身代わり 10 - 11


(10)
幽玄の間に入った瞬間、天野は妙な雰囲気だと思った。
互いを見つめ合う行洋とヒカルに、胸がざわめく。そしてそれは検討が始まると、ますます
大きくなっていった。
「……進藤初段、この一手の意図は?」
何度めかの質問である。だがやはりヒカルが口を開くことはない。
当たりまえだ。十五目の差を自らに課して打ったなど、言えるわけがない。
「進藤初段……」
誰もが焦れているのに、行洋ただ一人がすべてを心得ているというように腕を組んでいる。
そして質問を寄せ付けない空気をかもしだしていた。
にっちもさっちも行かない状態だ。
(塔矢先生までなんで黙っているんだろう。進藤くんのことを見下げたのかな?)
この一局を見れば、そう思わざるを得ない。
だがそうではないと、天野の長年の勘が告げている。
塔矢行洋は決して、ヒカルの評価を下げていない。
検討は早々に切り上げられた。誰もがすっきりしない顔をしている。
天野は退室しようとしている行洋を呼び止めた。
「塔矢先生、進藤くんと打ってどう思われましたか?」
「……進藤くんを待っていたのは、アキラだけではない。わたしもまた、彼を待っていた。
そのことがよくわかった。次は……」
誰の目も気にせず、二人だけで打ちたい。そんなふうに思う自分に行洋はわずかに驚く。
(不思議な少年だ。碁だけでなく、その気迫も、なにもかもが)
言葉を切ったまま、行洋は立ち去ってしまった。残された天野は首をかしげていた。
行洋の言葉はまるで謎かけのようだった。
(塔矢先生が待つほどの棋士なのか? 進藤くんは……)
手に持つ今日の対局の棋譜を見た。ひどい碁である。ここまでひどいのは過去にない。
それなのに行洋はなにかを確信したようだ。
天野は頭をかいた。しょせん自分は棋士ではない。わからないのも仕方がない。
「なんか進藤くんは、この先どうなっていくのか見当もつかないねぇ……」 
だからこそ、ヒカルの碁は未知数と言えるかもしれないと、天野はふと思った。


(11)
研究会に来た冴木の目に、一人碁盤のまえに座っているヒカルの横顔が映った。
ぶつぶつと独り言を宙に向かって言いながら、石を並べている。
その様子がなんだかほほえましかった。ヒカルが和谷とともにプロになったことを、冴木は
とても喜んでいた。研究会などがもっと活発になるであろう。楽しくなりそうだ。
冴木は声をかけようとして、ぎくりとした。
ヒカルは目をほそめ、あごを上に向けていた。
「んん……っ」
かすかに漏らしたその吐息に、冴木の背筋がふるえた。
ヒカルは唇をわずかに動かしながら、薄赤い舌の先を突き出している。
まるで誰かとキスしているように見える。
「ふ、んぅ」
さらに引き寄せる仕草をした。一瞬、自分のそでを引かれた気がした。
足がよろけた拍子に、戸が大きく音をたてた。ヒカルがすぐに振り返った。
冴木はぎこちなく笑顔を作った。
「進藤、早いじゃん」
「さ、冴木さん。おはようございます」
ヒカルは顔を赤らめた。今のを―――佐為とキスしているところを―――見られただろうか。
(ヘンに思われたら佐為のせいだかんなっ)
《ヒカルがしたいって言ったんでしょ。それに冴木さんには見えていませんよ》
(でもハタから見たら、オレ絶対キョドウフシンなヤツだよ。あ〜あ〜)
うつむいて石を片付けるヒカルの首筋を見て、また変な気持ちにさせられる。
自分のヒカルを見る目が、女性を見るそれと変わらないことに気付いた冴木は、目をそらす
ためにかばんから雑誌を取り出した。しかし内容は頭に入ってこない。
それどころか目のまえにヒカルの細い首筋が浮かんでは消える。そして先ほどのうっとりと
したヒカルの表情までがちらつきだした。
これでは思春期の恥ずかしい少年ではないか。
「それなに? マンガ?」
ひょいとヒカルが後ろから誌面をのぞき見る。息が頬に当たって、冴木は慌てた。
「なんだ、違うんだ。あ、この服カッコいい」
声が耳をくすぐる。落ち着かない。



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