Trick or Treat! 11 - 15
(11)
「ごめんなさいね、緒方さん。芦原さんから聞いたわ」
明子夫人から詫びの電話が入ったのはその日の夜のことだった。
門下の中でも最年少の芦原は、まだ入門して日も浅いというのに夫人やアキラから
抜群に受けがいい。
媚びることなく、自分を歪めることなく、自然体のままで人に好かれる芦原もまた、
緒方にとってはささやかな嫉妬を感じる人種の一人だった。
どれだけ碁の勉強をして強くなっても、自分はきっと一生そんな風にはなれない。
「あ――いえ。オレが大人気なかったのが原因ですし――それで、その――
あの・・・先生にも、そのことは・・・?」
「あの人には、言わないほうがいいと思うわ」
即答が返ってきた。
「芦原さんたちともこのことは伏せておきましょうっていう話になったの。大丈夫よ。
今も、あの人がアキラさんとお風呂に入ってる間にと思ってお電話差し上げたの。
今二人でお歌を歌っているんだけれど、聞こえて?」
「・・・微かに」
「幼稚園のお遊戯の時間に習ったお歌をね、毎晩ああして歌っているのよ。
今日のことも、幼稚園で他の子がお友達にしたのを見て真似したみたい。
男の子が好きな女の子にちゅっ、てしたら、女の子が泣いちゃったんですって。だから」
「ああ・・・」
そう言えばアキラが外で色々なことを覚えてくると、昼に聞いた気がする。
自分が菓子をくれないとわかった後の、そんなことを言ってどうなっても
知らないぞと言わんばかりのアキラの不敵な笑みを思い出した。
(12)
「・・・とにかくそんなわけだから、緒方さんもこのことはあまり気になさらないでね。
今日は本当にごめんなさい」
「いや、そんな――オレは・・・オレよりもアキラくんに、悪いことをしたと思って――」
「あら、どうして?」
「・・・オレはともかく・・・アキラくんにとってはその――初めての」
「ああ。ファーストキス?」
受話器の向こうで夫人がけろっと言った。こんな単語を師匠の夫人に言わせるのは、
いわゆるセクハラというものになりはしないかと少し焦る。
「そんな、だってあの子はまだ子供だし、それに男性同士でしょう?
そんなの、キスのうちに入らないわ」
「そう――でしょうか」
「そうよ。あの子がもっと大きくなって、素敵な女の子を見つけて――
本当に好きだと思う相手とキスしたら、それが本物のファーストキスよ。
口がくっついただけでキスになるなら、私なんて実家で飼ってた犬のペロに
しょっちゅう顔を舐められていたのがファーストキスになっちゃうわ」
夫人がころころと笑った。
「・・・・・・」
「あら、もう出てきたみたい。アナタ、アキラさんの新しいパジャマ置いてあったの
分かりますー?え、なーに?・・・ごめんなさいね緒方さん、それじゃ今日はこれで」
上機嫌らしい師匠とアキラの合唱が大きく近づいてきたところで、電話は切れた。
ツーツーという無機質な電子音の中受話器を置きながら、緒方はなんとなく
深い疲労感を覚えてその場にずるずると座り込んだ。
タバコを一本取り出し煙を吸って吐き出すと、
甘い匂いのするあの感触が、タバコの刺激に紛れて消えていく。
ホッとしたようながっかりしたような、妙な気持ちだった。
(13)
通りすがりの花屋に、見たことのあるオレンジ色の物体がデンと据えられてあった。
「・・・・・・」
立ち止まって眺めていると、店の奥から学生のような若い女の店員がニコニコと出てくる。
仕方なく緒方は呟いた。
「・・・最近は、花屋でもカボチャを売るのか」
「今日はハロウィンですから。大きいのは店の飾り用ですけど、小さいのを
ご自宅用に買っていかれるお客様は結構多いですね」
「小さいの?」
「こちらになります」
店員が体をずらした方向に、緒方の手のひらより一回り小さいくらいの
オレンジ色のカボチャが、大きいカボチャと同じように目と口をくり抜かれて笑っていた。
金色と薄桃色の夕映えが次第に菫色がかった青に染まり始めると、もう黄昏時だ。
逢魔が刻だ。
お化けや魔女が街中を練り歩き、甘い菓子の匂いに誘われて家々の扉を叩く時間だ。
花屋の包みを抱えコートの襟を立てて家路を急ぐ緒方の頭上で、
暮れ時の鮮やかな青い空を背景にした黒い街路樹のシルエットから、
何か黒い鳥の影がバサバサッと飛び出していった。
(14)
最近は自分で鍵を開ける日と、開けないで済む日とがある。
マンションのエントランスで部屋番号を押す時にふっと思いついて、
包みから取り出した顔つきカボチャをモニターの前に押し付けた。
「はい」とモニターの向こうに現れた相手が、息を呑む音が聞こえる。
その反応に満足しながら、緒方はカボチャをどけ自分の顔を見せた。
「オレだ」
「・・・開けますよ」
一枚板と厚いガラスを組み合わせた、エントランスの自動扉が開く。
エレベーターを降りると、エプロンを着けたアキラが中からドアを開けて待っていた。
「お帰りなさい。あまり変なことをしないでくださいね」
「ただいま。・・・お土産だ」
両手を差し出させて載せてやると、アキラは不思議そうに首を傾げた。
「・・・カボチャ?」
「ハロウィンだ」
「そうですけど。緒方さんの部屋って、クリスマスもお正月も何か飾られていたのを
見たことがないから」
「昔を思い出したのさ」
「ふうん・・・?ボクが、飾っていいですか」
「ああ」
片手でネクタイを解きながら、着替えるために緒方は寝室へと向かった。
(15)
深刻な喧嘩を何度か繰り返した末に、緒方はやっと「アキラと一緒に暮らす」
という選択肢を思いついた。
結局自分はアキラが常に自分の手の届く所にいないと不安なのだ。
年上の兄弟子という立場にしがみついて大人ぶってみせても、
実の所はアキラが離れていくのが怖くて、置き去りにされるのが怖くて、
捨てられるのに怯えているただの情けない男なのだ。
惚れた相手に去っていかれるのを恐れる男など世の中にはいくらでもいて、
自分はその中の一人に過ぎない。
そう自分を相対化してしまうと楽になった。
渋られたら土下座してでも頼み込むつもりで緒方が提案した共同生活を、
アキラはあっさり承知した。
ただし、両親が留守中の家を管理しなければならないし訪ねてくる人々への
応対もあるから、一週間ごとに生家と緒方の部屋を行き来する。
そんな条件だったが、アキラが定期的に自分のもとで暮らすことを承諾したと
いうだけで緒方の精神は格段に安定した。
以後、アキラはまめに通ってきては緒方と共に時間を過ごし、
生家に戻る時は何やかやと自身がいない間の注意事を申し渡して帰っていく。
お守りされている、と思う。
だが見栄や意地を捨て去ってしまえばその状態は信じられないくらい心地よく、
自分たちにとってはむしろこうした状態でいるほうが自然な姿なのだと
思うようになった。
盤上の世界での優位を譲り渡す気は毛頭ないが、
それ以外の部分で、役にも立たないプライドを後生大事に守る必要など
かけらもなかったのだ。
|