日記 109 - 111
(109)
母が冷蔵庫から、半分に切ったスイカを取りだした。よく熟れて甘そうだ。
「これも塔矢君からのお見舞いよ。よく冷えているわ。食べるでしょう?」
母の表情は不安に揺れていた。無理に明るく言ってはいるが、ヒカルのことで相当神経を
すり減らしている。
「……うん…」
ヒカルが頷くと、母は顔がパッと輝いた。
スイカは甘く、瑞々しくて、乾いたヒカルの身体に染み通っていく。久々に口にした
優しい甘さだった。口の中で簡単に崩れるのが、今のヒカルにはありがたい。だが、
それすらヒカルは数口しか食べられなかった。
「もう食べないの?」
「………」
不安げな口調に、さらに少し、口に運んだ。心配そうにヒカルを見つめながら、躊躇うように
母が切り出した。
「今度の対局はどうするの?おやすみさせてもらう?」
「………行く……」
手合いを休むなんて考えてもいなかった。それに、棋院に行けばアキラに逢える。遅刻
スレスレに行って、すぐに帰れば……。少しだけでも、アキラの顔を見ることが出来る。
――――――少しだけ…少しだけだから……
(110)
なかなか来ないヒカルにアキラは焦れていた。
――――――もう始まるって言うのに…
ヒカルが病気なのは知っている。ひょっとしたら、今日は来ないのかもしれない。
皆が席に着き始める。アキラも仕方なく自分の席に着いた。それでも、何度も入り口に
目をやってしまう。
開始の知らせのほんの直前に、ゆっくりと入ってきた人影にアキラはホッと安堵の息を
ついた。が、待ち人の姿をあらためて見て、愕然とした。
あれが進藤!?―――――信じられなかった。顔は、白蝋のように白く、血の気がない。
ただでさえ華奢な身体は、ほんの少し触れただけで簡単に壊れてしまいそうなくらいだ。
ほんの数日前に会ったときは、ヒカルは太陽を存分に浴びて夏そのもののような輝きを
放っていた。元気な声で、「塔矢」と自分の名を呼んでくれた。
対局中だというのに、アキラは動揺していた。落ち着こうとしても出来ない。あんな
ヒカルの姿を見て、どうやって冷静になれるというのだ。
あの時、どうしてヒカルの様子を見なかったのか…!悔やんでも悔やみきれない。
眠っているヒカルを起こしたくなくて、玄関先で見舞いだけ渡して帰った。本当は、
逢いたくて仕方がなかったのに…。
アキラは、時間ばかりを気にしていた。今すぐ、立ち上がって、ヒカルを連れて帰りたかった。
(111)
ギリギリに来たお陰で、何とか直接アキラと顔を会わせずにすんだ。久しぶりに見る
アキラが何だか眩しくて、胸がドキドキした。ヒカルもアキラのように、真っ直ぐに背筋を
伸ばして碁盤の前に座った。
相手が、ギョッとしたようにヒカルを見た。自分の姿はそんなに酷いだろうか?ヒカルは
鏡を見ていない。今の自分の姿を見るのが怖かった。きっと変わってしまったに違いない。
懐かしい碁石の感触。落ち着く。それなのに何故か心が高揚した。頬が紅潮するのが
わかった。ヒカルはすぐに夢中になった。一手打つ度、髪が逆立つような感覚が全身を包んだ。
時折、目だけを上げてアキラの姿を確認する。その少しだけ見える真剣な横顔に、
何故だか安心した。
打ち掛けの合図と同時に、ヒカルは急いで席を立った。よろめきながら、人波に紛れて
対局室を後にする。後ろからアキラの呼ぶ声が聞こえたが、耳を塞いで逃げた。
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