トーヤアキラの一日 11 - 15


(11)
アキラが、ヒカルのアキラに対する呼び方の変化に気付いたのは、いつ頃だっただろうか?
日頃は、はっきりとアキラの事を「塔矢」と呼ぶヒカルだが、2人きりになって、甘える
素振りを見せる時には、少し鼻にかかった間延びした口調で「トーヤ」と言って来る。
さらに2人だけの秘密の時間になると、何かをねだるように「トーヤぁ」と囁く。そして、
理性を飛ばして快楽に溺れている時には「トーゃぁ、トーゃぁ」と連呼するのである。
その事は、もちろん本人には話していない。そんな話をすれば、ヒカルが意識してしまい、
言わなくなるのが目に見えているからだ。
この事は、アキラ以外誰も知らない、ヒカルの欲情バロメーターになっている。

アキラが3軒先にあるゴミ集積場に袋を置いて玄関に戻ると、外で車が止まる音がする。
あっ!と思い、急いで自室に戻る。封筒と印鑑を手に取り玄関に走ろうとすると、案の定
チャイムと共に外で大きな声がする
「塔矢さーん、アキカン便で〜す!」
───あれ?山猫宅急便で来るはずだけど・・・・・
そう思いながら急いで玄関の戸を開ける。配達員は伝票を見ながら、
「認めお願いしまーす」
と言い、品物をアキラに手渡す。発泡スチロールで出来た箱の両側から、持ちやすいように
紐が付けられている。アキラは片手でそれを受け取りながら印鑑を差し出す。
「はい、どーもー」
と伝票に印を押して、印鑑を返す時、配達員は初めて相手が子供である事に気が付いた。
不安になったのか、品物を見ながら念のために言葉を添える
「冷凍便ですから」


(12)
自分が頼んだ品物かどうかを頭の中で確認するのに時間がかかって、ボーッとしていた
アキラであったが、違う事がはっきりわかると、気恥ずかしさに襲われて、顔が赤くなるのが
わかる。
「あ・・・・はい、冷凍便ですね」
やっとの思いでそう答えると、すでに門の方に歩き出している配達員を目で見送る。

戸を閉めて溜息をつくと、台所に荷物を持って行く。どうしようかと、暫し考えたアキラは、
取りあえず、中身を確認する事にした。荷物に貼り付けてある伝票には受取人である父の
名前と差出人の名前が書いてある。内容の欄には「大岩井乳業アイスクリーム詰め合せ」と
ある。伝票を剥がすと、それを冷蔵庫のドアにマグネットで付けておく。発砲スチロールに
巻かれている透明のテープを剥がして蓋を開けると、カップアイスクリームがぎっしり詰まって
いた。とにかく溶けないように冷凍庫に入れなくてはいけない。扉を開けて、1個ずつ空いて
いる所に入れていく。バニラ、抹茶、オレンジ、そしてレモン味のアイスがある。
───レモン味か・・・・・美味しそうだな
アキラは微笑みながら、ヒカルとのファーストキスを思い出していた。

それは、北斗杯代表選抜東京予選のあった日の事だった。
アキラが告白したのは1月中旬だったので、それから一ヶ月あまりが経っていた。その間
2人は棋院で顔を合わせる事も殆ど無く、アキラにとっては辛い日々が続いていたのである。
一度すれ違った時、ヒカルは仲間数人と楽しそうに話していた。告白して以来、ヒカルからの
返事待ちであったが、2週間が経過したにも拘わらず、ヒカルからの連絡は全く無かった。
毎日ヒカルの事を想いながら、不安に胸が締め付けられそうだったアキラは、怯えるように
ヒカルに目を向けると、ヒカルは何か言いたげにアキラを見返していた。しかし、友達と
一緒に居るヒカルに話しかける勇気はその時のアキラには無かった


(13)
アキラが、自分のヒカルへの想いにはっきり気付いたのは、『4月にある予選に通る
までは来ない』と言ってヒカルが碁会所から帰ってしまった後の事だ。
初めて出会った時から、アキラの中に占めるヒカルの存在は、本人が意識するしないに
拘わらず大きなものになっていた。自分をはるかに超える力量を持つヒカルに、恐れなが
らも憧れにも似た感情を持っていたのかも知れない。
自分とは打たない、と言うヒカルに、なりふり構わず立ち向かった中学囲碁大会の三将戦。
あの時の失望は、ヒカルに対する激しい「怒り」に変っていたが、心のどこかで、自分を
脅かす存在として、ヒカルが再び自分の前に現れる事を切望していたのであろう。
院生となって再びアキラの前に現れたヒカルの存在を、必要以上に意識している自分が居た。
『まだ出合った頃の進藤の碁の強さが忘れられないからだ』と自分に言い聞かせていたが、
それだけでは説明のつかない、今まで持った事の無い感情が、心の中で蠢いていた。
ヒカルが手合いに出て来なくなった時には、怒りと心配で、学校まで会いに行かずには
居られなかったが、『もう打たない』と言うヒカルに対して、全く無力な自分が情けなく、
またもどかしくもあった。自分に出来ることは、ヒカルの目をもう一度碁に向けさせる事
しか無いと考え、ひたすら碁に打ち込む事で苛立ちを押さえ込んでいた。
ヒカルが復帰して、待ちに待った2年4ヶ月振りの対局。それまでの、追い追われる
関係から、「共に高みを目指す永遠のライバル」に変った瞬間である。
ヒカルの棋力に対する疑心暗鬼にも、アキラなりに心の決着をつけ、今のヒカルの打つ
碁がヒカルのすべてだと思う事にした。

