日記 101 - 105
(101)
翌日、ヒカルを送っていった。いつもなら、助手席ではしゃいでいるであろうヒカルは、
今はただ流れる景色をぼんやりと見ているだけだった。緒方の愛車を見る度に、乗せて
欲しいとせがんでいたが、機会がなくてそのままになってしまっていた。漸く乗せてやる
ことが出来たのに……。
「……先生…ここでいいよ…」
駅の近くでヒカルは言った。彼の自宅まではまだ距離がある。
「家まで送るよ。」
ヒカルは静かに首を振った。歩いて帰りたいのだと言う。緒方は黙って、車を歩道に寄せた。
「先生…ありがとう…」
「……今度、ドライブに連れていってくれよな?」
ヒカルが静かに笑った。壊れてしまいそうだった。ここで下ろしてしまったことを後悔した。
ヒカルは緒方に頭を下げると、すぐに車から離れた。緒方は、ヒカルの華奢な後ろ姿が、
人混みに紛れてしまうまで目で追い続けた。
こんな風に自分を頼るヒカルが、何故、アキラを怖れるのか…。理由は、わかっている。
本当に好きだから………。
『アキラは見捨てない……蔑んだりもしない……』
分かり切っていることだ。だが、ヒカルにはそれがわからないのだ。何を言っても、今の
ヒカルには通じない。辛い。ヒカルにアキラほど愛されていないことが…。そして、
それ以上にヒカルが傷ついていることが…辛かった。
(102)
だるい…。歩くごとに身体が引き裂かれるようだった。
無理せず、緒方に甘えた方が良かっただろうか?ヒカルはすぐにその考えを否定した。
守られた居心地のいい場所。温かい腕の中。あれ以上緒方の側にいたら、離れることが
出来なくなりそうだった。緒方は、きっと際限なく自分を甘えさせてくれただろう。
でも、もう、出来ない。緒方の気持ちを知ってしまったから。
たった一人で取り残されたような気分だった。ほんの二日前まで、ヒカルの世界は
キラキラと輝いていた。見る物全てが、明るく美しい色彩で飾られていた。それが今は、
モノクロに閉ざされている。どんなに美しい物を見ても、心が動かない。
ヒカルは、息を切らせてその場にしゃがんだ。夏休み。至る所に人が溢れていた。人待ち顔で、
座り込んでいる者も少なくない。ヒカルが顔を伏せて座っていても、気にする者はいない。
ヒカルは安心した。彼らが自分を隠してくれているような気がした。
目を閉じて鮮やかな魚を思い浮かべる。それから、清楚なリンドウの花。ヒカルにとって
いま美しいと思える物はこの二つだけだった。
(103)
早く帰らないと両親が心配する。それに、もしかしたら、緒方が心配して電話を入れて
くるかもしれない。小さく溜息を吐いて、顔を上げた。何気なく見た視線の先に、良く
知っている姿があった。
「塔矢…!」
モノクロのフィルムで、そこだけ色が付いているようなそんな感じがする。息が止まるかと思った。
涙が出そうになる。一番逢いたくて、一番逢いたくない人。近づいてくるアキラから、
逃れるように物陰に隠れた。
通り過ぎるその瞬間まで、ヒカルの全神経が背中に集中していた。足音がすぐ後ろで
聞こえた。目をつぶって身体をますます小さくして、アキラが行ってしまうのを待った。
身体を縮めて蹲るヒカルに気づかず、アキラは通り過ぎた。
ヒカルは、慌てて飛び出して、遠ざかる後ろ姿を見送った。アキラの姿が見えなくなっても
まだそこに佇んでいた。
「…何で、ここにいるんだろ…塔矢…」
アキラの降りる駅はここではないのに…そこまで考えて、ハッと気がついた。わざわざ
自分に会いに来てくれたのだ。ヒカルが逢いたかったように、アキラも逢いたかったのだ。
「……家にも帰れないや…」
ヒカルは力無く、座った。先程と同じように、顔を伏せて目を閉じた。思い浮かんだのは、
アキラの顔だった。
(104)
誰かに、軽く揺さぶられた。ゆっくりと顔を上げて、その人物を見た。
「先生…」
帰ったんじゃなかったの―――――そう訊ねようとしたが、身体がだるくてしゃべるのも
億劫だった。
「立てるか?」
ヒカルの脇に手を差し入れて、抱きかかえるようにして身体を支えてくれた。ヒカルの歩調に
合わせて、緒方もゆっくりと歩く。
自分を心配して、戻ってきてくれたのだ。素直に嬉しいと思った。緒方を好きになれば
良かった。それなのに何故、求めている相手はアキラだけなのだろう……。
そのアキラにも、もう逢えないのだけれど…。
車の助手席に、壊れ物のように運ばれた。
「先生…家はダメ…」
息が切れる。一言ずつゆっくりと話した。
「……?」
緒方は、怪訝そうな顔をしている。
「…塔矢が…さっき…駅で…」
今帰れば、きっと逢ってしまう。そうしたら、自分は泣いてしまうだろう。
「……少し、流そうか…」
緒方が静かに言った。ヒカルは窓に凭れかかると、ゆっくりと瞳を閉じた。
(105)
目が覚めたとき、ヒカルは自分の部屋の中にいた。緒方が部屋まで運んでくれたのを
うっすらと憶えている。ゆっくりと階段を下りて、居間に入る。
「ヒカル、起きたの?」
母が声をかけてきた。お腹はすいていないかとか、あまり他人に迷惑をかけてはいけないとか、
緒方先生が若くてかっこいいので驚いたとか矢継ぎ早に言われた。
母の屈託のない言葉は、ヒカルに何となく安らぎを与えた。いつもと同じ。何も変わったことなどない。
あの日、家を出た後の続きがここにある。
―――――何にもなかった…オレは…すぐに家に戻った…
そう思いたかった。でも、現実はヒカルの心を裏切り続けた。身体のだるさや、胸のむかつきが
あれが夢などではないということを、ヒカルに突きつける。
「そうそう、塔矢君が来たわよ。お母さん何度も携帯に電話したのに…」
母の言葉にどう答えようかと思った。ヒカルは、携帯をなくしたとウソをついた。どこに
あるのかはわかっている。でも、取りにはいけない。
「もうなくしたの?まだ、一週間もたっていないのよ?」
「……ゴメン…」
母親はまだ何か言いたげだったが、ヒカルのあまりの顔色の悪さに話を打ち切った。
「緒方先生が、風邪をひいたらしいって言ってたわね。薬飲んだの?」
ヒカルは曖昧に頷いた。風邪薬で治るとは思えない。緒方も適当な言い訳を思いつかなかったのだろう。
自分が直接聞かれても、お腹を壊したとか、風邪ひいたぐらいしか言えない。
後で、アキラに電話をしておくようにと母は言ったが、出来るわけもなかった。それが
出来るなら逃げ回ったりしない。
ヒカルのために、母がお粥を作ってくれたが、一口も食べることが出来なかった。喉の
奥に石を詰め込まれているような感じがして…口に含んでもどうしても飲み込めなかった。
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