Shangri-La 11 - 15
(11)
一方でアキラは、ヒカルが自分に与えてくれた時間を懐かしく思う。
二人でいるときのヒカルは、いつも穏やかにアキラの隣にいて
他の人と居る時とは表情も態度も全然違って、それが嬉しかった。
特に、ヒカルが香りを纏うようになってからは、
アキラはヒカルの側を離れられなくなった。
ヒカルの香りは、ヒカルに触れる程近くにいないと香らなかったから
碁を打つときも、差し向いではなくヒカルの膝の上に居た。
ヒカルの香りに包まれ、預けた背中で体温を感じながら
のんびりと打つ碁は、信じられないほど心が落ち着けた。
そんな碁があるなんて、それまで全然知らなかったし
碁打ちであることを心から幸せに感じたのは、唯一そこだけだった。
大人の中で育ってきたアキラにとって、あの場所は人生で初めて
ありのままのアキラを受け入れた場所だった、と改めて思う。
アキラは、最後にヒカルが碁会所を飛び出した後ろ姿を思い出した。
ヒカルは、あの場所は、碁会所でヒカルの後ろ姿を見送った瞬間に
消えてしまったのではないだろうか?
あの時ヒカルを引き止めていたら、もっと違っていたかも知れない、と
何となく思った。
なぜ、碁会所を飛び出した彼を追わなかったんだろう。
その前に、なぜ碁会所から出ていく前に引き止めなかったんだろう。
――もう、あの場所に帰ることはできないんだろうか?
(12)
ここでだけは、泣きたくない……緒方さんの前でだけは。
その頑なな意思だけが、アキラの表情を変えさせずにいた。
泣きそうになる心を変えたくて、ヒカルを悪者にしようと試みる。
ついこの間までいい顔しておきながら、連絡も突然切って
人のこと放っておきっぱなしだなんて、何考えてるんだか分からない。
しかも、人の話も聞かずに電話を切るなんてあり得ない。
大体碁会所で検討やってるときだって、人の話はあんまり聞いてないし
聞いてるかと思えば途中で遮るし、揚げ句放り投げて帰っちゃうし
なんていい加減なヤツなんだろう。
なのにボクは何故、今までそれに気づいてなかったんだろう。
あーなんだか本当腹たってきた!進藤もヒドイけど、自分もバカだ。
結局、アキラの瞳にはうっすらと涙が浮かび始めた。
「アキラ…」
緒方はそっとアキラを抱き締め、唇を重ねた。
今日の緒方は香りが違う。
多分マッチケースのおねーさんの趣味なのだろう、とアキラは思った。
自分を呼ぶ声がとても懐かしく、なんとなく身を任せた。
うっすらと目を開けると、緒方の肩越しに対岸の灯が見えたが
涙でそのスカイラインは滲み、暗いはずの空はどこまでも明るく映った。
(13)
執拗に唇を吸われ、舌で愛撫を施されているうちに、アキラの思考は停止していた。
緒方の香りが、ヒカルのものととても良く似ていて
その香りの記憶に安心してしまったのかもしれない。
――もっと…もっと欲しい……
アキラは緒方の首に両腕を回し、下半身をすり寄せながら
自ら舌を緒方に差し入れ、搦め合った。
シャツの裾から進入した手が、素肌をまさぐる感触が嬉しかった。
胸の突起を捏ねられ、走る一瞬の快感に反応する。
緒方はアキラの首筋を舌でなぞり始めた。唇を開放され、呼吸が楽になった。
(――違う!?)
吸い込んだ香りは、アキラが期待していたヒカルのそれとは違って
もっと硬質で、ヒカルの香りの暖かさを無機質なものでくるんで覆ったようだった。
香りの違いに驚いたことで少し気持ちが冷え、わずかに思考が戻った。
(そう言えば、緒方さんと海に来てたんだった…)
緒方とはもう終わらせたはずなのに、懲りずに欲情している自分が嫌だった。
逃げたいと思うのに、無意識のうちに身体を捩らせ、緒方を求めている。
アキラは、激しく緒方を求めるまま、眉根を寄せゆるゆると頭を振った。
快楽に身を乗っ取られた自分に出来る、せめてもの抵抗だった。
「今、何を考えていた…?」
緒方の動きが止まった。口調も少し鋭い。
ヒカルを思い、緒方を拒絶したい気持ちの横でアキラは緒方を求めて、
身体をさらにすり寄せた。
「あ…ん、…やめないで……もっと…しようよ……」
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「何を、したい?」
「きまってるでしょ…セックス、しよう……ボク、欲しいんだ…」
アキラの潤んだ漆黒の瞳は、焦点を定めず緒方を見ている。
その表情は年齢とはかけ離れた猥らさで、頭に血が昇ると同時に背筋が寒くなった。
「何が欲しいんだ?」
「そんな…自分で誘っておいて、そんな野暮なこと、聞くんだ…」
アキラはもう今この昂ぶりを静めてくれるなら誰でも良くなっていた。
さらに先へ誘うべく、緒方の股間のジッパーを下ろして手を滑り込ませ、
勃ち上がっているものを愛おしそうに愛撫し始めた。
その手のもたらす感覚に緒方は一時うっとりしたが、
頭の中ではアラームがけたたましく鳴り、この先は危険だと知らせている。
緒方は、アキラをかき抱いて耳元に唇を寄せた。
「しばらく見ない間に、随分エロティックに誘うようになったじゃないか…。
お前にこんなに淫らに誘われたら、誰だって呑まれてしまうな…。
あいつは経験が少なそうだから、驚いたかな?
碁界の優等生が、その実、売女だったなんてな…」
ぴく、とアキラの手が止まった。
待って、待ってよ…、とアキラは抗議したが、緒方は構わず続けた。
「いや、それとも――こういう誘い方がお好みなのか?進藤は…。
見かけによらないな…お前にここまで仕込むとは…」
緒方は一つ息を吸い、冷静なよそ行きの声を作って言った。
「オレは、誰かの代わりにお前を抱くほどお人よしでもなければ、
誰でもいいから欲しいと乞われて受ける程、相手に困ってもいない」
不意に緒方から身体を放され、アキラは自分を支えきれずに膝をついた。
緒方はアキラに背を向けると、内ポケットから煙草を引っ張り出した。
アキラは、やり場のない興奮を身体の中に滾らせ、むせび泣いた。
(15)
結局、緒方は「帰るぞ」と冷たく言い放ち、振り返りもせずに車へと戻り
終始無言でアキラを家まで送った。
なぜ海へ連れて行かれたのか、アキラは聞いてみたが、答えはなかった。
自宅はやはり、一人で居るにはあまりに広過ぎた。
あまりの辛さに、誰かに縋りたいと思ったけれど、気がつけば結局一人だ。
みんな、隣にいたと思っても、次の瞬間には消えて居なくなっている。
もう、たくさんだ。
もし今度、誰かと一緒にいられる日が来たら、その時は
絶対に自分を一人にしないよう約束してもらおう。
ひとりでいるのは、もう絶対にイヤだ。
――でも、今は一人で居たかった。
もし次に誰かに縋って、その誰かもまた居なくなったらと考えると
それよりは一人の方が、失うものが無い分だけ、まだましに思えた。
夜の静寂が耳に痛くて、せめて家に両親がいればと思ったが
帰国までは、あと3日もあった。
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