初めての体験 101 - 109


(101)
 一目惚れというものがこの世に存在することを初めて知った―――――――
 社は目の前で、上目遣いに自分を見つめる少年に、恋をしてしまった。彼は、可憐な外見とは、
裏腹に恐ろしく碁が強かった。

 自分の対局が終わったとき、次の自分の対戦相手を確認しようとして、まず、その盤面を
見て驚いた。そして、次に彼の姿を見て、何とも言えない衝撃を胸に受けた。目を離すことが
できなかった。
 どうにかして、自分を彼に認めさせたかった。最初に打った手は、彼の興味を引いたらしい。
つかみはオッケーだ。社は心の中で、ガッツポーズを作った。
 だが、ヒカルもただ者ではなかった。社の手に対して彼が放った一手に、社の方が
心を鷲掴みにされてしまった。
『はあ〜やっぱ、可愛いだけじゃないんや〜わかっとるな〜』
絶対、お近づきになりたい。必ず勝って、こっちを向かせてみせる。社の心の中に闘志が湧いた。
――――北斗杯の代表と進藤ヒカルどちらも手に入れたる!


(102)
 運命は非情だ。社は、負けてしまった。しかし、ヒカルの住所と電話番号を訊いておきたい。
それが、無理なら、せめて、メールアドレスだけでも…。
 社が、ヒカルに声をかけようとしたとき、チリチリと焼け付くような視線を感じた。
「?」
視線を感じた方に、首をむけると、一人の美少年がそこに立っていた。切りそろえられた
サラサラとした黒髪。涼しげな目元。だが、優しげな外見には不似合いな苛烈な色をその
瞳に宿し、鬼神のごとき形相で社を睨み付けている。
 その少年が、かの有名な「塔矢アキラ」だと知ったのは、二人の会話からだった。甘えるように、
ヒカルが名を呼ぶと、「塔矢アキラ」は、優しく微笑んだ。返すように、ヒカルも愛くるしい
笑顔をアキラに向ける。
―――――好きになったばっかで、もう失恋か…
知らず、溜息が出た。


(103)
 「なあ…?どないしたんや?代表なれるかもしれへんねんぞ?嬉しないんか?」
津坂が、社の顔を覗き込むようにして、訊ねた。
「…嬉しいで…嬉しいねんけど……」
もちろん、代表になる自信はある。越智にはきっと勝てるだろう。だが、代表になれば、
アキラとヒカルの仲の良さを、その間ずっと見ていなければいけないのかと思うと素直に喜べない。
そのくせ、ヒカルと一緒にいられる時間ができたことが、嬉しくて仕方がない自分がいる。
 社の口からは溜息しか出なかった。
「…何か心配やなあ…明日ホンマに大丈夫なんか?」
沈んだ様子の社を津坂は気遣った。
「津坂さん、大丈夫や。はよ行かな、新幹線、間に合わへんで。」
社は、無理やり笑顔を作って津坂を急かせた。

 ホテルの部屋につくとすぐに、ベッドに寝ころんだ。天井の灯りが眩しい。ヒカルの笑顔は、
もっと眩しかった。
「あ〜可愛かったなぁ…進藤…」
自分の内に芽生えた恋心を持て余して、ベッドの上をごろごろと転がった。
 突然、電話が鳴った。
「もぉ〜何やねん…」
しぶしぶ受話器を取った社は、フロントから思わぬことを告げられて、心臓が飛び出すくらい驚いた。
「し…進藤が!?すぐ…すぐ行きます。」


(104)
 エレベーターを待つ時間がもどかしい。いっそ、ここから飛び降りたい。
「そや!階段で行こ!」
一気に階段を駆け下りる。社の頭の中を、ヒカルがどうしてここに来たのかという疑問が
一瞬過ぎった。
「そんなんどうでもええ。進藤に会えるんや…!」
ヒカルに会えることの喜びでいっぱいだった。

 息せき切ってロビーへ走った。いた!すぐにわかった。髪型が目立つと言うこともあるが、
何より存在感が他とは違う。息を切らせている社をヒカルが見つけた。
「社。」
笑って手を振る。そんな何気ない動作にすら、社の胸は高まった。
「し…進藤…どないしたん?いや…何でここがわかったんや?」
社の問いかけにヒカルはにこにこ笑って応えた。
「津坂さんって言うんだっけ?あの人に訊いたんだよ。」
「社ともう一度打ちたくて…」
ヒカルが、社を見つめた。『でっかい目ェやな〜落っこちそうや』ヒカルの瞳にそのまま
吸い込まれそうだった。
「対局?オレと?…そやけどオレ、今マグネット碁盤しか持ってないよ?」
それで、構わないとヒカルは言う。早速、部屋で打つことにした。


