日記 106 - 110
(106)
部屋に戻ると、チェストの上のぬいぐるみと花火が目に入った。ヒカルはまとめて
ゴミ箱に突っ込んだ。だが、気になって何度も何度もそちらを見てしまう。
結局、ヒカルは溜息を吐きながら、それを拾い上げた。捨てることもできず、かといって
見ているのも辛い。紙袋に詰め込んで、ベッドの下に押し込んだ。取り敢えず、目の前からは
消えた。
ベッドの中に潜り込んで、今日のことを思い出す。
――――オレに気づかずに通り過ぎてったな……塔矢…。
ヘンなの…自分で隠れておいて…見つけてもらえなかったからって、傷つくなんて
あまりにも自分勝手だ……。
ホントは…ホントは…気づいて欲しかった…。抱きしめて欲しかった。
「塔矢…塔矢…」
自分で自分を抱きしめた。余計に寂しさが募る。昨夜は、緒方が抱いていてくれた。
「…い…佐為…」
名前を呼んだ。いつも、呼びたくて、でもずっと我慢していた人の名を…。
ベッドの中から、飛び出して、机の中を滅茶苦茶にかき回した。捜し物はすぐに見つかった。
「よかった…これだけはなくさずにすんだ…」
表紙の花をそっと何度も撫でた。大事に胸に抱えて、布団にくるまった。
―――――でてきて…もう一度…
(107)
その日から、ヒカルはほとんどの時間を眠って過ごした。食事もほとんどとらない息子を
心配して両親が代わる代わる様子を窺いに来る。医者に行こうと言う二人に、ヒカルは
イヤだと言い続けた。身体の痣はまだ消えていない。風呂に入る度に、嫌でもそれが目にはいる。それを見ると、あの時の恐怖が蘇り、ヒカルを酷く苦しめた。
せめて食事だけはとって欲しいと懇願されて、無理やり口に入れたが、結局、後で全部
もどしてしまった。
ものを食べることが出来ないので、身体が言うことをきかない。碁石にも何日触れて
いないのだろうか……。胸が疼いた。
あれから、緒方が何度か電話をくれた。内容はいつも同じ。
「大丈夫か?」「食事をとっているか?」
ヒカルの返事もいつも同じだった。
「うん。大丈夫。」
緒方がその答えを信じたかどうかはわからない。
アキラからの連絡はなかった。もしかしたら、ヒカルが電話をしなかったので、怒って
いるのかもしれない。例え、アキラから電話があったとしてもそれに出るつもりはなかった。
それなのに、電話を気にしている自分がいた。本当に、勝手だ。
小さく溜息をつく。ヒカルは静かに目を閉じて、また眠りへ落ちていった。
(108)
眠りから覚めて、何となく机の方に目をやった。瑠璃色の固まりがぼんやりとした視界
一杯に広がる。
「……?リンドウ…?」
一瞬あの花が戻ってきたのかと思った。が、その花は花瓶に生けられていた。ヒカルの花
ではない。
階段をゆっくり降りて、台所の母に声をかけた。
「ねえ、お母さんあの花どうしたの?」
「塔矢君がお見舞いに来てくれたのよ。」
思いもかけない言葉に、心臓が止まるかと思った。
「な…なんで…塔矢が…?」
ヒカルは狼狽えた。自分が眠っている間に、アキラが来た!?もしかして、こんな自分を
見られたのだろうか?
「ほら、この前お仕事おやすみさせてもらったでしょう?棋院で聞いてきたらしいわ。」
「………」
何を言っていいのかわからない。
「ヒカルが眠っているからって遠慮して、上がらずに帰ってしまったの。」
遠慮しなくてもいいのにねと、母は少し不満そうに言った。
嬉しい。すごくすごく嬉しい。アキラが来てくれた。でも、逢えなかった。逢わなくて
よかった。泣いてしまいそうだ。
――――泣いちゃダメだ…お母さんが心配する…
唇を噛んでぐっと涙を堪えた。
(109)
母が冷蔵庫から、半分に切ったスイカを取りだした。よく熟れて甘そうだ。
「これも塔矢君からのお見舞いよ。よく冷えているわ。食べるでしょう?」
母の表情は不安に揺れていた。無理に明るく言ってはいるが、ヒカルのことで相当神経を
すり減らしている。
「……うん…」
ヒカルが頷くと、母は顔がパッと輝いた。
スイカは甘く、瑞々しくて、乾いたヒカルの身体に染み通っていく。久々に口にした
優しい甘さだった。口の中で簡単に崩れるのが、今のヒカルにはありがたい。だが、
それすらヒカルは数口しか食べられなかった。
「もう食べないの?」
「………」
不安げな口調に、さらに少し、口に運んだ。心配そうにヒカルを見つめながら、躊躇うように
母が切り出した。
「今度の対局はどうするの?おやすみさせてもらう?」
「………行く……」
手合いを休むなんて考えてもいなかった。それに、棋院に行けばアキラに逢える。遅刻
スレスレに行って、すぐに帰れば……。少しだけでも、アキラの顔を見ることが出来る。
――――――少しだけ…少しだけだから……
(110)
なかなか来ないヒカルにアキラは焦れていた。
――――――もう始まるって言うのに…
ヒカルが病気なのは知っている。ひょっとしたら、今日は来ないのかもしれない。
皆が席に着き始める。アキラも仕方なく自分の席に着いた。それでも、何度も入り口に
目をやってしまう。
開始の知らせのほんの直前に、ゆっくりと入ってきた人影にアキラはホッと安堵の息を
ついた。が、待ち人の姿をあらためて見て、愕然とした。
あれが進藤!?―――――信じられなかった。顔は、白蝋のように白く、血の気がない。
ただでさえ華奢な身体は、ほんの少し触れただけで簡単に壊れてしまいそうなくらいだ。
ほんの数日前に会ったときは、ヒカルは太陽を存分に浴びて夏そのもののような輝きを
放っていた。元気な声で、「塔矢」と自分の名を呼んでくれた。
対局中だというのに、アキラは動揺していた。落ち着こうとしても出来ない。あんな
ヒカルの姿を見て、どうやって冷静になれるというのだ。
あの時、どうしてヒカルの様子を見なかったのか…!悔やんでも悔やみきれない。
眠っているヒカルを起こしたくなくて、玄関先で見舞いだけ渡して帰った。本当は、
逢いたくて仕方がなかったのに…。
アキラは、時間ばかりを気にしていた。今すぐ、立ち上がって、ヒカルを連れて帰りたかった。
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