天涯硝子 10
(10)
軽く唇を吸われながら、ヒカルは何と言って冴木の腕から逃げ出そうかと考えていた。
水がこぼれ、ほとんど空になったコップを握りしめ、ヒカルは自分でもわかるほどガタガタと震えた。
「…そんなに怖がらなくていい」
冴木の穏やかな声が聞こえ、ヒカルはかたく閉じていた目を恐る恐る開けた。
「冴木さん、オレ駄目だから。…もう体が」
「汗かいて気持ち悪いだろ? シャワー浴びておいで」
あわてて言うヒカルに、冴木はやさしく言った。
「立てるか? 今日はもう休もうな」
冴木はヒカルを立たせると、手を引いて洗面所に連れて行った。
「タオルを用意しておくから」
冴木はそう言うと、ヒカルが握りしめているコップを取り上げ、あっさりと出て行った。
また服を脱がされ、冴木に抱かれるようなことになると思っていたヒカルは、
ひとりで真っ赤になってしばらく立ち尽くした。
「そうだよな。…明日、手合いがあるって言ったんだし…」
ヒカルはのろのろと服を脱ぎ、バスルームに入った。
ぬる目のシャワーを浴びていると、冴木が何か声をかけてきた。
「……イン…アンド………から」
そう聞こえた。
ヒカルは生返事をし、シャワーの水を顔に当てて、口を開いた。
口の中に溜まった水を飲み込むと、とても喉が渇いていることに気づく。
無性に水が飲みたくなって、ヒカルはシャワーを浴びるのをやめ、バスルームから出た。
冴木の言ったとおりタオルが用意されており、それでさっと体を拭いて服を着ようとすると、
脱いで床に散らかしたままのはずの自分の服がなかった。
タオルを腰に巻いて洗面所に出たがヒカルの服は見当たらない。
「…冴木さーん」
呼んでみたが返事がない。
ヒカルは部屋に戻ってみた。どこにも冴木の姿がない。
「どこ行っちゃったんだろう…」
ヒカルはそう呟くと、喉が渇いていた事を思い出し、冷蔵庫を開けた。
勝手にウーロン茶のペットボトルを出してコップに注ぎ、飲み干す。
二杯、ウーロン茶を飲んで、やっとホッとした気持ちになった。
ヒカルはベッドに腰を下ろし、ひとり部屋を見渡した。
何か違和感を覚えて、少し考えてみる。
「…あ、時計がないんだ」
ベッドの枕元を見ても、目覚まし時計もない。
ヒカルはテレビのリモコンを取り、床にペタンと座った。
テレビをつけてみるとニュースをやっていた。チャンネルを変えてもニュース番組が多い。
しかし、だからといって、普段テレビも見ずに碁の勉強をしているヒカルには、
何時頃なのかさっぱりわからない。
「…冴木さん、どうやって朝起きているのかな?」
ヒカルはテレビを消し、ベッドに座りなおした。
この部屋は窓を開けて風を通しておけば、冷房がなくても涼しく過せるらしい。
冴木の部屋の周辺がどんな風になっているか、今まで気にもとめたこともなかったが、
熱帯夜の続く東京では珍しいことだ。
この部屋のことと、時計のこと。
それから、どこに行っていたのか、冴木が戻ってきたら聞こう。
ヒカルはそう思いながら、もう一度テレビをつけた。
ぼんやりと見ていると、眠くなってきた。濡れていた髪も半分ほど乾いてきている。
少しだけ…、そう呟いてヒカルはベッドに横になった。
お腹がすいたな、と思ってハッとして目が覚めた。いつの間にかすっかり眠ってしまっていたらしい。
体を起こしてみると、薄いダウンケットを掛けていた。部屋の中は真っ暗だ。
「…あれ?」
眼が慣れてくると、隣りで壁に背中を押しつけて、冴木が静かに眠っているがわかった。
外はまだ暗い。
しかし、開けたままの窓からうす青く空が見え、家々の連なる影に街灯の灯りが淡く輝いているのが見えた。
車の中で見た、あのうす青いものは、空の色だったのかもしれないとヒカルは思った。
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