平安幻想異聞録-異聞- 109 - 112
(109)
「おまえ、どういうつもりだよ」
ヒカルは黙って加賀の言葉を聞いた。
「こないだまで、佐為佐為ってうるせぇくらいだったのに、今度は座間に
鞍替えか?」
加賀は不敵にも二人の殿上人を敬称なしで呼び捨ててみせる。
「そんなの、オレの勝手だろ」
一瞬、ヒカルはすべての事情を話してしまいたい衝動にも駆られたが、こんな
たちの悪い事件に加賀まで巻き込みたくなかった。
「返す」
代りに加賀が自分に投げつけた扇子を差し出す。
本当に、たちの悪い事件だ。
座間が佐為や行洋のことを逆恨みをしている事は知っていた。
それが、どういうつもりか自分を罠にかけたあげく、この体が欲しかっただなんて
気色の悪いことをいう。
馬鹿な冗談みたいな話だ。
上級貴族の典雅な楽しみってやつだろうか?
理解できない。わかるのは、そう、座間達にとって、自分の体を抱く事は、
佐為と自分の間にそれが起こった時のような、暖かい気持ちとは無縁だと
いう事だけだ。
座間達は、新しい遊具を与えられた子供のように、自分を玩んでいるだけなのだ。
そんな遊びに本気で付きあうだけバカバカしい。なら、こっちも適当にそれに
付きあってればいいんだ。
体だけ、好きにさせておいて、自分は自分のまま、しっかりと心を保っていれば
いい。
そうすれば、その間だけは、佐為や、自分の家族は無事なのだ。
少なくとも、座間がヒカルで遊ぶことに飽きるまでの間は、彼らの
無事は保証される。ヒカルの、大事な人たちの無事は。
そして、もし座間がヒカルに飽きる日が来たら――その時はその時だ。
そうなったときに考えよう。
それまでは、こんな座間達の気まぐれで起こったような事件に、これ以上誰も
巻き込みたくない
首をつっこんで欲しくない。
皆が皆、あいつらに振り回される必要はないんだ。
ヒカルは加賀の横から立ち上がって、場所を移そうとした。
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「待てよ」
腰をあげたヒカルの手を加賀がつかんで引き止める。
左手首。
痛みにヒカルが息をつめた。
その痛みに歪んだヒカルの顔を、加賀が見上げてのたまう。
「感心感心。怪我をしても左手ってな。おまえ、利き腕右手だったよな。利き腕は
武士の命だ。それだけは死ぬ気で守れって、オレが教えたもんな」
ヒカルは、その言葉に思い出した。
あの時、なぜ、自分が右腕ではなく、左腕に噛みついたのか。
無意識に、そちらを選んだのはなぜなのか。
『どんなにいい太刀を持ってたって、利き腕が使えなきゃ、武士なんてただの
役立たずなんだ。いくさ場でも、どこでも、それだけは死守しろよ』
そう、加賀に教えられていたからだ。
一方、ヒカルを逃がさないために、その怪我をしている方の手首をわざと掴んだ加賀は、
思いもよらぬことに動揺してた。
(おいおい、こいつの手首、こんなに細かったっけ?)
先に放った加賀の言葉に、何か気付いたように目を見開いているヒカルに、
思わず問い掛けていた。
「おい、お前、ちゃんと物食ってんだろうーな?」
「…食ってるさ!」
だが、その言葉の前のヒカルの一瞬の動揺を、加賀は見逃さなかった。
「よーーし、じゃあ、朝餉に何食ったか言ってみな!」
「う……」
ヒカルが言葉に詰まる。実は、今朝の朝餉は半分ほど口にしただけだった。
口にした分にしたって、疲れと寝不足で頭がぼんやりしていて、味も、何を
食べたかもよく覚えていないのだ。
そのヒカルの手首を加賀は掴んだまま、部屋の外に、庭に面した廊下へと
引っ張り出す。
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昼の日の明かり下で、改めてマジマジとヒカルの顔を見つめた。
(綺麗になった)
一瞬、そう考えた自分に驚く。
思えば、こいつの顎はこんなに細かっただろうか?
