森下よろめきLOVE 11 - 15
(11)
「おい」
「ごめんなさい・・・」
艶やかな黒髪の向こうから、ポツッと一粒光るものが落ちた。
森下はうろたえた。これは、自分が泣かせたということになるのだろうか。
「おい、・・・別に怒ったわけじゃねェぞ。ただ、おまえの親父やお母さんを安心させる
ためにも、早く帰ったほうが――」
「森下先生にせっかく助けていただいたのに、こんなことを言うべきじゃないって
わかってます。・・・でも・・・ボクはまだ、ここに来た目的を果たしていない。
・・・帰れません」
森下は仰天した。
「おいおい、そりゃあどういうこった?おまえみたいなお坊ちゃんが、こんな所に
何の用があるってんだ。知らずに言ってるんだろうが、この辺りは――」
言いかけて森下は口を噤んだ。
もしかしたら――そうではなく。
知っているのか?
この辺りがどういう場所なのか、何を求めて人々が集まる場所なのか承知の上で
アキラはここを訪れ、あの薄汚れた街角に立っていたのだろうか。
さっきの不良青年にしても、まさか相手があんな人数で無理やり事に及ぶとは
思っていなかったから自分に助けを求めたまでで、もし相手が最初に声を掛けた
二人だけで和やかにアキラをホテルにでも連れ込んでいたなら――
突然、アキラが先ほど見た靴下だけの格好で金を握らされ、二人の青年に犯されて
淫らに喘いでいる光景が生々しく目の裏に浮かび、森下は思わず首を横に打ち振った。
――馬鹿な。何を考えているんだ!?オレは。
(12)
「ともかくだ。何か事情があるんだろうが、通りがかった大人の義務として
オレはおまえをこのままここに放ったらかしとくわけにはいかん。おまえが嫌だと
言うなら、引きずってでも家まで送っていくだけだ!」
「あ・・・!嫌っ!」
森下がアキラを捕まえようと大きな手を伸ばすと、アキラはそれを振り払い
首を縮めてその場にしゃがみ込んでしまった。
「おい!?」
森下が見ると、アキラは身を守るように縮こまってカタカタと小さく震えている。
殴ろうとしたわけでもないのに何故こんな反応を示されねばならないのかと一瞬心外に
思ったが、そう言えばアキラは今さっき男に襲われたばかりだったと思い出した。
まだ、恐怖心が癒えていないのかもしれない。
そうだとしたら可哀相なことをしたと思った。
「・・・すまなかった。怯えさせるような真似しちまってよ。だがよ、このまま一人で
ここに残ったら、もっと怖い目に遭うかもしれないんだぜ?さっきだって、オレが
居合わせなかったら自分がどういう目に遭ってたか、分からないほどガキじゃねェだろう」
「それは・・・分かってます。でも・・・」
「帰る気はねェ。力づくで連れ帰るのも無理。・・・か。行洋ん家に連絡して迎えに来て
もらうってのは――」
アキラが顔を上げ、涙に濡れた黒い瞳を見開いて泣きそうな顔で首を振る。
森下は溜め息をついた。
「オレに、どうしろって言うんだ」
「ごめんなさい・・・」
「まあ、いいさ。・・・そこまで強情張るからには、何か事情があんだろう」
森下は満月を見上げた。
家路を急ぐ最中にとんだ厄介事に出くわしてしまったものだが、ここでアキラに
会ったのも何かの縁だったのかもしれない。
(13)
「とりあえず――メシでも食いに行くか」
森下がポツリと呟いた。
「え?」
「メシだよ。・・・おまえだってそろそろ腹減ってくる時間だろう?腹が減ると、
人間ロクなことは考えなくなるもんだ。逆にたらふく食って腹が一杯だと、
脳味噌から胃袋に血が集まって細かいことはどーでもよくなっちまう。
だから煮詰まった時は美味いもん食って気分を入れ替えるのが一番だ。
オレが奢ってやるから。行くぞ」
「でも・・・森下先生、ご自宅に帰られる途中だったんじゃ」
「ああ。だがまぁ、家は消えてなくなるわけじゃねェからな。とりあえずこっちの
用事のほうが大事だろ。・・・何か悩み事があってそれを親には話せないってェんなら、
