Heat Exhaustion 11 - 15


(11)
「タオル、適当に使わせてもらいましたけど……」
 ステンレスのトレイを手にリビングへ戻ってきた緒方に、アキラは白いハンドタオルを
ひらひら振ってみせた。
「ああ、気にしないでくれ。それはそのまま持ってるといい。ここにいれば、どのみち
汗を拭くことになるんだ。ハンカチ程度じゃ間に合わないだろ?」
 アーロンチェアに腰掛けるアキラにブラッディ・メアリーのタンブラーを手渡すと、
緒方は一言つけ加えた。
「さっきのよりウォッカの量を減らしたからな。辛さはお好みでコレを入れてくれ」
 そう言って、細長い小瓶をPCデスクの上に置いた。
「辛さの原因はタバスコだったんですね……」
「それだけじゃないがね。ペルツォフカという唐辛子を漬け込んだウォッカを使ってるから、
タバスコなしでもそれなりに辛いはずだ」
 緒方の言葉を受け、アキラは試しにごく少量を啜ってみた。
「これだとちょっと辛い程度ですね。たくさんタバスコを入れてもいいですか?」
「ああ。好きなだけ使っていいぞ」
 アキラは頷くと、まず盛大にタバスコを振り入れ、それからタンブラーの縁に添えられた
レモンをギュッと絞った。
指についたレモンの果汁を舐める舌がいやに赤かった。
先刻飲み干したブラッディ・メアリーの所為だろう。
軽く咳払いをすると、緒方は額に浮かぶ汗を手の甲で拭った。


(12)
 緒方はトレイを手近な棚の上に載せると、自分のタンブラーを手に窓際へと向かった。
途中、チラリと見遣った壁の時計は14時を10分程過ぎていた。
最も暑い時間帯だけに、室温の更なる上昇は避けられない。
窓辺に立つと、両隣のベランダで稼働するエアコンの室外機のモーター音が、微かに、だが間違いなく
聞こえてきた。
窓はやはり開けられそうもなかった。
唇から小さな溜息が漏れた。
 ブラインドのスラットを指で僅かに持ち上げて外の様子を窺いながら、緒方は薄い琥珀色の液体を
ゆっくりと口腔内に流し込んだ。
甘さの中に微かな苦味を含んだ芳香が口蓋から鼻腔へと抜けていく。
冷えた炭酸の泡が口中で小気味よく弾ける音が、耳に心地良かった。
ささやかな幸福を見出したことに取り敢えず満足すると、その液体を嚥下した。
 修理屋からの連絡を受けた後、涼を求めて外出することも一度は考えた。
だが、何故か気が進まなかったのは、アキラの来訪を心のどこかで期待していたからだろうか。
40度に迫る勢いの密室で過ごす風変わりな休日も、ひとりでなければそう悪くない。
そんなことを考え、緒方はひとり苦笑した。
 タンブラーに浮かぶ氷にスラットの隙間から射し込む夏の光が当たり、乱反射してきらきらと輝いていた。

「座らないんですか?」
 アキラの声に、緒方は慌てて振り向いた。
アキラは何度もマドラーでブラッディ・メアリーをかき回しては味見をし、その度に首を傾げながら
タバスコを振り入れていた。
その表情は、実験に没頭する科学者さながらの真面目腐ったものだった。
 たかが酒1杯でも、興味を抱くとそこまで真剣になれるのがアキラのアキラたる所以なのだろう。
幼い頃からそうだった。
アキラは関心と無関心の振幅が並外れて大きい子供で、それは今も変わってはいなかった。
 緒方は吹き出したいのを堪え、側へ歩み寄った。
「立ってる方がいいんだ。下手に座ると、スラックスが肌にベタベタくっついて嫌なんでね」
「ここに座るなら、いつでも言ってくださいね」
 アキラは笑顔でそう言うと、再びマドラーでタンブラーの中をぐるぐるかき回した。


(13)
 ようやく満足できる味に仕上がったのか、タバスコのキャップを閉めると、アキラは緒方に尋ねた。
「緒方さんが飲んでるのは?」
「そこにある本を4、5ページ前に戻すと、答が書いてあるぜ」
 緒方が目線で示したPCデスクの上部の棚には、文庫本がページを開いた状態で伏せてあった。
どうやら外国の作家のミステリー小説らしい。
緒方の部屋の本棚には、いつ読んでいるのか見当もつかないほど大量の本が並んでいた。
恐らくその中の1冊なのだろう。
 アキラは本を手に取り、言われた通りパラパラとページを戻すと、目から10センチ程の距離まで
近付けて熱心に文字を追った。
「これってチェスの話ですか?棋譜がどうこうってあるけど……」
 アキラの呟きにピンときた緒方は、すかさず助け船を出した。
「そのもう少し先だ。……まァ、それはチェスの話ってわけじゃないが……」
 アキラはページを1枚捲り、程なく自信満々といった様子で顔を上げた。
「わかった!『ハイボール』でしょう?」
 緒方は笑いながら手にしていたタンブラーを掲げた。
「ご名答!レシピもまったく同じだ。フォア・ローゼスをジンジャーエールで割ったからな。
さっき読んでいたら、コレを飲みたくなってね」
「読書中だったんですか?やっぱりボク、お邪魔だったんじゃ……」
「何度も読んでるから気にしないでくれ。それは、たまに読み返したくなる本なんでね」
 申し訳なさそうに見上げるアキラの肩を、緒方は優しく叩いた。


