黎明 1章
(1)
その部屋は甘い香りで満たされていた。
その甘さは、だが甘いというよりは甘ったるい、どこか不快な、ねっとりと身体に纏わりつくような、
その香りでひとを絡めとり、闇の底へ引きずり込むような、そんな甘さだった。
その香が毒であることを、初めから知っていた。知っていて、自ら進んでその中に溺れた。
耐え難いこの憂き世を忘れさせてくれるものなら、それが何であろうと構わなかった。
誰よりも大事だった人を失ってしまった悲しみを、何も知らずに笑って彼を見送ってしまった苦い
後悔を、彼を救うことも助けることもできなかった自分の不甲斐なさを、そしてその人はもう決して
還ってはこないのだという絶望を、忘れさせてくれるものならば、それが毒であろうと、いや、毒で
あればある程好ましい。そう思ったから。
彼は、甘い闇の中に堕ちていった。
月も星も見えない夜には、都は暗い闇に包まれ、人の通らぬ小路の隅や、明かりの消された
屋敷の奥部屋などには闇が凝り、その闇から妖かしが這い出る。
だがその部屋は絶えず灯され続ける小さな明かりのために全き闇となることはなく、暗い虚空
に囚われた彼の心とは裏腹に、常に柔らかな薄闇の中にあった。
甘い香りがいざなう夢うつつの世界の中で、誰かの手が触れる。その手は彼の身体をまさぐり、
着衣を一枚一枚剥ぎ取り、あたりに漂う濃く甘く重たい空気のように、ねっとりと彼の身体を絡
めとる。だが香のもたらす幻惑にとらわれた彼は、むしろ不快にも近い闇の中の手に、される
がままに自らの身体を任せる。熱く湿った息が彼の身体にかかり、耳障りな息遣いが彼の耳
に届く。
けれど、さらりとこぼれる髪の感触が、一瞬、大好きだったあの人に似ていると思った。
あの人ではない事など、わかっていた。
けれど、少しでも似ているところがあればそれでいいと思った。
ただ、人肌の温かさが恋しかった。
(2)
いっそ、会わなければよかったのかもしれない。
最期にそれでも一目会いたいと、思ってしまった事が間違いだったのだろうか。
あの冷たさを知らなければ、こんな闇に堕ちていく事もなかったのかもしれない。
甘い闇の中で朧に霞む思考の奥で、彼はそんなことを考えた。
身体は、皮膚の表面は、熱く火照ってきたように感じても、その芯はいつまでたっても冷え切っ
ていて、濡れてしまった蝋燭の芯にはどうやっても火を点けられないように、彼の身体も心も、
芯から燃え立たされることは、あれ以来、決して無かった。
抱きしめた身体は冷たかった。
冷たい水底から引き上げられた身体は、衣も、髪も、なにもかも濡れてずっしりと重く、そして
その身体は、凍りつくような冷たい水よりも更に冷たく、抱きしめたヒカルの身体から体温を奪
いきってしまうほどに、冷たかった。
かつては優しく微笑んだ美しい白い面も、かぐわしい香で焚き染められた長い黒い髪も、みな
泥と水藻に汚れ、優しい光をたたえて自分を見つめた目はもはや決して開けられる事はなく、
自分を抱きしめ、自分の中でその存在を主張していた熱い身体は、その熱を完全に失って、
ただ冷たく重い物体となって眼前に横たえられている。
その人の名を大声で呼ばわりながら、冷たくなってしまった身体を抱きしめた。
けれど、その声は決してその人には届かなかった。どんなに名を呼んでも、彼がその呼び声
に応えることはなかった。彼の双眸からとめどなく流れる熱い涙も、その人の身体をもう一度
温めるには足りなかった。だから彼の衣も、身体も、水に濡れ、泥に汚れ、その冷たさは彼の
身体の奥まで染み透ってしまった。
その時からずっと、彼の心も冷たい水の底に沈んだまま浮かび上がることはなく、また、浮か
び上がりたいとも思わず、水底の黒い石のように、沈み込んだまま冷たく動かずにいた。
(3)
それでも人肌が恋しいと思うのはなぜなのだろう。
この冷たく、冷え切った身体を暖めてくれるものなら何でもいい。誰でもいい。身体の、心の中
心にあいた虚空の闇を埋めてくれるものなら何でもいい。そう思って彼は一番身近にいた人に
抱きついた。それが誰であるかなどどうでもよかった。その事をその人がどう感じるかなどとい
う事も、どうでもよかった。ただ暖めて欲しかった。だから、最初は優しく抱いてくれていたその
人も、やがては呆れ怒って離れていってしまった。
それが誰であったのか、甘い闇に囚われた今となっては、記憶もおぼろげで、思い出せない。
それまでは、その人を好きだったのかもしれない。そんな風に粗雑に扱うような相手ではなかっ
たのかもしれない。けれど、誰よりも大切だと思っていた唯一人の人に置いて行かれて、「好き
だ」と思う気持ちも、「大切だ」と思う気持ちも、暖かい感情はみな全て、あの時一緒に冷えて固
