裏階段 アキラ編 11 - 15


(11)
アキラは駆け引きをするようなタイプの人間ではない。
おそらく本気で誰かを呼び出してここで一緒に朝まで過ごすつもりなのだろう。
さっきまでのごく日常的な会話を交わしていた年相応の少年はそこには居なかった。
テーブルの上で前菜からディナーへと内容と食器が変わっていったようにかつて何度か夜を
二人だけで過ごうちに本能に忠実な魂の容れ物にアキラは豹変していった。
白く細い手首を掴みながら、今アキラに捕われたのは自分のほうだと自覚せざるを得ない。
「…これが最後だぞ。」
それだけ言うのが精一杯だった。
アキラは頷かなかった。
ただ静かに勝ち誇ったような光を瞳に宿して笑み、テーブルの上でこちらの手からアキラは
自分の手を抜くと、オレの指をなぞり、そっと握ってきた。

六畳間の片隅に敷かれた小さな布団の中でその赤ん坊は眠っていた。
「先生」はいくつかのリーグ戦の最中で既に所持していたタイトルの防衛戦も迫っていた。
暫く明子夫人がアキラを連れて実家に帰る話も出たが、「先生」が強く反対した。
オレはどちらでもよかった。
ただ新しい生命が生まれたと同時にそれまでもほとんど自分に向けられる事のなかった父親の愛情が
完全に途絶えた。その時の事をふと思い出した程度だった。
起こさないように畳の上を這うようにして赤ん坊の顔を覗き込んだ。
寝ていると思った赤ん坊が不思議そうにこちらを見つめ返して来た。


(12)
白目の部分が青みがかった程に澄んだ、真っ黒な大きな瞳がこちらを見ている。
父親でも母親でもない対象を泣きもせず捕らえている。
クセのない、柔らかそうな黒髪がすでに生え揃っていた。
「ふう…ん。」
自分が何に感心したのかよくわからなかったが、綺麗な顔をしているなとは思った。
確か男の子だったはずだ。「先生」もさぞかし嬉しかっただろう。
顔の直ぐ脇で握られている小さな手にそっと指で触れてみた。
この手も、いつかは碁石を握る事になるのだろうか。
その時その小さな手が開いた。こちらが差し出した指に興味をもったようだった。
その手のひらに人さし指を乗せると直ぐにぎゅっと握りしめてきた。
そのままそれを口に持っていこうとする。
まずい、と思った。
自分はさっき煙草をどっちの手で持って吸っただろう、いや、ここに来る前に手を
洗っただろうかとあれこれ考えた。
赤ん坊の物を握る力が意外と強い事に驚く。かといって強引に引き抜くのも気が引けた。
一瞬だけ、唾液に濡れた温かい小さな唇が触れた。
少しばかり手が開いたので、そおっと指を抜いた。
赤ん坊はなくなった指の代りに自分の指を口に含んだ。
やけに機嫌が良いのかニコニコしている。
無意識のうちにうちに自分も笑顔で赤ん坊を見つめていた。指先でそっと
ぷっくりとふくらんだ頬に触れるとくすぐったそうに肩をすくめる仕種をした。


(13)
あの時、全ての指でオレの人さし指を包んだ小さな手が育ってここにある。
長くしなやかな細い指でテーブルの上でオレの手を捕らえている。
こちらからは振りほどこうとはしないことを、彼は知っている。

