残照 11 - 12
(11)
目を開けると、ホテルの白い天井が目に入った。
佐為の夢を見ていたような気がした。けれど夢の内容は覚えていなかった。
「佐為…おまえがいなくなってから、もう一年経つんだな。」
ヒカルは小さく呟いて、そして、デスクの上に置いておいた扇子を手に取った。
夢の中で手渡された扇子。
あの夢の中でも、佐為は何も言わなかった。何も言わずに、黙って微笑んで、扇子を手渡した。
ヒカルと打つ時に、石の場所を指し示していた扇子。
神の一手を目指すと宣言し、秀策の棋譜を並べ、扇子を手にして碁を打つ。
そうすれば佐為に近づけると思っていたのだろうか。
「オレが一生かかったって、佐為に辿り着けるはずなんてなかったのにな。」
いや、違う。そうじゃない。
佐為は佐為で、オレはオレだから。
「オレ、やっぱりバカだな。」
どんなに佐為のようになりたいと思ったって、オレはオレ以外の何者にもなれなかったのに。
オレが佐為になる事が、佐為が存在した事を証明する事ではなかったのに。
目指す頂点は同じでも、辿る道は一人一人、それぞれの道を歩いていかなければならない。
佐為と一緒にいた2年の間、二人で同じ道を二人一緒に歩いていた。
その事がどれほど得難い事なのか、奇蹟のような、本来ならば有り得ない事なのだと、
あの時には気付かなかった。
(12)
そして今、隣には塔矢がいる。二人で同じく神の一手を目指して。
けれど塔矢だって、他人なのだ。
どれほど近い場所にいるように思えても、同じ道を歩いているように思っても、それぞれが
踏みしめる一歩一歩は、きっと違うのかもしれない。
今、肩を並べて歩いていても、いつかそれぞれの道は分かれていってしまうのかもしれない。
たとえ目指す場所が同じであっても。
それでもオレはそこに向かって歩き続けるだろう。頂点に向かって。
目指す頂点の向こうに、佐為はいるのかもしれない。いないのかもしれない。
いや、その頂点には、近づく事はできても、そこに到達する事は決して出来はしないのだろう。
それでも、オレはそこに向かって歩く。たった一人でも、歩き続ける。
佐為から離れて歩き出すことは、けれど佐為を忘れる事じゃない。
忘れはしない。忘れられるはずが無い。忘れる必要も無い。
誰も信じなくても、何の証拠も無くても、佐為と過ごした2年間は本当にあったことだから。
誰も認めなくてもオレは忘れない。それだけでいい。
「キミの打つ碁がキミの全てだ。」
アキラの言葉がヒカルの中に蘇った。
その通りだ、と思う。
オレは、オレの碁を、進藤ヒカルの碁を打つ。
今度こそ、オレ一人で。
振り返って、ヒカルはデスクの上に置かれた扇子を見た。
あれは、どこにでもある、ただの扇子。棋院の売店で買った。
佐為に渡されたものは、オレの心の中にある。
それは神の一手を目指そうと言う意思。
碁を愛し、最善の一手を追求し、何があっても、打ちたいと、打ちつづけようと思う情熱。
その、佐為の囲碁への情熱を継いで、オレの一歩は、ここからまた始まる。
デスクの上に扇子を置いたまま、ヒカルはドアを開けて出ていった。
|