敗着-透硅砂- 11 - 12
(11)
(名人が見たら卒倒するな…)
余裕たっぷりの表情で足を組み、ソファに深く沈み込んで煙をくゆらせている目の前の少年を見て思った。
アキラはそれを気にする風もなく、灰皿を引き寄せちらりとこちらを見た。
そして、煙草を大きく吸い込み灰皿へ置くと、グラスを自分から離すようにテーブルの中ほどに滑らせる。
サイドテーブルのこちら側にグラスが滑ってきた。
ソファから体を少しずらして前に移動すると、挑発するような目つきでこちらを一瞥し、上半身を倒して手を使わずに、自分からは離れた場所に置かれたグラスに口を近づけて来た。
その姿はまるで、トカゲか何かの爬虫類のようだった。
サイズの合わないバスローブの胸元がはだけ、幼い色の乳首が見えた。
アキラが前のめりに顔を伏せたグラスに白い煙が静かに注ぎ込まれていく。
目を閉じて少し頬を紅潮させたアキラの紅い唇から、煙草の煙がとめどなく流れ出て、やがて、グラスのブランデーの入っていない空間は煙で真っ白になった。
それを薄目を開けて確認したアキラは体勢を戻して座り直し、グラスの上に手を当ててそれを塞いだ。
得意げに満足そうに足を組み替えると、それを”見ろ”と言わんばかりに、さも愉快そうにこちらの様子を伺っている。
そして、塞いでいたその手をずらしてグラスを包み、目の高さに掲げ持つと、冷ややかな目でこちらを見つめて一言だけ言った。
「乾杯」
グラスの口から溢れ出た白い煙が、グラスを包んだ細く長い指に、ドライアイスのようにもうもうと降りかかっていた。
急に風が吹きつけ、煙草の先が赤く光った。吹いた風のせいではない、身震いをした。
関係を持ったからこそ知った、アキラのもう一つの顔。
年上である筈の自分でさえも、それを空恐ろしく感じることがあった。
深く煙草を吸い込んだ。
あのアキラが本気を出せば、いつでも進藤を取り返せる―――。
(手を出さなければいい)
自分と進藤とは、いわば体だけの関係だ。
本気で進藤に惚れているアキラのことだ。あいつをオトすことなど、その気になればた易いことだろう。
(二人で、どこへでも行くがいい――。俺はもう、お役御免だ……)
煙草を灰皿に押し付けると、林立する高層ビルや遠くに見える繁華街の夜景を見つめた。
雨が止んだばかりのせいか、少し滲んで見えた。
(12)
「和谷、帰ろっ」
研究会が終り、ヒカルが和谷に声をかけた。
「……」
だが和谷はヒカルをちらりと見ただけで、何も答えなかった。
(あれ……?)
「あの、和谷…」
「オレ用事あるから帰るな」
ぶっきらぼうにそれだけ言うと、ムスッとした表情のまま振り向きもせずに靴を履いて、さっさと出て行ってしまった。
「…あれェ…?オレ、なにかしたかなあ…。」
頭をかきながら、後ろで見ていた冴木の方を振り返った。
「ねえ冴木さん。和谷、今日キゲン悪い?何か怒ってる?」
取り残されたヒカルは、冴木と和谷が出て行った方向を交互に見ながら訊いてみた。
二人のやり取りをそれとなく見守っていた冴木は腕を組んで天井を見上げると、「うーん」と考え込んでいたが、やがてヒカルの肩をポンと叩いて一言だけ言った。
「そっとしておいてやれ。」
マウスを滑らし、カチカチとクリックする。
(あった…。ここだ…)
緒方が部屋でパソコンと向き合っている。
新人棋士の戦績を見た。
(進藤…。プロ一年目、最初は勝ったんだな)
知らずに頬が緩んだが、すぐに胸がちくりと痛んで表情を戻した。
マウスを放し、右腕で左の二の腕を掴んで画面上の
「進藤ヒカル」
の文字をじっと見つめた。腕を掴んだ手に無意識のうちに力が入る。
横を向いて水槽を見て、また画面を見た。
(……潮時かもな…)
眼鏡を外して横に置くと、椅子に深くもたれ掛かり、顔を天井へ向けてしばらく目をつむっていた。
(今が潮時なんだ…。今なら、引き返せる――)
その考えを肯定するように画面に向き直ると、手早くパソコンを終了させ「進藤ヒカル」の文字をモニターから消した。
そして立ち上がって椅子を水槽の前まで移動させると、いつもヒカルがしているように前に座って水槽を見つめた。蛍光灯の光が顔を仄青く照らしている。
(進藤…。お前はこうして、ここで魚を見て、何を考えていたんだ――?)
我関せずという顔をして、熱帯魚がひらひらと水槽の中で泳いでいる。
片膝を椅子の上に立ててその上に顎を乗せると、もう片方の脚をぶらぶらと振ってみた。
同じようにしてみても、ヒカルの気持ちは分からなかった。
水槽に備えつけられたフィルターが低音で静かに唸っている。
まだ無邪気にこの部屋で遊んでいた頃のヒカルの顔が、頭に浮かんでまた消えた。
(…コノヤロ、)
思わず水槽を軽く叩いてしまってから、慌ててその部分を撫ぜた。
(このグッピーは、国産の優良種なんだ…)
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