オレに話してみたっていいじゃねェか。オレだって一応おまえが生まれた時から
知ってるんだし、オレで出来ることなら力になってやるからよ」
乗りかかった船だ。
どうせここまで関わってしまったのなら何とかアキラが家に戻る気になるまで、
そしてもう二度とアキラがあんな危ういことはしないと確認出来るまで、
とことん付き合ってやろうと森下は思った。
「森下先生に・・・相談を?」
「ああ。何だったら、朝までだって付き合ってやるからよ。ホラ、立ちな。
駅前に美味い丼物屋がある、そこに連れてってやるから」
「朝まで?」
アキラの目がキラリと光った気がした。
(14)
「あ?――あぁ」
それを聞くなりアキラはすっくと立ち上がってニッコリと微笑んだ。
「丼物屋さん、美味しそうですね!お話を聞いてたら、ボク何だかお腹が空いて
きちゃいました。森下先生が連れて行ってくださるんですか?」
――なんだなんだ、今コロッと態度変わらなかったか?コイツ。
少し面食らったが、アキラが街角に立つのを止めて移動する気になったのは
ひとまず喜ばしい。
さっきは裸を見てつい妙な気分になってしまったりもしたが、相手はまだまだ
食べ物に釣られるような子供なのだという意識が森下の心に余裕を生んだ。
「その店は味噌汁も美味いんだ。酒も飲める所だから、この時間だと仕事帰りの
サラリーマンで混んでるだろうが――まあ少し待つくらいはいいだろう」
「はい!楽しみです。あ、でもボク、こんな格好でお店に行ったら変でしょうか・・・」
アキラがしゅんと自分の体を見た。
土埃で汚れたズボンはともかく、ボタンの引きちぎれたシャツで店に入っていったら
さすがに変に思われるだろう。
森下は黙って自分の背広を脱ぎ、アキラの肩に掛けた。
「・・・これじゃ駄目か?」
アキラは一瞬驚いた顔をして、それから森下の顔を見つめ、それは嬉しそうに微笑んだ。
(15)
「・・・先生、寒くありませんか?ボクが上着を取ってしまって」
「なぁに言ってんだ。行洋と違って、そんなヤワには出来てねェよ」
「あはは。お父さんも丈夫なほうですけど、喧嘩は森下先生のほうが強そうですね。
さっきボクを助けてくださった時、先生とってもカッコ良かった・・・」
「おう、それ行洋に言ってやってくれよ」
軽口に紛らわしていたが、妙な気分だった。
森下の大きな上着を着たアキラは先ほどからずっと森下の腕に掴まり、
身を押し付けるようにして歩いている。
最初にアキラが腕に掴まってきた時少し驚いたが、目が合ったアキラがあまりに自然に
ニコッと笑いかけてきたので拒みそびれてしまった。
変に機嫌を損ねて、またここへ残るなどと言い出されるよりはよいかと思った。
だが歩くにつれアキラはどんどん体を摺り寄せてくる。
傍から見たら自分たちはどんな関係に見えるのだろう。
ふと、先刻見た若い男女のカップルが寄り添いながら歩いていった姿が頭をよぎった。
彼らが通り過ぎる時若々しい柑橘系の香水の匂いが鼻をかすめたが、今自分の腕に
縋りついているアキラからはもっと無垢で柔らかな、石鹸の甘い香りがする。
そのアキラを、自分の匂いの染み付いた中年臭い背広が包んでいる。
あのカップルは今頃どこかのホテルだろうか――
何だかまた調子が狂ってきそうで、森下は努めて前方の進路だけを見て歩いた。
時折アキラがこちらを見上げてくる視線を感じたが、気づかないふりをした。
しばらく無言で歩いていたアキラが、何を思ったか森下の逞しい肩にこつんと頭を
載せかけてきた。
そう言えばアキラの下穿きは今自分のポケットにあるから、歩くアキラの腰部は
直接ズボンの布地に擦れているのだなと、
そんな考えが取りとめもなく浮かんでくるのを浮かんだ端から打ち消しながら、
森下はアキラがビクッとするほど大きな声で
「あれだあれだ!あの店だぞぉ塔矢!」
と、先に見えてきた灯りの下の暖簾を指差した。
|