天涯硝子 11
(11)
翌日の大手合いでヒカルは負けてしまった。
碁盤の前でじっと座っていると、身体の冷たさが痺れるようで、落ち着かなかったからだ。
盤上に集中しようとしても、冴木の顔が浮かんできてしまい、振り払えなかった。
ヒカルは何度も溜め息をつき、ついには諦めて投了した。
対局者もヒカルの様子に気づいていたらしく、投了後、具合が悪いのかと尋ねてきた。
ヒカルは何も答えられずに、黙って頭を下げた。
冴木とのことを後悔している訳ではないが、対局に集中できなかった自分が憎らしかった。
(…進藤、負けたのか。俺が)
「冴木さんのせいじゃないよ!」
謝ろうとする冴木の言葉を遮り、ヒカルは叫んだ。
その日の棋院からの帰り、駅に向かう人の流れに背を向け、ヒカルは携帯電話を握りしめた。
ヒカルの声に行き交う人が振り返る。ヒカルは慌てて道の脇により、ビルの壁に顔を向けた。
「今日はちょっと調子が出なかっただけ。次は負けないよ」
ヒカルは足を広げ、仁王立ちになった。
喉をそらして空を見上げ、体を揺らしながら反対側に向き直った。
「――だからさぁ…、冴木さんとこ、また行ってもいい?」
冴木の部屋に行ってもいいかなどと、改めて尋ねなければならない間柄では、もちろんない。
だが今回は別のことを言っているのだと、冴木もヒカルもわかっていた。
棋院の玄関まで、冴木はヒカルを送ってきたが、朝、ヒカルを起こしてから別れるまで、一度も
ヒカルに触れようとしなかった。
ヒカルは対局に負けた自分を責めながら、気持ちの反対側でそのことが不安で仕方がなかった。
(ああ、またおいで)
「…うん」
やさしい明るい声でそう言われ、ヒカルはホッとした。そして、体がすっと軽くなったのを感じた。
いつの間にか体も心も緊張して、こわばってしまっていたのだ。
(俺はちょっと仕事があるんだ。こっちから連絡するから、待ってて)
「うん。冴木さん、仕事がんばって」
そこで電話を切った。
それから三日。
土曜日の朝、夜更かしをした分けでもないのにヒカルは寝過ごした。
土曜は和谷の部屋で研究会がある。金曜の夜まで冴木から連絡はなかったが、今日は和谷の部屋で
会えるかもしれない。
ヒカルは慌てて服を着替え、家を飛び出した。
気持ちが逸り、駅に走りながら和谷の部屋に電話を入れると、冴木は来ていないと和谷は答えた。
ヒカルは足を止めた。
「え?」
(来てねぇよ。進藤はこれから来るんだな?)
日本の夏特有の湿った暑い空気が肌にまとわりつく。急に汗が噴き出して来た。
「…オレ、わかんないや」
(…は?)
「…また、電話する…」
ヒカルは肩を落とし、直射日光を避けて建物の影に入った。
冴木は携帯電話を持っていない。ヒカルや和谷が携帯を使うのを見ていて、どうしても持たなくては
ならないものではないと、持とうとしないのだ。
冴木の部屋に電話を入れてみる。
耳に遠く、コール音はするのに、誰も応える気配はなかった。
「…留守電になってない…」
ヒカルはひとりごち、もと来た道を引き返しながら、何度か冴木の部屋に電話を入れたが、
やはり同じだった。
沈んだ様子で家に戻ってきたヒカルを、母親は心配して、熱でもあるのではと
額に手を当てたりしたが、何でもないと答えるヒカルにそれ以上はつきまとわなかった。
ヒカルは自分の部屋に戻ると、大きな溜め息をつき、ベッドの脇に座り込んだ。
何より碁のことが大切だと思うのに、こんなことで気持ちがかき乱される自分を情けなく思った。
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