裏階段 三谷編 11 - 15
(11)
伯父は少年に優しかった。だが囲碁を学ばせる時は厳しく、そして熱かった。
それは伯父の打つ碁そのものだった。
酒が好きで、碁の指導の合間もよく臭った。時として手合いの勝敗の勢いを
そのまま自宅に持ち帰り、勝てた時は少年が望んだ訳でもない高価なものを
買い与え、負けた時は意味もなく少年を殴ったりした。
だがそうして少年に手をあげたしばらく後で、泣きながら少年に謝り抱き締めて来た。
その時は少年の方が保護者のように白髪の混じった短く刈り上げた伯父の頭を撫でた。
いつからか、泣きながら抱き締めながらもその手が、少年の体をまさぐるようになった。
人とは厄介な生き物である。記憶しようとしたつもりもない、忘れたはずのものが
何かの拍子でこうして鮮明に頭の中に蘇る。
皮肉なのはそれらの記憶が交渉事の支障にならず、新たに興奮を加えている。
「は…あっ!」
自分の体内を侵略するものが質量を増したことを彼は敏感に感じ取り喘いだ。
一瞬見開かれた彼の大きな瞳がベッドサイドの明かりによって暗がりの野生動物のように
光る。受け入れる苦痛だけで体力を消耗しているのか、声をあげるわりに抵抗はない。
片手を枕の上の方を、片手で腰の近くのシーツを掴んで握りしめている。
少しでも痛みから逃れる為か自ら体を深く折り、両足をこちらの腰に絡み付ける。
すでに瞳は閉じられ、汗とも涙とも区別がつかないものに目尻を濡らし光らせている。
経験からなのか本能的なのか、彼の先を誘うような仕種に引かれそのまま腰を埋めた。
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その時に彼の体内を駆け抜けた痛みを自分はよく知っている。知っていて与えている。
痛みの向こう側にある痛み以外のものも知っているからだ。だから彼も、こうして
声にならない悲鳴をあげながらも受け容れている。人はそれが自分が選んだ痛みなら
受け容れられる。
「…君はあの時、どんな気持ちだった?」
ひとしきり彼が激痛に喘ぎようやく落ち着いた時に訊ねてみた。
こちらの質量に彼の体が慣れるまで動くつもりはなかった。
彼の心臓の鼓動がそのまま伝わって来そうな程に彼の体の奥深くに我が分身は
入り込んでいた。
「な…んのはな…し…?」
胸を激しく上下させて天井を見つめたまま彼は聞き返し、しばらく沈黙した後、
ああ、と小さく唸った。
「…べつに…」
新聞社が主催の小さな囲碁のイベントがあった。
自分は参加の予定はなかったのだが、近くに用事があり、ついでに立ち寄ってみた。
進藤が指導碁で参加していたからだ。
以前の同じようなイベントで、プロになって間もなくにかかわらず進藤は
なかなかどうして、上手い具合に年長者を相手に上手く打ち方を解説していた。
その時と比べて格段に腕を上げ、落ち着きを持ち始めた進藤が今度はどう指導するか
見てみたいと思った。彼を、その会場の片隅で見かけたのだ。
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イベントは特に参加者に年令の制限を区切ったものではなく、広く告知をした規模のものでも
なかったため、特定の地域の高齢者の集いに毛が生えた程度だった。
進藤やその他の棋士や、おそらくオレ自身の名前を聞いてもさほどに反応出来ない初心者が
多数を占めていた。それでも今年に入って、そういう類いの仕事が棋士達の間に増えていた。
ブームという安っぽい言葉はあまり使いたくはないが、ちょっとした娯楽として囲碁が
地域のイベントに加えられる機会が多くなったのは確かなようだった。
そういう催しに年寄りに混じって進藤と同年代の少年少女達もやって来る。
幼い時から熱心な親に背中を押され、ではなく、友達とゲームセンターに行くのを誘いあう
ような感覚で、というものらしい。本格的に囲碁を学ぶ者にはそれなりの機会がまた別にある。
最初進藤を囲っていた一群は前者かと思った。進藤が嫌がると思い表立って彼の前には行かず
物陰から様子を見ていた。自分で自分の奥ゆかしさがおかしかった。
進藤は自分と同世代の者達に熱心に碁を指導し、聞く側も進藤の一手一手を食い入るように
見つめていた。
「進藤君の学校の生徒たちらしいですよ。」
脇を通りかかった棋院の職員が微笑ましそうに目を細めて教えてくれた。
「進藤君もちょっとテレくさそうですね。」
「…そうかな、」
少女も混じったその集団の進藤を見つめる目は真剣そのものだった。「知り合い」や
「お友達」という甘ったるさは彼等の間には少なくともその瞬間は感じられなかった。
その「彼等」から少し離れた場所に彼は立っていた。
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彼がしている事は自分と同じだとすぐに分かった。進藤とその周辺の者に気付かれない
ようにして、進藤を見ている。
彼の視線を追うようにして、もう一度進藤を見る。
自分には触れる事が許されない存在。汚したくない存在。自分が棲む世界とは
違う世界に住む存在。他にはどんな言葉が当てはまるだろう。
肉体的な領海は何度か犯しながら気持ちの上では進藤を手に入れる事は叶わなかった。
そんな相手が他にも存在する。
進藤の前は、その相手を、何度か同じようにそうして見つめていた。
手に入らないと分かっていながらショーウインドウに張り付く子供のように、
透明なガラスの冷たさを手の平や頬に感じなければ自分の心を納得出来なかった。
「はあっ…あ、…あ…」
様子を見ながらゆっくりと腰を動かした。そういう行為を受けるように出来ている
器官ではない。そんな当たり前の事が分かっていない人種も中にはいるようだが。
言わなくても彼は自ら角度を微調整して来た。アキラもそういう所があった。
アキラは、自分が誰かの代用として抱かれている事を察していた。
進藤だけは、何度体を重ねてもそういう真似が出来なかった。大抵痛みの余りに
途中でひどく不機嫌になり、sexの後しばらくは口を聞いてくれなくなる。
それでも2〜3日もするとケロッと何もかも忘れたように明るく話し掛けて来るのだった。
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痛みに身をよじる淡い小麦色の進藤の肌が、青白く変化して現実に体の下にいる彼に
成り変わる。
自分は、たいして愛情を持たなくても相手を抱く事が出来る人間だった。と同時に、
愛情の欠片も持たない相手に抱かれる事も出来た。
伯父に体を弄られながら碁盤を見つめる事も多かった。胡座をかいた伯父に手招きを
される度、何かに失望しながら、何かを憎みながらもそんな心をどこかに追いやって
服を脱ぎ、伯父の肉体の一部を体に埋めて伯父の出す詰碁を解いた。
解けるまでは終わらなかった。詰め後は急速に難解になっていった。
囲碁を習う部屋や、自分が使う布団の不自然な汚れが伯父の家人に気付かれない
はずがなかった。
独立して家を出た子供達の代わりに、おかみさんは伯父が連れて来た自分の事を
可愛がってくれたが、伯父との肉体的な関係が始まってからはその事が精神的な
負担になっていった。
ある時、学校から帰るとおかみさんが庭に立っていた。来春から通う中学校について
相談しなければならなかった。「ただいま」と声を出そうとした瞬間におかみさんから
手に持っていたバケツの水を顔に叩き付けられた。
「…泥棒猫!!」
忌々しそうに家の中に入って音をたてて戸を閉じるおかみさんの後ろ姿が気の毒で、
ただ自分はため息をついてその場に立ち尽くすしかなかった。
冷たい風の中で学校の指定のコートから水滴が落ちるのを漠然と見つめていた。
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