(105)
 社は、自分の隣でエレベーターを待つヒカルを何度も盗み見た。信じられない。あの
進藤が自分の横にいる。自分より、頭半分小さい。肩も首も細く、触れたら壊れそうな気がした。
「社、背が高いね。」
ヒカルが話しかけてきた。慌てて、視線を前に戻す。
「そ…そんなことないよ。普通や。進藤が小さいから…」
「それって、オレがチビってこと?」
ヒカルがムッとした口調で聞き返した。まずい。機嫌を損ねたか?そんなつもりではなかった。
小さくて、可愛いと言いたかったのだ。狼狽える社を見て、ヒカルは、小鳥のように
クスクスと笑った。
「怒ってないよ。社、大人っぽくて落ち着いて見えるのになぁ。」
「オレかて、進藤と同い年や。全然落ち着いてない。」
すぐ側にヒカルがいるのに、落ち着いて何かいられない。今も心臓が早鐘のように打っている。
 エレベーターに乗り込むと、密室の中で二人きりという状況にますます社は戸惑った。
何か話題を捜さなくては…。好きなもの…囲碁に決まってるわな。趣味…誕生日…
ああ〜今この場面でどれもこれも、唐突すぎる!
 考えすぎて頭が真っ白になった。
「進藤って、塔矢と付き合っとるんか?」
よりにもよって、口から出た言葉がこれだとは…時間を戻したい。
 ヒカルは、きょとんとした顔で社を見つめた。また、その表情の可愛らしいことと言ったら…
食べてしまいたいくらいだった。その後すぐに、ヒカルは、ニッコリと(これまた、
最高の笑顔で)笑って、「うん」と頷いた。


(106)
 あかん…!完璧失恋や〜グラスハートは粉々や…
わかっていたこととはいえ、本人にこうハッキリ断言されると落ち込む。それでも、表面上は、
「へぇ〜やっぱり、そうなんか。」
と、傷ついているそぶりも見せずにヒカルに笑いかけた。オレって見栄っ張りや…
ヒカルもそれに応えるようにニコニコと笑っていた。

 「入って。」
ヒカルを部屋に招き入れた。散らかった荷物を一カ所に纏め、碁盤を取り出した。
「さ、打とか。」
振り返って、ヒカルに笑いかけた。と、同時に柔らかく首に腕が巻かれ、社の唇は、ヒカルの
それに塞がれた。ほんの一瞬触れただけのキスだった。その一瞬が、社の思考の全てを奪った。
固まったまま、動かなくなった社の頬に、ヒカルはチュッともう一度キスをした。
「〜〜〜〜〜〜な、な、な、何すんねん――――――!!」
狼狽えて、大声で怒鳴った。顔から火が出そうだ。耳まで紅くした姿で、怒鳴っても
てんでしまらない。社の首にしがみついたまま、ヒカルが言った。
「オレ、社としてみたい。」
その言葉の意味を把握するまで、たっぷり一分はかかった。自分は今、最高に間抜けな顔を
しているだろう。
「イヤ?」
首を少し傾けて、ヒカルが間近に顔を寄せる。
 「イヤ?」って、イヤなわけがない。でも…。
「そ…そやけど、自分、塔矢とつきあっとるんとちゃうんか?」
「うん。オレ、塔矢が大好き。一番好き。」
ぬけぬけと言う。だけど、そう言って笑う顔がまた憎らしいくらい可愛かった。
「でもね…強いヤツにも興味があるんだ…だから、社のこと知りたい…」
再び、唇を塞がれた。今度のキスはさっきよりもずっと深く重ねられた。


