裏階段 三谷編 11 - 13
(11)
伯父は少年に優しかった。だが囲碁を学ばせる時は厳しく、そして熱かった。
それは伯父の打つ碁そのものだった。
酒が好きで、碁の指導の合間もよく臭った。時として手合いの勝敗の勢いを
そのまま自宅に持ち帰り、勝てた時は少年が望んだ訳でもない高価なものを
買い与え、負けた時は意味もなく少年を殴ったりした。
だがそうして少年に手をあげたしばらく後で、泣きながら少年に謝り抱き締めて来た。
その時は少年の方が保護者のように白髪の混じった短く刈り上げた伯父の頭を撫でた。
いつからか、泣きながら抱き締めながらもその手が、少年の体をまさぐるようになった。
人とは厄介な生き物である。記憶しようとしたつもりもない、忘れたはずのものが
何かの拍子でこうして鮮明に頭の中に蘇る。
皮肉なのはそれらの記憶が交渉事の支障にならず、新たに興奮を加えている。
「は…あっ!」
自分の体内を侵略するものが質量を増したことを彼は敏感に感じ取り喘いだ。
一瞬見開かれた彼の大きな瞳がベッドサイドの明かりによって暗がりの野生動物のように
光る。受け入れる苦痛だけで体力を消耗しているのか、声をあげるわりに抵抗はない。
片手を枕の上の方を、片手で腰の近くのシーツを掴んで握りしめている。
少しでも痛みから逃れる為か自ら体を深く折り、両足をこちらの腰に絡み付ける。
すでに瞳は閉じられ、汗とも涙とも区別がつかないものに目尻を濡らし光らせている。
経験からなのか本能的なのか、彼の先を誘うような仕種に引かれそのまま腰を埋めた。
(12)
その時に彼の体内を駆け抜けた痛みを自分はよく知っている。知っていて与えている。
痛みの向こう側にある痛み以外のものも知っているからだ。だから彼も、こうして
声にならない悲鳴をあげながらも受け容れている。人はそれが自分が選んだ痛みなら
受け容れられる。
「…君はあの時、どんな気持ちだった?」
ひとしきり彼が激痛に喘ぎようやく落ち着いた時に訊ねてみた。
こちらの質量に彼の体が慣れるまで動くつもりはなかった。
彼の心臓の鼓動がそのまま伝わって来そうな程に彼の体の奥深くに我が分身は
入り込んでいた。
「な…んのはな…し…?」
胸を激しく上下させて天井を見つめたまま彼は聞き返し、しばらく沈黙した後、
ああ、と小さく唸った。
「…べつに…」
新聞社が主催の小さな囲碁のイベントがあった。
自分は参加の予定はなかったのだが、近くに用事があり、ついでに立ち寄ってみた。
進藤が指導碁で参加していたからだ。
以前の同じようなイベントで、プロになって間もなくにかかわらず進藤は
なかなかどうして、上手い具合に年長者を相手に上手く打ち方を解説していた。
その時と比べて格段に腕を上げ、落ち着きを持ち始めた進藤が今度はどう指導するか
見てみたいと思った。彼を、その会場の片隅で見かけたのだ。
(13)
イベントは特に参加者に年令の制限を区切ったものではなく、広く告知をした規模のものでも
なかったため、特定の地域の高齢者の集いに毛が生えた程度だった。
進藤やその他の棋士や、おそらくオレ自身の名前を聞いてもさほどに反応出来ない初心者が
多数を占めていた。それでも今年に入って、そういう類いの仕事が棋士達の間に増えていた。
ブームという安っぽい言葉はあまり使いたくはないが、ちょっとした娯楽として囲碁が
地域のイベントに加えられる機会が多くなったのは確かなようだった。
そういう催しに年寄りに混じって進藤と同年代の少年少女達もやって来る。
幼い時から熱心な親に背中を押され、ではなく、友達とゲームセンターに行くのを誘いあう
ような感覚で、というものらしい。本格的に囲碁を学ぶ者にはそれなりの機会がまた別にある。
最初進藤を囲っていた一群は前者かと思った。進藤が嫌がると思い表立って彼の前には行かず
物陰から様子を見ていた。自分で自分の奥ゆかしさがおかしかった。
進藤は自分と同世代の者達に熱心に碁を指導し、聞く側も進藤の一手一手を食い入るように
見つめていた。
「進藤君の学校の生徒たちらしいですよ。」
脇を通りかかった棋院の職員が微笑ましそうに目を細めて教えてくれた。
「進藤君もちょっとテレくさそうですね。」
「…そうかな、」
少女も混じったその集団の進藤を見つめる目は真剣そのものだった。「知り合い」や
「お友達」という甘ったるさは彼等の間には少なくともその瞬間は感じられなかった。
その「彼等」から少し離れた場所に彼は立っていた。
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