平安幻想異聞録-異聞- 109 - 110
(109)
「おまえ、どういうつもりだよ」
ヒカルは黙って加賀の言葉を聞いた。
「こないだまで、佐為佐為ってうるせぇくらいだったのに、今度は座間に
鞍替えか?」
加賀は不敵にも二人の殿上人を敬称なしで呼び捨ててみせる。
「そんなの、オレの勝手だろ」
一瞬、ヒカルはすべての事情を話してしまいたい衝動にも駆られたが、こんな
たちの悪い事件に加賀まで巻き込みたくなかった。
「返す」
代りに加賀が自分に投げつけた扇子を差し出す。
本当に、たちの悪い事件だ。
座間が佐為や行洋のことを逆恨みをしている事は知っていた。
それが、どういうつもりか自分を罠にかけたあげく、この体が欲しかっただなんて
気色の悪いことをいう。
馬鹿な冗談みたいな話だ。
上級貴族の典雅な楽しみってやつだろうか?
理解できない。わかるのは、そう、座間達にとって、自分の体を抱く事は、
佐為と自分の間にそれが起こった時のような、暖かい気持ちとは無縁だと
いう事だけだ。
座間達は、新しい遊具を与えられた子供のように、自分を玩んでいるだけなのだ。
そんな遊びに本気で付きあうだけバカバカしい。なら、こっちも適当にそれに
付きあってればいいんだ。
体だけ、好きにさせておいて、自分は自分のまま、しっかりと心を保っていれば
いい。
そうすれば、その間だけは、佐為や、自分の家族は無事なのだ。
少なくとも、座間がヒカルで遊ぶことに飽きるまでの間は、彼らの
無事は保証される。ヒカルの、大事な人たちの無事は。
そして、もし座間がヒカルに飽きる日が来たら――その時はその時だ。
そうなったときに考えよう。
それまでは、こんな座間達の気まぐれで起こったような事件に、これ以上誰も
巻き込みたくない
首をつっこんで欲しくない。
皆が皆、あいつらに振り回される必要はないんだ。
ヒカルは加賀の横から立ち上がって、場所を移そうとした。
(110)
「待てよ」
腰をあげたヒカルの手を加賀がつかんで引き止める。
左手首。
痛みにヒカルが息をつめた。
その痛みに歪んだヒカルの顔を、加賀が見上げてのたまう。
「感心感心。怪我をしても左手ってな。おまえ、利き腕右手だったよな。利き腕は
武士の命だ。それだけは死ぬ気で守れって、オレが教えたもんな」
ヒカルは、その言葉に思い出した。
あの時、なぜ、自分が右腕ではなく、左腕に噛みついたのか。
無意識に、そちらを選んだのはなぜなのか。
『どんなにいい太刀を持ってたって、利き腕が使えなきゃ、武士なんてただの
役立たずなんだ。いくさ場でも、どこでも、それだけは死守しろよ』
そう、加賀に教えられていたからだ。
一方、ヒカルを逃がさないために、その怪我をしている方の手首をわざと掴んだ加賀は、
思いもよらぬことに動揺してた。
(おいおい、こいつの手首、こんなに細かったっけ?)
先に放った加賀の言葉に、何か気付いたように目を見開いているヒカルに、
思わず問い掛けていた。
「おい、お前、ちゃんと物食ってんだろうーな?」
「…食ってるさ!」
だが、その言葉の前のヒカルの一瞬の動揺を、加賀は見逃さなかった。
「よーーし、じゃあ、朝餉に何食ったか言ってみな!」
「う……」
ヒカルが言葉に詰まる。実は、今朝の朝餉は半分ほど口にしただけだった。
口にした分にしたって、疲れと寝不足で頭がぼんやりしていて、味も、何を
食べたかもよく覚えていないのだ。
そのヒカルの手首を加賀は掴んだまま、部屋の外に、庭に面した廊下へと
引っ張り出す。
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