(107)
 社は、ヒカルの華奢な腰に手を回し、もっと深くヒカルを味わおうとした。ヒカルの唇が
軽く開き、社を招いていた。舌を差し込むとすぐにヒカルがそれに応えた。ピチャピチャと
互いの舌を吸い合う音が社を興奮させた。ヒカルを抱く腕に力がこもった。
「ちょ…ちょっと待って…」
ヒカルが、身体を捩って、社の腕から逃れた。
「あの…あのさ、オレ、痛いのとか怖いのイヤなんだけど…」
痛そうに肩や腕をさすりながら、社を見る。
 言葉の意味がよくわからなかった。ヒカルの顔を穴が開きそうなほど、ジッと見つめた。
「だからぁ、縛ったりとか叩いたりとか…」
顔を赤らめて、最後の方はごにょごにょとごまかすように、ヒカルは言った。
 漸く理解して、社の頭にカーッと血が昇った。それって……えす…!?
「あんた、まさか、塔矢と…!?」
「ち…ちが…!」
ヒカルが、速攻否定した。社の顔の前で、ブンブンと大きく手を振った。
「塔矢はそんなことしない。すごく、優しいんだから…」
頬を薄紅色に染めて、ヒカルは俯いた。首筋まで紅く染まっている。
―――――残酷やなぁ…
 嬉しくてしょうがなかった気持ちが、ほんの少し、しぼんでしまった。これから、SEXを
しようという相手に対して、平気で恋人ののろけ話をするなんて…。
―――――ホンマにオレとのことは、遊びなんやな…
いっそ「帰れ!」と、怒鳴ってしまえたら―――――出来るわけない…。遊びでも
何でもヒカルが欲しい。そんな自分にあきれる。
「どうかしたのか?」
ヒカルが社の顔を覗き込んだ。大きな目に情けない顔をした自分の姿が映っていた。


(108)
―――――うじうじすんな!ガーンと、いてもうたれ!相手のヤツから獲ったらんかい!
 これが、他人事なら平気で煽れる。けれど、いざ、自分のこととなると…。それに、
ヒカルの様子からして、アキラから奪うなんて不可能に近いのではないだろうか?
 85年の阪神優勝の原動力、伝説のバックスクリーン三連発のバース、掛布、岡田の
三縦打線の援護があっても社に勝ち目はないような気がする。六甲颪が吹きすさぶ。
季節は春でも心は真冬だ。
 社にとって、ヒカルは初めて好きになった相手だ。自分で言うのもなんだが、結構もてる
方だと思う。告白された回数は、片手では足りない。他校の女生徒から、ラブレターを
もらったこともある。可愛い女の子に告白されて、悪い気はしなかったが、どの子もピンと
来なかった。友人達に「贅沢だ」「もったいない」と責められたが、どうしても付き合う気には
なれなかった。
 それがヒカルを見た瞬間、目が離せなくなった。男だと言うことは、このさい気にはならなかった。
それより、生まれて初めて芽生えたこの想いを何とかして伝えたいと思った。
それなのに……

「社?気分悪いのか?大丈夫?」
黙りこくったままの社をヒカルが気遣う。
「明日は大事な対局だもんな。ゆっくり休んだ方がいいかも…薬買ってこようか?」
ヒカルは、本当に心配しているらしい。大きな瞳が不安げに揺れている。
 出ていこうとするヒカルを、とっさに抱きしめてしまった。
―――――遊びでもええ!進藤が好きや……!
社はヒカルにキスをした。辿々しい無骨なキスだった。


(109)
 「進藤…オレ…初めてやねん…」
ヒカルの髪に顔を埋めるようにして、社が呟いた。知識としてはある。だが、社はキスを
したのも初めてだった。ましてや、それ以上のことなど…。
 ヒカルは、少し驚いたようだった。だが、すぐにフッと優しく笑うと社の胸にもたれ
かかってきた。
「そっか…オレが社の初めての相手なんだ…」
その言葉に社の全身がカッと熱く滾った。社にとってヒカルは初恋で、ファーストキスの相手で、
それから………。すごく、ドキドキした。心臓の鼓動が、ヒカルに聞こえてしまうのでは
ないかと思った。
―――――オレはメチャメチャラッキーや。これ以上望んだら、罰が当たる。
 ヒカルが背伸びして、社にキスをした。一番最初にしたような、触れるだけの軽いキス。
思い切りヒカルを抱きしめたかった。でも、我慢した。ヒカルが痛いのはイヤだと言ったから、
力を入れないように必死で耐えた。ヒカルは、そんな社の葛藤に気づいていたのか、
「いいよ…好きにしていい…」
と、小さく囁いた。そうして、力を抜くと社に身体を預けた。
 躊躇いながら、ヒカルのシャツの下に手を忍ばせる。すべすべした肌を撫でた。身体の作りは、
同じはずなのに、自分とはずいぶん違うような気がする。
―――――骨格自体が華奢なんかな?腰も、腕も、オレよりずっとヤワそうや…
なるほど、これでは乱暴に扱うわけにはいかない。大事に大事にしなければ、壊してしまう。



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