Linkage 106 - 110


(106)
「……緒方さん、怒ってますか?」
 腕組みしたまま思案に耽る緒方の様子に不安感を抱いたのか、アキラは緒方の顔を覗き込み、
おずおずと尋ねた。
緒方は慌ててアキラの方に顔を向ける。
「エッ…?ああ、別に怒ってなんかいないさ。あれこれ考え事をしていただけだ。取り敢えず
3、4日分だけなら今日渡しておこう。先生やお母さんにはくれぐれも見つからないようにしてくれよ。
アキラ君の部屋に冷蔵庫はないだろうが、なるべく冷暗所に保管して早めに使い切ってくれ」
 緊張が一気に解け、アキラは和やかな表情で頷いた。
「薬の量は、結局どうすればいいんですか?」
「昨日の量の1.5倍で恐らく問題ないと思うんだが……。2倍だとオレと同量で、身体の小さい
アキラ君には多すぎるはずだ」
「昨日みたいなスプーンで測るんですよね?」
 緒方はアキラの言葉に頷くと、「おいで」とアキラを手招きした。
台所の引き出しから計量用のスプーンを取り出すと、アキラの目の前にスプーンを差し出し、
目盛を指先で示す。
「この目盛が昨日の1.5倍のところだ。これなら間違えることもないだろうから、薬と一緒に
持って帰るといい。オレはもう目分量でわかるから、違うスプーンでも問題ないしな」


(107)
 スプーンをアキラに手渡して冷蔵庫を開けると、緒方は薬の小瓶を取り出した。
棚から適当にグラスと小皿を選び出すと、グラスに小瓶の中身の9割近くを注ぎ、小瓶の蓋を
しっかりと閉めた。
「3、4日分だとこんなものかな。今日はこれだけだ。足りなくなったら自宅でも携帯でも
いいから連絡してくれ。研究会や碁会所で会う時に渡すから」
 アキラは緒方の言葉にこっくりと頷く。
緒方はグラスの上に小皿を蓋代わりに載せて冷蔵庫にしまうと、薬の小瓶をアキラの持つ
スプーンと一緒に手近な紙袋に入れた。
「ランドセルに入れるか?」
「あっ…今開けるから、入れてください」
 背負っていたランドセルの留め金をアキラが外すと、緒方は蓋を開けて中に紙袋を入れてやる。
蓋を閉じ、しみじみとランドセルを眺める緒方が思わず呟いた。
「これだけ痛みがないと、もう6年余裕で使えるんじゃないか?再来月でお役ご免とは勿体無いな」
 留め金を掛けながら笑うアキラの肩に緒方は手を置くと、その手に力を込め、アキラの耳元で念を押す。
「今度の量なら大丈夫とは思うが、くれぐれも慎重に頼むぞ。それから、この薬のことは
アキラ君とオレだけの秘密だからな。……しかし、子供がこんな薬に頼らなけりゃ寝付けないとは……。
どうなってるんだ、最近の小学生は?」
「……こうなってるんです」
 呆れたように肩をすくめる緒方に、アキラは緒方同様肩をすくめ、はにかんだ笑顔を見せた。


(108)
 塔矢家に向かうRX-7は幹線道路で夕刻の渋滞に巻き込まれ、なかなか先に進まなない。
ハンドルを握る緒方はやや苛ついた表情で煙草を手に取り、すっかり手に馴染んだ
銀色のライターで火を付けた。
面白くもないトークが続くラジオを切ると、運転席側の窓を僅かに開け、時計に目を遣る。
「夕飯には間に合うか?」
「……あと1時間くらいあるし、大丈夫じゃないかなぁ……」
「側道に入る手もあるが……。恐らく他のドライバーも同じことを考えているだろうし、
下手なことはしない方がいいな。このまましばらくノロノロだが、我慢してくれよ」
 助手席に座るアキラは、膝の上に置いたランドセルを抱えて頷く。
「ランドセル、後ろに置いたらどうだ?どうせしばらくかかるんだ」
 緒方は銜え煙草でアキラのランドセルを持ち上げると、後部に置いてやった。
煙を窓の隙間に向けて吐き出すと、思い出したように呟く。
「そういえば……アキラ君、今日は学校で体育はなかったか?」
 突拍子もない質問にアキラは驚いたが、すぐに緒方の言わんとすることを察し、
首を横に振った。
「今日は体育はなかったけど、明日はあるんです。もし今日だったら、見学してたかも……」
 アキラの口調に緒方を責めるような雰囲気はなかった。
むしろ、どこか愉快そうな印象すら受ける。
「……明日は見学じゃないよな?」
 なんとなく気まずそうに尋ねる緒方に、アキラはクスッと笑った。
「明日は見学しないですよ。ボクの好きな跳び箱だし!」


