平安幻想異聞録-異聞-<外伝> 11 - 14
(11)
「近衛。最近、内裏で見かけないけど、なんかあったのか?」
阿呆な事を半ば本気で考えながら訊ねた伊角に、ヒカルはポカンとした表情を返す。
「伊角さん、俺みたいな下っ端が、何の理由もなしに内裏に入れるわけないだろ?」
「え? でも前はちょくちょく来てたじゃないか」
「あのね、それは、佐為の警護の仕事があったからだよ。特別だったんだ。じゃ
なきゃ、あんなに自由に内裏に出入りしたりできるもんか」
ヒカルに呆れたように見られて、伊角はちょっと傷ついた。
「しかし、その、佐為殿が身罷られてからも、内裏でお前を見た気がするんだけど」
「出雲での仕事の報告とかがあったからだよ。でも参内する時は上司の付き添い
付きだったぜ」
「近衛って……、そんなに官位が低かったっけ……?」
「低かったよ! 悪かったな!」
そういえば、宮中の儀式等で藤原佐為の後ろに控える近衛ヒカルの束帯の色は縹色
だったと思い出す。本来なら殿上に上がることを許されない六位の官色だ。似合って
いるので気にした事がなかった。
それはともかく、もう特別な用事でも無いかぎり、内裏で近衛と会えないのは残念だ
と伊角は思う。
そしてその考えは、伊角自身が思いもしなかった言葉になって、口から滑り出た。
「近衛、俺の警護役にならないか」
(12)
何かに車輪が乗り上げたのか、牛車が大きく揺れた。
突然のことで、つんのめっように前に体を倒しかけたヒカルの肩を支える。
そうしながら伊角は、たった今自分が言ってしまった言葉の内容を吟味し、自分の
思いつきに喝采を送った。
そうだ。これなら、いつだって公に近衛に会うことが出来る。
自分の腕の中から、近衛ヒカルが鳶色の瞳で自分を見つめていた。
布越しにも、その肩の骨組みの繊細さがわかって、胸が高鳴った。
「最近は、内裏の中も物騒でね。そろそろ警護をつけた方がいいと言われてるんだ」
「伊角さんぐらい偉い貴族様なら、いくらでもちゃんとした衛士とか、近衛府の方
で手配してくれるだろ?」
「警護役となったら、半日から一日を一緒にいることになるんだぞ。見も知らない
奴と一緒にいて気疲れするぐらいなら、警護なんて居ないほうがいい」
「俺なら、平気なんだ?」
伊角は頷いた。
「近衛なら平気だ。腕も、下手な衛士より信用できるしな」
そう言われて、ヒカルも武官として嬉しくないわけがない。
「そうかぁ、いいけどさ。でも、俺が承知したからって、そうですかって伊角さんの
警護につくわけにはいかないんだけど」
「わかってる。今日か明日には、衛門府の方に嘆願の書状を出しておこう」
ヒカルが身を起こした。腕の中から逃げる温もりを、伊角は名残惜しく手放す。
牛車は朱雀門から大内裏に入る。
検非違使庁の前で車を止めて、ヒカルを下ろした。
思わぬ所で止まった立派な牛車に、その辺でたむろしていた検非違使たちの視線が
ささる。
しかし、今の伊角にはそれが心地よかった。自分とヒカルはこんなに仲がいいの
だと、皆に宣伝したい気分だった。
検非違使庁の建物に入ろうとする近衛ヒカルに声をかける。
「じゃあ、衛門府に書状を出しておくから」
(13)
「書状を出したからって、その嘆願が通るとは限らないんだけね」
ヒカルが笑う。
それはそうだ。だからってそんなに嬉しそうに言わなくても……。弾んでいた伊角の
気持ちがしおしおと沈んだ。
「うそ。伊角さんと内裏に出仕できるの楽しみにしてるよ」
金茶の前髪が揺れて、ヒカルの姿が検非違使庁の門の向こうに消えた。
伊角は、今のいままで自分の近くにあったその金色の気配を幻のように感じ
ながら、怪訝に思った随身に声を掛けられるまで、その門をじっと眺めていた。
賀茂アキラは誰もいない家に帰り着く。
いつもなら式神をよんで、着替えを手伝わせたり食事の用意をさせたりするの
だが、そうはしない。近衛ヒカルと会った後はいつもそうだ。
前に式神を使うなと怒られた手前、見張られているわけでもないのに、なぜか
そういったものを使うのがはばかられる。
朝食の支度をしながら、アキラは、交わされた言葉に紛れて奪ってしまったヒカルの
唇の味を思い出していた。
そして、そのすべらかな頬の触感、朝日に浮かんだの首筋の美しさも。
髪の毛の隙から僅かに覗くうなじから続くその温かそうな肩を引き寄せて、抱き
しめたいと思う自分をおさえるのに必死だった。
そして、それを押さえることが出来ても、変わりに唇を奪ってしまっては意味が
ないな、と苦笑する。
アキラを養子に迎えた先代賀茂家当主は、アキラが顔を覚えてすぐに亡くなった。
それからずっとたった一人でこの屋敷に住んで、それを不便と思った事も、寂しいと
思った事もなかった。
用事があれば、式神に言いつければよかったし、遊び相手は妖魔の小鬼だった。
妖しとも神ともしれぬ霊体と碁を打ったこともある。
しかし、それだけでは駄目だ、ちゃんと生身の人間ともつながりを持たなければ、とも
考えてはいた。
(14)
それというのも、亡くなった養父が、まだアキラがこの家に来たばかりの頃、誰かと
話しているのを聞いてしまったのだ。
『この子は儂が見つけたとき、河原で鬼どもと楽しそうに遊んでいたのだよ。儂は
思ったのだ。この子はちゃんとした教えを授けてやれば、希代の大陰陽師になる
だろうが、このまま放っておいては自らも鬼の仲間となり、京に取り返しのつかぬ
災厄をもたらす者になるだろうと』
夜中の事で、養父もまさかその話をアキラが聞いていたとは気付かなかっただろう。
だがその後、事あるごとに養父は、アキラが人前に出ざる得ないような舞台を仕組み、
より濃く人と関わらせようとした。
アキラも、陰陽術を習い始めたばかりとはいえ、鬼の世界に取り込まれるということが
どういうことか薄々分かってきた所だったので、その養父の計らいによく従った。父に
ついて陰陽寮に出仕し、宮中行事にもよく参加した。
その姿勢は、養父が他界した今も変わらない。
正直、内裏の中に渦巻く人々の心の暗闇の深さに辟易することも多かったが、それを避
けて自邸に引きこもっては、自分は鬼になってしまうのだと、参内を続け、いくつもの
行事に参加し、人々と話し、集い、関わった。精神的に疲れることも多かったが、
アキラ自身はその生活に満足し、安心し、それなりに穏やかな日々であったのだ。
それで、自分は充分に人間らしいのだと思えた。
だが、その穏やかな日々に鋭い切り込みを入れてきた者がいた。
近衛ヒカル。
元々、藤原佐為と組んで妖怪退治に乗りだすことを承諾したのも、常々心がけてきた
「人との関わり合い」というものを保つためだ。アキラとて、それまでの経験で、
生きることにおいて「新しい出会い」というのが大事らしいというのは学んでいたから、
それを求めてのことだった。
だが、この出会いは少々強烈すぎた。
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