平安幻想秘聞録・第三章 10 - 12
(10)
翌日。ヒカルと佐為は早朝に人目を憚るように参内し、帝との約束の
刻まで、気を落ち着けるように碁盤を挟んで対峙していた。対局に夢中
になっている間、ヒカルの集中力は半端ではなくなる。佐為もまた静か
碁石を置き、ヒカルの手に応えるだけで、言葉はなかった。囲碁は手談、
行き交う碁石の筋だけで、二人の想いは通じ合っていたのかも知れない。
二人は、そろそろお時間ですと、行洋が寄こした従者(ずさ)が呼び
に来るまで、ただひたすらに打ち続けていた。
「行こう、佐為」
「はい」
ヒカルたちが向かった先は、帝が日常生活を送る清涼殿から内宴など
が行われる承香殿へと続く渡殿(わたどの)の途中だった。後宮七殿の
一つ、弘徽殿の女御の指導碁の帰りに、帝と偶然出くわす手はずになっ
ており、尊い身分の殿上人が住まう場所だけに、衛士は多いが、関係の
ない貴族たちを閉め出すことができる利点もあった。
ヒカルは無言で佐為の後ろをついて歩く。廊下の先にたくさんの付き
人を従えた帝らしい人の姿を見て、ヒカルは速くなる鼓動を押さえよう
と深呼吸をした。そして、佐為に倣って廊下の端へと座し頭を低くする。
「これは佐為殿、弘徽殿の指導碁のお帰りか?」
「はい。弘徽殿の女御さまは、とても熱心でいらっしゃいますから」
恭しく帝に礼をした後、佐為が打ち合わせ通りに返す。
「うむ。これからもよろしく頼むぞ」
「はい」
「ときに・・・」
見えないまでも帝の視軸がこちらに向いた気配を感じて、ヒカルは床
についた手にぐっと力を込めた。
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「そこにおる佐為殿のお付きの者は、検非違使の近衛光ではないか?」
「そうでございます」
帝の問いに答えるのはもちろん佐為だ。近衛光の身分では、帝からの
特別なお声掛かりがない限り、直接言葉を交わすことさえできない。
「一昨年の大雨の折り、行方知らずになったと聞いておったが?」
「はい。近衛光は・・・」
打ち合わせ通り、佐為が続けようとしたとき、帝がそれを制した。
「佐為殿。その辺りは、近衛光に直に伺うとしよう」
「ですが・・・」
「身分のことを気にしておるのか?近衛光は、都の有事を救った立役者
だあろう。それに、以前、二言三言、言葉を交わしておる」
だから苦しゅうないということなのだろうが、ヒカルにしてみれば話
が違うというところだ。が、帝が光の答えを待っている様子がありあり
と窺える。このまま黙っていても不敬罪になるだけだ。
ダメで元々!平身低頭の状態のまま、ヒカルは覚悟を決めて、大きく
息を吸った。
「お、恐れながら、帝に申し上げます」
「うむ」
「私、近衛光が昨年、任務に赴いた先で不覚にも濁流に飲まれたことは、
お聞きになっていることと思います」
「そうであったな。して、そなた。今までどこにおったのだ?」
「はい。私が落ちました川は、大雨により水かさも増し、流れも速くな
っておりました。水を飲み、気を失った私は、思いも寄らぬほど川下に
流されました」
不思議なことに、話を切り出した途端、自然と言葉が出てくる。澱み
のないヒカルの口上に、帝がほうと感嘆の声を上げた。
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「幸い、意識がなく流れに逆らわなかったことが良かったのでしょう。
致命傷は受けずに済みましたが、しばらくは自分の脚で立って歩くこと
もできず、体力が戻り、都に帰れるようになるまで、二年の年月がかか
ってしまいました。その間(かん)、帝にも要らぬ心配をおかけして、
まことに申し訳ございません」
朗々としたヒカルの声に、佐為は驚きが隠せなかった。確かに明も交
えて帝への対応を協議はしたが、答える役は佐為のもので、当のヒカル
はそんな長い台詞、オレには絶対無理だな。舌を噛みそうだと顔を顰め
ていたのだ。
「うむ。そうであったか」
「はい」
「とりあえずはそなたが無事で何よりじゃ」
「はい、ありがとうございます」
低い頭を更に低くしたヒカルに、帝がついと近づく。そして、おもむ
ろに手にした扇子をヒカルの顎の下に当てると、そのまま掬い上げる。
つられてヒカルの顔も肩の高さまで上がり、覗き込むようにしている帝
とばっちりと目が合ってしまった。
し、白川先生〜!?
どこかで聞いた声だと思ってはいたが、まさか帝がヒカルの囲碁初心
者時代の恩師とも言える白川道夫だったとは。声も出ず、唖然と見返す
ヒカルに、帝は珍しく柔らかい笑みを向けた。
「なるほど、これは雛に稀なるほど美々な面じゃ。東宮が想いを寄せる
のも分かる気がするな」
そう言われても、何と答えていいのか分からない。気温も高くない季
節だというのに、だらだらと嫌な汗がヒカルの背中を滑り落ちた。
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