(14)
「でも、こんなに暗いのに、よく読書なんてできますね?ボクはここまで近づけて、辛うじて読める程度なのに。
そういえば、今日眼鏡をかけてないのは……?」
 タンブラーから唇を離すと、アキラは不思議そうに尋ねた。
「蒸れてレンズが曇るから外したんだ」
 緒方はそう言ってアキラが座るアーロンチェアのアームレストに片手を置くと、互いの鼻先が触れるか
触れないかの距離まで顔を近づけた。
硝子質の黒曜石を思わせるアキラの瞳をまじまじと覗き込む。
そんな緒方の瞳は、彼が手にするタンブラーの中で揺れる透明な液体と同じ薄い琥珀色だった。
「オレとアキラ君じゃ、瞳の色が随分と違うだろ?オレにはこの程度の光量で読書には十分なんだが、
瞳の色が濃いアキラ君には暗すぎるんだろうよ」
 ニヤリと笑うと、緒方は自分のタンブラーをアキラのそれに軽くぶつけ、中身を飲みながら身体を起こした。
 緒方の説明は、いささか難しかったようだ。
アキラはわかったような口振りで「ふうん」と呟いてはみたものの、納得できずに首を捻った。
緒方には容易にできることが、自分にはできない。
その事実が、なんとなく悔しかった。
 だが、そんなことを思いつつも、アキラの視線は何故かある一点に注がれていた。

「ところで……キミはどうもコレが気になって仕方ないようだな」
 緒方は壁際の本棚に寄りかかると、自分のタンブラーをアキラに見せつけるように軽く振った。
アキラは持っていたハンドタオルを頬に当て、少しばつが悪そうな顔をした。
「ばれちゃいましたか?緒方さんが美味しそうに飲んでるから、つい」
「アキラ君は結構顔に出やすいからな。特に進藤の話題になると、その傾向が顕著なんじゃないか?」
 緒方は鼻で笑った。
『進藤』の一言に面白いまでに反応するアキラを、高みから見物してやろうという魂胆だった。


(15)
 案の定、アキラはいきり立ってハンドタオルを自分の膝に叩きつけた。
「それはお互い様でしょう?緒方さんだって、思い当たる節が幾らでもあるハズですよ!?」
 真っ向から否定されると踏んでいただけに、緒方にとってその切り返しは予想外だった。
考えれば、実際に思い当たる節はあった。
ありすぎて数え切れない程だ。
とは言え、それを素直に認めるのも何やら腹立たしかった。
「……言ってくれるじゃないか。いいぜ、コレはやらないから」
 緒方はこめかみをひくつかせてそう言い捨てると、大人気なくぷいっと横を向いた。
タンブラーを一気に傾け、ロクに味わうことなくハイボールを喉の奥へと流し込んだ。
 負けじとブラッディ・メアリーをガブガブ呷ると、アキラは唇を尖らせた。
「ケチ」
「ケチで大いに結構」
 緒方はわざとらしく胸を反らせ、アキラを睥睨した。
 子供じみた他愛もない言い合いだったが、互いにそれは百も承知だった。
顔を見合わせる2人の目は、確かに笑っていた。

「良かったな、アキラ君」
 一息ついた緒方は、シャツの胸元を摘んで繰り返し扇ぎながら声をかけた。
ハンドタオルで首筋を拭っていたアキラが、手を止めて尋ねた。
「……え?何がですか?」
「進藤だよ」
「あ……」
 アキラは手にしていたタンブラーに視線を落とすと、中に浮かぶ氷を揺らして壁面にぶつけた。
涼しげな音を立てる氷を見つめる眼差しは、波ひとつない水面のように穏やかだった。
だが、その内に秘めた劫火の如き激しい感情を見抜けない緒方ではない。
「復帰後、順調に勝ってるじゃないか。キミとの対局は名人戦1次予選の1回戦だろ?楽しみだな」
 アキラは顔を上げた。
強い意志を感じさせる瞳をしていた。
「そうですね」
 万感の思いを込めて静かに答えるアキラに、緒方はひとまず微笑んだ。
複雑な胸の内を顔に出す程酔ってはいなかった。



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