裏階段 ヒカル編 101 - 105


(101)
両者一歩も譲らない死闘から熟孝に熟孝を重ね先生が攻め入る。
そのまま僅差でsaiが封じ込められると誰もが思った。
その時saiが、これ以上はないという強固な守りを突破するべく絶対的な位置へ踏み込んだ。
モニターを見ていて思わず呻いた。見事なタイミングだった。
こうした命を削るような戦いをこのsaiはいったいどれだけこなして来たというのだろう。
以前のアキラとの戦いがいかにsaiが彼を軽くいなし高い視点から導こうとしていたとわかる。
強さだけでなく、相手を誘い道を開かせるきめ細やかなフォローを見せる一面もあった事から
女性の可能性も感じさせたが、今の画面の中の存在は覇王そのものだ。

今世の日本の囲碁界の王者が、静かに、ゆっくりとそのsaiに追い詰められていく。
覇者と導者、聖者と蛮族の双面を巧みにつけかえ、多くの者らを翻弄してきたsai。
先生の魂もまた、こうしてsaiに呑まれていくのが見える。
物欲的なものにも色的なものにも一切興味を持たず、その分を魅力的な打ち手に対してのみ
誰より貪欲であった先生のことだ。
画面の遠くで今どんな思いでsaiと向き合っているかオレには自分の事のようにわかる。
saiに、魅了されている。
最後のヨセまで待たず投了した事が先生の絶対的な服従と敬意を相手に示した証明だった。


(102)
先生がsaiの手に堕ちた。
信じられなかった。まだ何か手が残されているはずだ。勘としか言い様がなかったが、
投了した先生に代わってモニターの中の盤面を探した。
だがオレにはどうしても見つけられなかった。先生以上に敗北感を感じた。
これ以上の屈辱はなかった。漏らす言葉も見つからず口元が歪む。
saiに、それとも先生に対する怒りなのかは判らなかった。
「…クッ」
モニターに近付け過ぎていた顔を離して姿勢を戻し、軽く痛みを感じて眉間を揉む。
少なくとも先生がsaiと何らかの連絡を取り合った、それだけは間違いない。
「…sai…saiか…」
無意識にその名を繰り返していた。


一晩掛けて頭を冷やして次の日の朝、病院へ向かった。
勝算はなかった。事前に何も言わなかった先生だ。今尋ねたとしても何らかの情報を
教えてくれるとは思えなかった。それでも会わずにはいられなかった。
病室の前まで来た時、中から話声がした。
他に来客が居るとは思えない時間に先生は誰かと言葉のやり取りをしていた。
よく通るかん高い声と、他の者なら先生に対し決して使わない乱雑な口調。
ドア越しにも相手はあの進藤だと感じた。


(103)
ただ言葉の一つ一つはハッキリとは聞き取れず、そっとドアを開いた。
ドアの隙間から病室内に体を滑る込ませると同時に進藤が何やら興奮した状態で
「saiとまた打ちたいんでしょ、先生」
と確かに言い放った。
そして進藤がオレに気付いて振り返る。
「saiだと…?」
オレがそう聞き返すと、進藤は「うあっ」と素頓狂なうめき声をあげた。
その彼の表情が何もかも曝け出していた。
「やはりお前がsaiと関係があるんだな!?」
そう詰め寄ると
「ないっ!カンケイないっ!!さよならっ!!」
と慌てて進藤は部屋を飛び出し、オレも思わず進藤の後を夢中で追った。
先生が何か制するような言葉をオレに掛けたが耳には入らなかった。
まさに脱兎のごとく、進藤は病院の廊下を駆け抜けて行く。その後ろ姿がオレの中の
何かを更に煽り立てた。


(104)
――逃がすか!!
傍目に見れば、いい年をした大人がひと回りも体格の違う子供を血相を変えて追う図はかなり
奇異なものに映るだろうが、構ってはいられなかった。
先生とsaiの対局をオレに見せたのが碁の神なら、ここでオレを進藤に引き合わせたのも碁の神だ。
この場に及んでまだしらを切る進藤の態度に腹が立った。
ひらひらと目障りに視界の端を常に漂ったsaiの影を一息に捕らえ柱に打ち留めたかった。
「お前が先生とsaiの対局を仕組んだのか!?」
「ち、違うよ!!」
進藤の腕を掴んで引き寄せると、力の加減をする間もなく彼の体は中に浮き、そのまま壁に
叩き付ける格好になった。
たまたまその場所にあった消火栓の扉に進藤の背が当たって金属音が混じった音が鳴った。
硬質な病院の建物の廊下に思った以上にその音は響いた。
「…くうっ…!!」
痛みに表情を歪める進藤の衣服の胸元を掴みあげた。
進藤が怯え切った表情でオレを見上げる。
幼さが残るその顔でそういう表情をすれば、全てを誤魔化し逃れられると思っている。
だがオレの中で進藤はとっくにそういう「かわい気のある」対象ではなかった。
多少手酷い事をしてでも、何もかも吐かせるつもりがあった。疑問の全てを。


(105)
「お前がsaiを知っているなら…オレにも打たせろ!!」

口にした瞬間自分でも驚いた。
多くの進藤に問いかけるべき事があった中で、まっ先にその言葉を自分が吐くとは
思ってもいなかった。
「…緒方先生…」
「知っているんだな!saiを知っているなら…オレにも打たせろ!!」
進藤に迫りながら、いつのまにか自分の中で大きな存在になっていたsaiを思う。
オレもsaiに強く惹かれていたのだ。いつのまにか。
――saiに選ばれたいと望んでいたのだ。
そう自覚できた時、次第に体から力が抜けていった。
「オ…オレ、たまたま先生とsaiの対局をネットで見ただけです…!!」
力の抜けたオレの手を進藤は振払い、いつもながらの体裁を整えようとした。
こちらとしても、落ち着いて進藤と話をしなければと思った。
もちろん、追求の手を緩めるつもりはなかった。
時間をかけ、とにかく問い切る。進藤に真実を語らせてやる。
それには今のこの機会しかないと考えた。
その時脇のエレベーターのドアが開いた。
「…進藤!」
そこに居たアキラが驚いたようにオレと進藤の顔を見比べる。
「塔矢…!?」
進藤も驚き、必死といった様子で力任せにオレを突き飛ばすとアキラを乗せて来た
エレベーターに駆け込み逃げ去ってしまった。



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