少し赤くなった目元にただよう色気はどうだ。
誰がこいつをこんな風にしやがったんだ。
わけのわからない怒りにかられて、加賀はことさらヒカルを乱暴に扱った。
突き飛ばすように、廊下の角の柱の方にその体を投げ、次いで、両手を使って、
ヒカルの背を柱に押し付けるようにして、押さえ込む。
「何するんだよ!」
暴れるヒカルの体を、背にしている柱ごと抱きしめた。
ヒカルがおとなしくなった。
「何か、困ってることがあるんだったら言えよ」
「別に…」
「聞かれちゃ困るようなことなのか?」
「そういうわけじゃないけど、本当に……」
「そんな深刻そうな顔して『そういうわけじゃない』もなにもないだろ。
似合わねぇんだよ、お前に深刻な顔なんて」
「ひでぇなぁ」
ヒカルが観念したのか、体重を加賀の腕の方に預けてきた。
そうすると、加賀よりちょっと背の低いヒカルは、加賀の緋色の狩衣の襟口の
あたりに頭をあずける事になる。
先ほど加賀を慌てさせた、奇妙な色香は、かき消えるように失せていた。
今、加賀の腕の中にいるのは、加賀がいつもよく知っている、童顔で無邪気で、
そのくせ剣の腕の立つ、小生意気な少年検非違使だ。
「本当に、どうでもいい事だよ。加賀にわざわざ話すようなことじゃない」
「佐為佐為って煩いぐらい騒いでたお前が、いきなり黙って座間の警護役に
なっちまうのがどうでもいいことか? それだけじゃない、お前この何日か
検非違使庁にも顔出してないだろ? 上に聞いても、知らぬ存ぜぬ『近衛は
座間様のご意向に沿って仕事をしているのだ』の一点張り。この一件、
検非違使庁の別当程度じゃ手が出せない、もっと上の方から手が回ってんじゃ
ないのか?」
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加賀が一息に言い放つ。ただし、他には聞かれないように小声で。
「三谷や、筒井も文句言ってるぜ。おまえが完全に検非違使の一般職務から
外されちまったせいで、市中見回りやら、街の掃除、穢れ払いの仕事に出来た穴を、
あいつらとオレとで埋めてるんだ。せわしなくていけねーよ。あいつらもお前に
言いたいみたいだぜ。『近衛のやつ、いったい何に巻き込まれてるんだ』ってな」
ヒカルは、うつむいた。そのヒカルの頭を、加賀が抱えるようにして引き寄せる。
「それでも、まだ、言えねぇか?」
ヒカルは検非違使の中でも仲のいい三谷や筒井のの顔を思い浮かべた。
加賀の胸にしがみつくようにして顔をうずめる。
「そうか……」
ヒカルは黙って頷いた。
宜陽殿の廊下を秋の涼風が吹き抜ける。
ヒカルの頭を抱きしめる加賀の腕に力がこもった。
あたたかい、とヒカルは思った。
「じゃあ、これだけは覚えとけ。オレはお前の味方だ。筒井も三谷もな。みんな
お前のことを心配している。だから、本当に助けが欲しいときには必ず、
オレか三谷や筒井に伝えろ。場合によっちゃ、多少の無理も聞いてやる。ひとりで
全部抱え込んで潰れるようなことにはなるなよ。お前はそんな柄じゃねぇんだから」
「加賀、じゃあさ」
「なんだ?」
「今、ひとつだけ、オレの無理聞いて」
「…言ってみな」
「寝たい。寝かせて」
「あのなーーっっ!」
怒鳴りかけて、加賀はやめた。加賀の胸元に顔を寄せているヒカルの、金茶の
前髪の間からわずかに覗くまぶたと頬に疲れの色が見える。
単にに秋の風の心地よさに眠気を誘われたのではない。疲労から来る眠気らしいと
気付かされたのだ。
腕の中のヒカルの体は、眠気のせいか普段より体温が上がっていて、まるで
ヤマネかリスのような、小動物の暖かさだ。
「来い」
ヒカルの手を引いて、加賀は少し離れた誰もいない部屋に連れ込んだ。
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