まってしまったようで、好きだった筈の友人を怒らせてしまったことも、なんとも思わなかったし、
それが誰であったかも、もう、思い出せない。
なにもかも全てがどうでもいい。そう思った。
甘い香りのもたらす幻惑に浸っていれば、懐かしいあの人が優しく自分を呼ぶ声が聞こえるよ
うな気がする。ゆらゆらと揺れる視界の中に、逝ってしまったあの人の花のように艶やかだった
笑みが見えるような気がする。
けれど幻はただ微笑むだけで彼の身体を抱いてはくれず、甘い香りの朧な世界の中にあっても、
手の届かないもどかしさは消えることは無く、自ら思い描く幻は所詮幻に過ぎず、冷え切った彼
の身体を暖めてはくれなかった。
だから闇にまどろむ自分の身体に触れる手が温かいものであれば、それだけで、彼はその手に
縋りついた。心の中で今はもういない人の面影を思い描きながら、その人の手とは全く異なる手
に、自らを委ねた。
そうして自分の上を通り過ぎて行ったひとが、自分の中に熱を放出していったひとが、どれだけ
いたのか、それが同じ人であったのかそれぞれ別の人であったのかもわからない。そんな事は
彼にとってはどうでもいい事だった。
(4)
神様に怒られるのが怖いと、その人は言っていた。
だが彼は神など怖くはなかった。何よりも大切な人をある日突然奪われる恐怖に比べたら、恐
れるべきものなど何があったろう。神の怒りも、神の下す裁きも罰も、怖くはなかった。
いや、いっそ罰されたかった。許しよりも懲罰を。
誰よりも大切なあの人をみすみす失ってしまった自分自身に対して、何らかの罰が必要である
と、彼は感じていたのかもしれない。だから彼は神の怒りをかうような事を、進んで重ねていった
のかもしれない。それともむしろ彼自身が神に対して怒りを感じていたのかもしれない。
ならば彼の行動は神の無情への抗議か、挑発か。
だがそんな怒りも、今ではもはや甘い闇の向こうに遠く霞んで。
そして今、彼を襲う恐怖は寒さだった。
どれほど暖めても、温もりを感じる事ができなかった。
冷えて黒く固まった心を、暖めて溶かして欲しいなどと思いはしなかった。ただひと時、ぬくもりを
感じられればそれだけでいい。それ以上は欲しくない。初めはそう思っていた。
だが、甘い夢を見せる香はその代償として身体が震えるほどの寒さを彼にもたらした。香の見せ
る夢にまどろんでいる間はいい。けれどひとたびその香りが途絶えると、彼の身体は耐え切れぬ
ほどの飢餓感と、絶望的な寒さに襲われた。そしてそれを治めるための香を得ても、身体の芯か
ら冷え冷えと漂う空虚な闇は、やはり彼からぬくもりを奪ったままだった。
もはや彼を暖めるのは直接に肌に触れる人肌の温もりだけだった。だがそれも触れているその時
だけで離れてしまえばまた、同じような寒さに震える。けれどそれでも、何も無いよりは、例え一時
だけでも構わない。それなしには自分の生命さえ保てぬほどに、彼は人肌の温もりを欲した。
「寒い。」
小さく呟いて身体を震わせる。
呟きながら、この身を暖めてくれる誰かが来るのを待っていた。
(5)
また、誰か来た。
それが誰であるかもわからずに、彼はいつものようにその人の首に腕を絡ませ、唇に唇を重ね、
その人の体温を確かめるように身体を摺り寄せる。
だが、その人の反応はいつもとは違った。
いきなり身体を突き飛ばされてもまだ彼はぼうっとしたまま、焦点の定まらない目で、その人物を
見あげた。見下ろす視線が、黒く光る一対の眼光が、甘い闇を切り裂くように彼を射た。
「僕がわからないのか?」
鋭い声が彼を責める。反射的にその光から逃れようとしたが、両手で肩を掴まれていて、逃げる
事はできなかった。いや、彼の身体に、逃げ出すだけの力は、残されていなかった。
「だれ…だ…よ…」
口を利くのは久しぶりで、思うように舌が回らず、途切れ途切れにしか話せない。
「近衛!」
近衛、だって?そんな名はもう捨てた。彼を守りきれなかった自分に、今更守れるものなどない。
「誰…だ、よ……知らねぇよ、おまえなんか…!」
折角最近では忘れていられたのに、なんで今更思い出させようとなんてするんだ。
出てけ。おまえなんか知らない。おまえなんか呼んでない。
「なぜ、こんな所で、こんな事をしているんだ…!」
「な…んだよ、おまえになんか、関係ぇねぇよ…、どうでも…いいじゃねぇか、そんな事…」
そう言いながら目の前の身体に抱きつき、袂から手を差し入れ、裸の肌の温もりを求めた。けれ
どその身体は彼の望む温もりを与えようとはせず、彼の身体を引き剥がした。
「やめないか!」
「なんだ…よ、何しに…来たんだ…、俺を…暖っためてくれるんじゃなかったら、こっから…