上品なベージュ色に統一されたホテルの室内は静かだった。
遠くで微かにサイレンが鳴る音がして、遠ざかっていく。
カーテンを開けて見下ろせばホテルの周囲の公園の闇の向こうに宝石箱をひっくり返したような
色とりどりのネオンの絨毯が広がっている。
このホテルで食事をしようと連絡をとってから直ぐに予約を入れたわけだ。
それもダブルの部屋を。未成年者のくせにチェックインはどうしたものだったのか。
可愛げがあるんだかないんだか表情に戸惑うところだが結果的に苦笑した。
「何が可笑しいんですか?」
背後からそう呼び掛けられたと同時に腕が回されて背中にアキラが顔を伏せて来る。
「やけに積極的だな。」
そう言いながらもアキラの頭の位置が随分高くなったと感じる。
ここ一年でアキラはずいぶん背が伸びた。
あの三谷という少年を抱いた後のせいか彼と比べると骨格も随分しっかりした様に見える。
「…まずいな。」
そう呟きながらそれでもまだ見下ろす位置にあるアキラの顔を眺めて彼の顎を手で捕らえる。
するとこちらが顔を寄せるより先にアキラが両手を伸ばしてこちらの首を抱き寄せ、
火が着いたような激しさで唇を合わせて来た。


(14)
勘が鋭い子供だった。
「先生」が地方に対局で出かけるために数日家を空ける事も多く、そういう時に限ってアキラは
よく高熱を出した。もちろんだからと言って引き止められるものでも出先から呼び戻せるものでもない。
赤い頬でぼんやりと宙を見つめるアキラを抱きかかえた明子夫人を乗せて小児科の病院まで
車を飛ばすのはオレの役割だった。
だが次第に盤面に置かれる石の音に父親の存在を感じ、自分が置かれた環境を敏感に肌で
学んでいったのだろう。そのうち熱を出す回数は減っていった。
と同時に、両親の他にいつも自分の身近に居る者の存在を認識していった。

特に優しく接したつもりもなく極めて事務的にできる範囲で主人が居ない間の家を
守っただけのつもりだ。
ある時裏の軒下に燕が巣作りをし、早い段階でふんを受ける板を巣の下に取り付ける事を
明子夫人に頼まれた。倉から道具を持って来ると既にアキラが自分の背丈と
同じ程ある足場を庭先から引きずって来て待っていた。
頭を撫でてやると嬉しそうに笑い、オレが上に登って作業する間アキラはじっと見ていた。
自分も共にこの家を守っているんだ、と言いたげに。
たいした仕事でもないのに明子夫人がお茶を煎れて持って来てくれたので
縁側に腰掛けてひと休みした。
お盆にはちゃんとアキラの分もあり、アキラは満足そうにオレの隣に腰掛けてお茶を啜った。
父親を尊敬し父親の仕事を理解する一方で、父親から得たいものを代わりに与えてくれる者を
彼が欲しがっているのは容易に想像出来た。


(15)
彼に与えるべきなのはそれだけだったはずだった。
そしてオレに自分がある意味同様に得られなかったそれを彼に与える事が出来るはずがなかった。

「…どこで間違ったのかな。」
長い包容の後ようやく唇が離れた時にそう呟いた。
「何の話ですか?」
まだ鼻先が触れあう程間近な位置でアキラの瞳が妖しく輝いている。
欲しい獲物は絶対に逃さない肉食獣の瞳だ。
昼間は穏やかに年長者に対し礼儀正しく立ち振る舞う優しげな表情の少年と同一人物だと
誰が信じられるだろう。
「ボクたちは間違ってはいません。…決して。」
こちらの迷いを見透かすようにそう言ってアキラは笑みを浮かべ、もう一度顔を引き寄せて
軽いキスをすると服を脱ぎながらバスルームに入っていった。

小学校に上がるころにはアキラは「先生」と門下生とが碁を打つのを興味深く見つめるようになった。
オレが打つ時も石をいじらないという約束を幼いなりによく理解して辛抱強く傍らで座っていた。
どちらかといえば父親よりもオレの傍らに座った。父親と戦っているつもりだったのだろう。
その頃本格的に入門した芦原が自分の膝の上にアキラを座らせようとして逆に拒絶されてしまった。
検討会に大人の中にアキラが混ざる時、大概オレの隣にアキラが座するのを見て
「いいなあ、緒方さんは。アキラくんに懐かれていて。」
と本気でそう言って唇を尖らす芦原に呆れた。そんなのはただ、一緒に過ごした
時間の差でしかないと思ったからだ。



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