裏階段 ヒカル編 11 - 15


(11)
「あれは見ものだったよ。あんなアキラを見たのは、初めてだった。」

日々対戦希望者が増え、その日もsaiに対局を申し込む者が多かったはずである。
saiはそれらを断ってアキラに対局を臨んで来た。
打ち始めて間もなくアキラの様子は激変した。
「まさか…、…まさか…」
「アキラくん?」
声をかけても耳に入らない様子で、魅入られたように、まるでパソコンの画面から白い腕が
伸びて抱きかかえられてしまったかのように精神を絡め取られて、
アキラはパソコンの画面に釘付けになった。
他に何を問いかけてもアキラは答えようとせず画面の向こうに居る者から意識を
外そうとしない。
正直に言えば、その時嫉妬に近いものがオレの中を奔った。
あれ程に進藤に対する失意を抱え、他の誰の処よりもまずオレに縋りに来たアキラが
一瞬の間に一気に別の者の元へ駆け戻って行ってしまったように感じた。

画面上で進んだ手は、確かに卒なく両者布石としては申し分ない流れだった。
これから局面が展開していこうとするところでアキラは突然投了してしまった。
周囲でsaiとの観戦に湧いていた選手らは皆溜め息を漏した。
「このままでは大会の運営に支障をきたします…、後日改めて対局を申し込みます。」
確かにアキラのその判断は正しかった。
だがオレには、アキラが進藤との逢瀬を別の時空で果たそうとしているように見えた。


(12)
抱き締める力を弛めると、進藤はホッとしたように両腕を引き抜き、こちらの胸の上に
顔を乗せて来た。耳を当てて心音を確かめるようにして片手で胸から肩口へと手の平で触れて来る。
無意識下で進藤はよくこういう所業をする。
実体であるのを確認するように。
そんな時は優しく髪を撫でてやると進藤は安心したような穏やかな呼吸になる。
相変わらず痩せてはいるが、進藤の体は以前よりもひと回り大きくなったのは確かだった。
それを感じさせないのは一向にそれ以外の第二次成長期の変化の兆しがないからだろう。
未だに気分が高揚した時に、よく通るかん高い少女的な声を出す。体毛が極端に少なく色が薄い。
肌が元々見事に全身均等に淡い小麦色をしていたのでその分目立たないのだ。
碁を始める前は夏はプールに通い詰めだったらしいが、水着をつけていたはずの箇所と
日に灼けたところが互いに侵食し合ってしまったように区別がない。
一度それに気がつき、面白がって押さえ付け、まじまじと明るいライトの下で眺めていたら、
やはりひどく進藤の機嫌を損ねてしまった。
進藤は行為の時は極端に明かりを嫌った。当然日が落ちない間は許可しなかった。
「他の誰かに見られているわけでもないだろうに」と言ってもダメだった。
部屋の全ての明かりを完全に落とすまでは決して自分の体を開こうとしない。
初めて抱いた時も、進藤の心と肉体を説得するのに相当の時間を要した。
今日もたまたま地方都市でのイベントに進藤と一緒に参加する事になったものの、
こうして2人だけで会えるとは思っていなかった。
それはそのまま、まだ進藤の心の傷が癒えていない事を指していた。


(13)
大会のお土産が他の何よりアキラとsaiのネット再戦の日時を持ち帰る事となって
参加者が興奮気味に会話している会場を後にして、黙ってアキラを見つめた。
アキラは少し怯えたようにオレと目を合わそうとしなかった。
唇を噛み締め、「ボクは悪くない」と言いたげだった。
sai探しをアキラにさせたのはオレなのだから当然だろう。
「今度の日曜日の朝10時…か。さてと、名人には何と説明するつもりかな。」
そう言ってやると初めてアキラは「あっ」と大事な件を思い出したような顔になった。
手を口元に持って行き、暫く考え込む。
そしてこちらに顔を向けてはっきり答えた。
「プロ試験のことは、大丈夫です。…絶対合格しますから。」
そこには今日の事も全て自分が先生に説明するから余計な口出しをしないで欲しいという
要請が含まれていた。
「わかっているよ。」
そう答えるしかなかった。進藤を追う事とオレとの事は一切別の話なのだろう、と。
取り引きをするかのようにその日アキラはオレのマンションに寄っていった。
その時はそれまでより若干手荒いやり方になったがアキラは黙って従った。


(14)
「お前もアキラくんとsaiのネット対局をどこかで見ていたのか。」
「うん。…見てたよ。」
オレの胸に顔を伏せながら、少し進藤が体をぶるりと震わせた。
一度後始末はさせたつもりだったが体内の残留物の影響が出始める頃だった。
「バスルームに行くか?」
そう聞くと、進藤はこくりと頷いた。答えるや否や進藤の体が跳ね起きて駆け抜け、
部屋の奥にあるその場所へ消えていった。
後をついていきたいのはやまやまだったが、それをやったらまた姑くの間進藤が口を聞いて
くれなくなるので我慢した。
少なくともこのイベントの間は彼とは穏やかに過ごしたかった。
腕を伸ばして灰皿とその脇にあったライターと煙草を取り、口に咥え火を点ける。
その紫煙の向こうにこちらを見つめるアキラの冷たい表情が浮かび上がった。
「君も悪いんだよ、アキラくん…」
そう語りかけるとアキラが消え、今度はアキラとsaiの一戦が、あの時の棋譜が蘇った。
自室で見守ったあの対局。


(15)
約束の時間通りにそれは始まった。
会場ではアマチュアの棋士らが騒ぎ過ぎているように感じたが、こうして実際に見ていると
時間の使い方や攻守の切り替えのタイミングなど、アキラの数段上をいく格の違いを感じさせられた。
なおかつ明らかに余力を残しているのだ。
「…驚いたな…。ネットの中にこういう打ち手が居たとは…。」
アキラにも十分それがわかったのだろう。彼らしく自力では挽回不能と判断して早々と投了した。
あれ程に進藤に惹き付けられ捕われたのも頷ける。
ただしあくまでsaiの正体が進藤であれば、の話だが。
自分も子供囲碁大会で進藤が黒石の死活を見切った場に居合わせたわけが、実際その現場を
見た訳ではない。
大事な対局の場で不用意な発言をした少年と、成熟した精神の高みを思わせるこのsaiとは
どうしてもオレの中では結びつかなかった。アキラも恐らく葛藤していることだろう。
もちろんプロ棋士の中にsaiのような打ち方をする者は何人か思いあたる相手が居たが、
彼等に確かめる気にはならなかった。
それはアキラがやる事であってオレの仕事ではなかった。

碁会所でアキラに会った時にでもネット対局の感想でも尋ねようと思った。
そして進藤をネットカフェで見かけたと常連客から聞いてアキラが飛び出していった話を
市河から聞かされた。



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