(109)
「アキラ君、跳び箱が好きなのか?」
 アキラは嬉々として大きく頷いた。
「跳んでる瞬間がなんだか気持ちよくて、好きなんです。卒業までに8段跳べるように
なりたいなぁ……」
 楽しそうに話すアキラに、緒方はホッと胸を撫で下ろす。
「じゃあ、今は7段が跳べるわけか。一番高いのは何段だ?」
「8段!」
 アキラはすかさず答えると、何やら呟き始めた。
「……もうちょっとで跳べそうなのに、どうしても上に座っちゃって……。踏み切りが
いけないのかなぁ……?」
「最高段位が8段で、今は7段か……。アキラ君は、かなりの高段者じゃないか」
 緒方の言葉にアキラは笑い出した。
「跳び箱の世界では、ボクは高段者なのかな?」
「十分高段者だ。跳び箱にもタイトルがあったりするのか?」
 煙草を揉み消しながらふざけて尋ねる緒方に、アキラは真顔で答える。
「実はあるんですよ。8段で開脚跳びと閉脚跳びと台上前転が全部できたらタイトル
ホルダーになれるんです!」
「ハハ!碁じゃなくて跳び箱のタイトルなら、オレにもすぐ取れそうだな……」
「……緒方さん、ボクの言ったこと本気にしました?」
 余裕の笑みを浮かべるアキラに、緒方は手にした2本目の煙草を一瞬取り落とし
そうになった。
「……大人をからかうとは、いい根性だな……」
 一斉に吹き出して大笑いする2人だったが、なんとか笑いを抑え込んだ緒方が
感慨深げに呟く。
「アキラ君が体育好きとは以外だな」
「……えっ?」
「どちらかというと、身体を動かすより、大人しく本でも読んでる方が好きなんじゃないか?」
 しばらく考え込んでいたアキラは、訥々と話し出した。
「……跳び箱はひとりでするから好きなんだろうな……。チームでする競技は、
ボクあんまり好きじゃないし……」
「……なんだ。オレと考え方が似てるぞ」
 薄く笑う緒方に、アキラは不思議そうな表情を浮かべた。


(110)
「個人競技は好きだが、団体競技は嫌いということさ。チームワークとか協調性とか……ああいうのは
かったるいんだよなァ……」
「ボクもそうかもしれない……。卒業式の前に6年生のクラス対抗ドッジボール大会があるんだけど、
ボクやりたくないんだよなぁ……」
 さも嫌そうにぽつりと漏らすアキラの横顔を見遣ると、緒方は皮肉ぽっく笑った。
「クックック。ドッジボールか……。なんだかんだ言っても、アキラ君はボールを持つと性格が
一変しそうな気がするんだが……」
「……どういう意味ですか?」
 アキラは釈然としない様子で緒方に詰め寄る。
「最初はやる気が全然なくて『面倒だからボールが来ないといいな』とか言ってるくせに、
いざボールを手にすると……ってヤツさ。アキラ君はボールを持つと、表向きは気乗りしない
振りをして、内心『さあ、誰に当ててやろうか?』なんて敵陣の獲物を物色してそうに思えて
ならないんだが……」
「……どうしてわかるんですか?」
 言い当てられてムッとするアキラを横目に、緒方は再び煙草を揉み消して窓を閉めると、
ウィンカーを出した。
「やはりそうか。早い話、オレがそういうガキだったんで、アキラ君もそんなことだろうと
思ったまでさ。……さて、そろそろ渋滞ともおさらばだぞ」



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