それからの2ヶ月間は、アキラにとって、今までに味わった事の無い充実した日々だった。
学校の帰りに、ヒカルと碁会所で待ち合わせて、碁を打ったり自分達がその週に打った碁の
検討をしながら新しい1手を考えたりする。同じ年と言う事もあって、全く遠慮の無い
意見の交換は塔矢門下の棋士達と研究する何倍も楽しくて、時間が経つのを忘れる程であった。
ついお互いに激昂してケンカになってしまう事もしばしばあったが、それでも次に会った
時には、何も無かった様に話が出来る不思議な関係になっていた。


(14)
その日も、いつもの様に、ヒカルのその週の対局を巡って言い争いになった。それに対して
アキラ贔屓のお年寄りが口を挟んだ事がきっかけとなって、ヒカルは出て行ってしまった。
ヒカルの、北斗杯代表選手になるまでは来ない、と言う言葉以上にアキラに衝撃を与えたのは
『神の一手はオレが極めるんだ』と言うヒカルの一言だった。
小さい頃から「神の一手」を極めるために努力を惜しまず精進してきたアキラである。
棋士なら誰でもが抱く願いである事は承知していたつもりだが、ヒカルからその言葉を
聞いた時に、全身に鳥肌が立つのを感じた。何処かで、「自分を追ってくる存在」としてしか
その頃のヒカルを見ていなかったのかも知れない。そのヒカルが、自分を通り越して、
すでに「神の一手」を目指している事に、少なからずショックを受けたのだ。
自分にとってヒカルの存在は一体何なのだろうか?ヒカルにとって自分の存在は何か意味が
あるのだろうか?前に進むヒカルの目の中に自分は存在しているのだろうか?4月になったら、
また今までの様に自分の所に碁を打ちに来てくれるだろうか?

この日以降、アキラは暇があるとヒカルの事を考えている自分に気付いた。考えても仕方が
無いのに考えてしまう。出会った頃の事、中学囲碁大会で見た美しい一局の事、インターネット
カフェまで探しに行った時の事、ヒカルが『碁をやめない』と言いに来た時の事・・・・・。
ヒカルの顔を思い浮かべると、今までに感じた事の無い胸の高鳴りを抑える事が出来ない。
そして、「進藤に会いたい」・・・・と、激しく思っている自分に驚く。このもやもやした感情は
一体何だろうか?切なくて苦しくて自分の心をコントロールする事が出来ない。これは一体?

そして、ある瞬間に、それが「恋愛感情」である事にアキラは気付いた。


(15)
───そうか、ボクは進藤の事が好きなんだ・・・・・
そう納得すると、今までのもどかしさは不思議に消え、重かった気持ちは軽くなった。
その代わりに、以前のように碁会所で会う事が出来ない寂しさがアキラを襲ってきた。
2人で碁を打つ事も、話をする事も出来ない寂しさは、これもまた今までアキラが感じた
事の無い感情で、心にポッカリと穴が開いたような虚しさと、飢餓感がないまぜになって、
ヒカルの顔を思い出しては溜息をつく毎日だった。
棋院で顔を合わせる事はあるかもしれないが、ヒカルは院生時代の仲間か、森下門下の
棋士と一緒に居ることが多いので、ゆっくり話が出来るわけではない。このまま待って
いたら4月になるまでまともに話をすることが出来ない。
アキラは、ヒカルが碁会所から怒って出て行ってしまったままになっている事も気になって
いた。北斗杯予選に出ない自分に対して悪感情を持っているかも知れない。自分が頼んで
予選を免除してもらったわけではないし、予選に出てヒカルと共に選手になれる自信は
もちろんある。むしろそうして欲しかったが、アキラの活躍と注目度はあまりに高く、
それを許さない雰囲気が囲碁界にはあるのも事実だった。

ヒカルを想って悶々とする日々であったが、気分転換も兼ねて、中国語と韓国語を習う事
にした。勉強は元々好きであったし、北斗杯のためだけではなく、先々絶対に必要になると
思ったからである。
年が明けて、久し振りに碁会所に行くと、いつものようにアキラ贔屓のお年寄りが居て、
色々話しかけてくる。笑顔で応対しながらも、ヒカルの事が話題になると、心穏やかでは
いられなかった。
───進藤に会いたい。会って自分の気持ちをもう一度確かめたい。

対局スケジュールを見ると、高段者が集まる木曜日の手合いにヒカルが出てくることが
分かった。とにかく一度ヒカルと話がしたかった。



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