりに家に帰ってきて、久しぶりに自室のベッドに転がって天井を眺めていた。
一週間も離れていなかったのに、なんだか懐かしいような気がする。
それでも夕飯のお母さんの特製カレーは美味しかったし、ご褒美だと言われてちょっとだけ飲ませて
もらったビールは苦かったけど、やっぱり少し酔っ払ったみたいで、ふわふわしていい気持ちだ。
あまりにも色んな事がありすぎて、なんだか頭が一杯だし、酔っ払ってるし、さすがに今日はもう碁石
を持つ気にはならなくて、ベッドに転がったまま目を閉じる。
心も身体も疲れていたから、このまま寝てしまいそうだ、と思ったのに。
眠りに落ちかけていきそうになって、朦朧とした意識の内で、目の裏に浮んだ顔にはっと目を開けた。
がばっと起き上がって、ぶん、と頭を振る。
それでも、浮んでしまった映像は消えない。

風に揺れる艶やかな黒髪。
襟もとを緩める指と白い喉。
遠くを見る眼差しと口元に薄く浮んだ笑み。

自分の心臓の音を大きく感じる。
身体が熱く、火照ってくるように感じる。

熱を冷ますように今日の午後の穏やかな眼差しでなく、昨日の夜の厳しい表情を思い出そうとする。
「無様な結果は許さない。」
気性の激しさをそのまま映したような、真っ直ぐに睨み据える厳しい眼差し。振り返らない背中。
あれが自分が一番良く知る「塔矢アキラ」だ。
では、今日の負けは彼の眼にはどう映ったのだろう。
無様だとは思わなかったのだろうか。
昨日も、今日も、結局は負けたのに、彼の代わりに出た大将戦で、結局は高永夏には敵わなかった
のに、彼はどう思ったのだろう。
何を思って、何を感じて、あんな穏やかな笑みを浮かべていたのだろう。


(3)
あの笑みに、あの眼差しに、伝えるべき事があったような気がして、
何かを、言い忘れたような気がして、
何かを、言わなければいけなかったのに言ってなかったような気がして、
どうしても伝えなければならない事があるような気がして、

ダメだ。明日までなんて、待てない。
今すぐ。
今すぐ行かなければいけない。
今すぐに、彼に会って、伝えなければならない。

「ヒカル、お風呂…」
「お母さん、ごめん、オレ、塔矢んち行って来る!」

母親の声を背中に、スニーカーを引っ掛けて駅へ向かって走り出した。
走れ。走れ。
一刻も早く、この気持ちが消えないうちに、
会わなければならない。
伝えなければならない。

夜の住宅街を、足音も高くヒカルは駆けていった。


(4)
最初に誰が言い出したのかわからない。
表彰式が終わって、ラフな服装に着替えて、荷物をまとめてもうホテルを出ようかというとき、誰かに
誘われて庭に出た。行ってみたら韓国や中国のチームのメンバーもいてびっくりした。
スーツ姿しか見たことがなかったので、私服の彼らを見るのはちょっと新鮮だった。
そう思ったのは向こうも同じだったかもしれない。

ドアを開けて一歩足を踏み出すと、さあっと風が吹いた。
見上げるとビルに囲まれた狭い空はそれでも青く晴れていて、白い雲とのコントラストが綺麗だと思った。
風は爽やかで気持ちよかった。
ついさっきまで、テレビカメラやらマイクやらで厳重に固められた物々しい空気の中で息の詰まるような
戦いを戦っていたのに、終わってみれば、今日はこんなにもいい天気だったのだと気付いて、鬱屈した
心持ちが一気に洗いはらわれたような気がした。
頬を抜け髪を弄る風を感じる。
爽やかな五月の空気を、強さと明るさを増しはじめた初夏の日差しを感じる。
木の葉っぱは緑色でまぶしい光を受けてキラキラ光ってるみたいだ。
「キレエやろ、」
そう呼びかける声が聞こえて振り向くと、社はヒカルではなくアキラに向かって話していた。
「そうだね。」
とアキラが答える。
高永夏が韓国語で何か言い、アキラがまたぎこちない韓国語で答える。
社と高永夏に挟まれると塔矢もちっちゃく見えるな、と、何だかおかしな気分で彼らを見ていると、アキラ
がヒカルの視線に気付いたのか、振り向いてヒカルを見た。
「いい天気だな。」
ヒカルが言うと、
「そうだね。少し暑いくらいだ。」
アキラは少し襟もとを緩めながら笑って答えた。


(5)
その顔に、思わず見惚れてしまった。
目を離せないでいると、アキラは、なに?と言うように小さく首を傾げる。変わらず穏やかな微笑みを浮か
べたままで。
「……何でもない。」
あんまり綺麗だから、見ているとなんだか泣きそうになってしまって、風に弄られて顔にかかる髪を避ける
ように風の拭いてくる方向に顔を向けた。
「気持ちがいいね。」
と言うアキラの声が聞こえた。
「天気が良くて、風は爽やかで、」
風は爽やかで、日差しは眩しくて。
新緑と光に溢れた庭にこうして立っていると、何かに許されたような気になる。
それが何かはわからない。
ただ、何か、優しくて、美しくて、そして神聖な、この世にあるもの全てを許し、あるがままに認めるような、
そんな何かが、いまここに存在しているような気がして、その存在を探し求めるようにヒカルは顔を巡らせ
空を見上げ、


そして、それを見つけた。


(6)
五月の風にはためいている鯉のぼり。

佐為。

突然、あの日を思い出した。
いや、思い出さないようにしてただけなのかもしれない。
一年前の今日、消えてしまったあいつ。
あの時も、同じように風が吹いてた。
窓から入り込む風にカーテンが揺れてた。
窓の外に鯉のぼりが見えた。

おまえ、最後にどんな顔してた?
どんな気持ちで消えてった?
思い残すことはなかったのか?
どうして、どうしてオレに黙って、何も言わないで、一人でいっちゃったんだ?

でも、今日の光に溢れた空気の中にこうして立っていると、爽やかな風を感じていると、もしかしたら佐為
もこんな風に全てを許されて、全てを受け入れて、千年の呪いからやっと解き放たれて光に溶けていった
のかもしれないと、思った。
それならきっと、やっぱり消えていったときにはあの夢に見たように、綺麗な穏やかな笑みを浮かべて
いたのだろうと思った。
それならいいんだ。
おまえがそうして笑っていってくれたんなら。
オレが、そう思いたいだけなのかもしれないけど。



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