裏階段 アキラ編 11 - 12
(11)
アキラは駆け引きをするようなタイプの人間ではない。
おそらく本気で誰かを呼び出してここで一緒に朝まで過ごすつもりなのだろう。
さっきまでのごく日常的な会話を交わしていた年相応の少年はそこには居なかった。
テーブルの上で前菜からディナーへと内容と食器が変わっていったようにかつて何度か夜を
二人だけで過ごうちに本能に忠実な魂の容れ物にアキラは豹変していった。
白く細い手首を掴みながら、今アキラに捕われたのは自分のほうだと自覚せざるを得ない。
「…これが最後だぞ。」
それだけ言うのが精一杯だった。
アキラは頷かなかった。
ただ静かに勝ち誇ったような光を瞳に宿して笑み、テーブルの上でこちらの手からアキラは
自分の手を抜くと、オレの指をなぞり、そっと握ってきた。
六畳間の片隅に敷かれた小さな布団の中でその赤ん坊は眠っていた。
「先生」はいくつかのリーグ戦の最中で既に所持していたタイトルの防衛戦も迫っていた。
暫く明子夫人がアキラを連れて実家に帰る話も出たが、「先生」が強く反対した。
オレはどちらでもよかった。
ただ新しい生命が生まれたと同時にそれまでもほとんど自分に向けられる事のなかった父親の愛情が
完全に途絶えた。その時の事をふと思い出した程度だった。
起こさないように畳の上を這うようにして赤ん坊の顔を覗き込んだ。
寝ていると思った赤ん坊が不思議そうにこちらを見つめ返して来た。
(12)
白目の部分が青みがかった程に澄んだ、真っ黒な大きな瞳がこちらを見ている。
父親でも母親でもない対象を泣きもせず捕らえている。
クセのない、柔らかそうな黒髪がすでに生え揃っていた。
「ふう…ん。」
自分が何に感心したのかよくわからなかったが、綺麗な顔をしているなとは思った。
確か男の子だったはずだ。「先生」もさぞかし嬉しかっただろう。
顔の直ぐ脇で握られている小さな手にそっと指で触れてみた。
この手も、いつかは碁石を握る事になるのだろうか。
その時その小さな手が開いた。こちらが差し出した指に興味をもったようだった。
その手のひらに人さし指を乗せると直ぐにぎゅっと握りしめてきた。
そのままそれを口に持っていこうとする。
まずい、と思った。
自分はさっき煙草をどっちの手で持って吸っただろう、いや、ここに来る前に手を
洗っただろうかとあれこれ考えた。
赤ん坊の物を握る力が意外と強い事に驚く。かといって強引に引き抜くのも気が引けた。
一瞬だけ、唾液に濡れた温かい小さな唇が触れた。
少しばかり手が開いたので、そおっと指を抜いた。
赤ん坊はなくなった指の代りに自分の指を口に含んだ。
やけに機嫌が良いのかニコニコしている。
無意識のうちにうちに自分も笑顔で赤ん坊を見つめていた。指先でそっと
ぷっくりとふくらんだ頬に触れるとくすぐったそうに肩をすくめる仕種をした。
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