出てけ、よ…!」
(6)
「どうぞ手荒になさいませぬよう。」
彼をこの部屋へと案内した女房が、香炉を手に低く声をかける。そこから広がる甘い香りが一段
と濃密に室内を満たすと、少年の目はまたとろりと溶けて甘い香の闇に沈んでいった。彼はその
女房を睨みつけたが、彼女はその視線をやんわりと受け流し、「どうぞごゆるりと」と、不気味な笑
みを残して消えていった。
何もかもを甘く包み込むような濃い香りの闇をじんわりと照らす小さな明りの元で、香のもたらす
まぼろしに心を奪われた少年を、信じられない、という思いで見つめる。
ふっくらと可愛らしかった頬はこけ、顎は細くとがり、健やかな血の色を失って窶れ果てたその顔
は、どこか淫靡であった。大きな瞳は憂いに満ち、甘い香の効果に焦点の合わないその眼差しは
妖艶ですらあった。ほっそりと白い首が少女めいた面差しを支え、すっかり肉の落ちた肩は薄く、
腕は細く、これがかつて剣技の冴えを称えられた、幼くとも勇敢な少年検非違使と同じ人間である
とは、俄かには信じがたいほどであった。ましてやその彼が、魔の香に囚われ、相手構わず肌の
暖かさを求める程に堕ちていようとは。
少年のその様子に、耳に入った噂がほぼ真実に近かった事を思い知らされて、暗澹たる思いで
彼は横たわる少年を見つめた。ここまで堕ちてゆくに足る程の彼の絶望を、苦しみを思い、また、
彼をこれ程の闇に追い落とした人物の儚さを嘆いた。そして、彼がこれ程までに苦しんでいた時に
傍にいてやる事もできなかった自分の無力さを、彼は呪った。
そうして束の間、痛ましい眼差しで少年を眺めた後に、彼は意を決したように眦をきりりと上げて立
ち上がった。
(7)
引き戸の外に控えていた先程の女房が、同じように微笑んだまま、彼を迎えた。
睨みつける視線も気にかけず、つと立ち上がると彼に目配せし、ついて来い、というように身を翻
した。廊下を渡り、女の向かった部屋は、どこか異国の香りの漂う豪華な調度で設えられた部屋
だった。部屋の中央に女は腰をおろし、勧められるままに彼も女の向かいに腰をおろす。
悠然と座るそのさまと、傍らに使える女童の態度からこの女がただの女房でなくこの屋敷の主で
ある事に気付き、彼は眼を見張った。高貴な身分の女性がこのように人前に姿をあらわすなどと
は考えがたい事であった。けれど女は彼の驚き、非難するような眼差しを平然と受ける。
女の醸し出す空気は、先程までいた室内を満たしていたものと同じように、甘く、からみつくように
ねっとりと甘く、その空気は彼にとってはひどく不快であった。
なぜ、かの少年が、この屋敷にあのような状態でいるのかわからない。けれど、それが、この得体
の知れない女の意の結果であろうという事だけが、彼にはわかった。
それならば、と、彼は意を決して女を見据えた。本来であれば目通りも許されぬであろう高貴な存
在に向かって、臆する事もなく。
(8)
「彼を返していただく。」
低く鋭い声で彼は言った。
彼のきつい眼差しに、けれど女は髪の毛一筋ほども怯む事は無くただそれを受け止め、その顔
に笑みを浮かべたまま、変わらぬ甘く柔らかな声で、言葉を返した。
「返す、とは、これはまた異な事を。」
ぎらりと彼女を睨みつけると、彼女は、ほほ、と小さく笑って言った。
「雨に震えている仔犬を拾って、望むものを与えてやったというのに、そのような目で睨まれる謂
れはありませぬ。」
彼の視線を軽く流した女に向かって、低く、押し殺したような声で彼は尋ねた。
「彼が、何を望んだというのです?」
「熱い人肌と甘い夢。わたくしはただ、あの者の望むものを与えただけ。」
夢見るようにうっとりと、彼女は言った。
それから、その夢見る眼差しのまま、続けた。
「あの者を返せ、と言うそなたは、あの者をどこへ返すと、そしてあの者に何を与えられるというの
です?」
「彼自身を、彼自身のいるべき所へ。」
「ほ、」
彼女は大きく目を見開き、可笑しそうに笑い出した。
「ほほ、ほほほほほほ、それはそれは…ほほ、まあ、可笑しい。」
彼女は立ち上がって彼ににじり寄り、覗き込むようにその目を見ながら、尋ねた。
間近に目と目が合って、ぞくり、と背筋が震えた。
深い、底の知れないような黒目がちの瞳のその色に、我知らず、自分の背を嫌な汗が伝い落ちる
のを感じた。
この目に、この闇に、飲み込まれてはいけない。
「それでは、そなたの望むものは何です?」
歌うように彼女は問い掛ける。
「そなたはそなた自身の望みを、本当にわかっているのですか?」
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