指話 11 - 15
(11)
普段より早めに碁会所での指導後を切り上げ帰り支度をしていると、常連の一人が漏らした。
―それにしてもあっちの先生は大変だねえ。週刊誌にあんな記事が載るなんて…
市河がその人を睨み付けるが、相手はその視線に気付かず続ける。
―念願のタイトルを奪ったこの時期につまらんケチがついたもんだ。
―…?
―囲碁の事などまるでわからん三流記者の書いたものだよ。気にするような事じゃない。
広瀬が取り繕うように小声で耳打ちして来て、早く帰るよう促された。
碁会所にも自宅にも、週刊誌の類いは置いていない。読む必要のないもの、
そういう認識しかなかった。ただ、妙に気にかかった。
将棋界の話題が時折一般の新聞やTVを賑わす事はあったが、
囲碁界はまだまだそういう話題に縁のないいたって地味な世界だと思っていた。
足は自然に本屋に向かい、普段足を踏み入れない雑誌のコーナーに立ち寄る。
それらしい本を端から順に手にとってページを繰る。女性の裸や水着ばかりの
グラビアに躊躇しながらそれを探す。長時間そうしている自分に怪訝そうな
目を向ける大人もいたが夢中で探した。意地になっていた。
そうして見つけた記事は、拍子抜けする程小さなスペースだった。
有名人とかつて一夜を供にしたという匿名女性の手記で、芸能人やスポーツ選手の後に、
“最近大きなタイトルを手にした女性の間で人気急上昇中、スーツの似合う囲碁棋士”
程度に表現を濁してあった。“彼の夜の棋力は―”
くだらない、と思って本を閉じた。
(12)
最近碁会所の数が増えたと感じる。イベントに参加してくる人の数や年齢層が
変わって来ている。流れが変わりつつあるのは確かだった。
ごくたまにだが、イベント会場以外でサインを求められる事もあった。
―がんばって下さい、応援しています。
同世代くらいの人からそう声をかけられる。
そういう流行の兆しの時にはいろいろな弊害も付きまとうものなのだろう。
今おもちゃやとして囲碁のセットを買う子供達の中の多くは多分、ブームが終われば
二度と碁盤に見向きもしなくなる。彼等を引き付けておく為には魅力的な打ち手の
継続的な存在が必要なのだ。
あの人は、意識的に華やかさを演じているような気がする。
ブランド品のスーツや派手なスポーツカーで囲碁界の頭の古い長老達の眉を
顰ませる一方で、一部の若手の棋士達の強い支持を得ている。
伝統という仮面でからみつく物に坑がおうとしている。自分にはそう見える。
そんな表の顔の陰で彼が日々繰り替えして来た地道な努力を知っているだけに、
少しでもこういう形で彼が意図しているものを歪められるのは許せなかった。
そんなものに目を止めた自分が恥ずかしかった。
自分の目の届かないところで進藤と打ち合うのではと心配していた事が情けなかった。
まず進藤の碁と今一度向き合おう。そして進藤と供にあの人の目指すところの
新しい波、若手の旗手として相応しい存在になろう―。改めてそう決意した。
だが、大手合いに進藤は来なかった。続く若獅子戦にも。
―進藤…?
(13)
自分が抱えているものが相手に通じない。そんなもどかしさが押さえられず
彼が通う中学校まで進藤を追ってしまった。結果は失望的なものだった。
進藤は、突然自分から逃げ、囲碁界から消えようとしている。
―オレは、もう打たない。
彼はそう言った。
―進藤は自分を追っていたのではなかったのか…?
いきなり何か理不尽に自分が取り残されたように感じて怒りが込み上げて来た。
囲碁に魅力がなくなったのか、自分に対する闘争心がなくなったのか。
…それとも、イベント先で何かあった…?
次の日学校を出た自分の足は、あの人のマンションに向かっていた。
進藤の様子がおかしい、その事で話を聞いてみたかった。
自分の中にうずまく何かに対する怒りをぶちまけたかった。
かつて一度は離れかけた進藤との接点をあの人が引き寄せつなぎ止め、けしかけたのだ。
話を聞いてもらうくらいいいはずだ。…そして…そして?
そして…話を聞きたかった。あの人が、今思っている事を。
父に勝った事でも、記事の事でも何でもいい。
自分が向き会いたいと思っている相手からこれ以上距離をおかれてしまうことには
耐えられない。
父ではない。進藤でもない。
一度でいい。あの人に自分を受け止めて欲しい。心の片隅に密かに蓄積されてきた
思いが募り、それに突き動かされていた。
(14)
あの人の車の助手席に乗る事は何度かあった。自分の家と棋院会館を結ぶ道のりと
それに準ずる程度の距離だけ、門下生として過ぎない程度に、あの人は足代わりを
よく勤めてくれた。それ以外のルートを踏む事はなかった。
ましてやあの人の自宅はそのルート上に存在する必要はなかった。
それでも自分は、あの人の部屋の場所を知っている。
会う訳ではないのに立ち寄ったことがある。
あの人は地下駐車場から車で出入りしている。マンションの入り口付近に立っても
偶然会える可能性など皆無に等しい。それでも何度か来た事があった。
近くに用事があったから、必要な本を探していたから…。
偶然会えた時のために用意した言い訳は使われる事は一度もなかった。
一度だけ、インターホンを押した事があった。
父について地方に行った時、お土産を買った。それを手渡そうとした。
だが、その時はその部屋の主人は留守だった。お土産は、手渡せなかった。
ガラス細工が施された灰皿か何かだったと思う。もらってもたいして嬉しくない代物だ。
今でも自分の机の抽斗の中のどこかにある。渡せなくて良かったと思う。
でも今日は、もしも偶然会えたなら素直に話してしまいそうだった。
―会いたかった。…と。
神様とは、そういう時に限って望みをすんなり叶えてしまうものらしい。
インターホンを押すと、暫く間があって、いくぶん低く掠れたあの人の声が返って来た。
こちらの名を告げると、さらに間があいた。声ではなくドアチェーンを外す音を
聞けるまでは、悪戯をして玄関から閉め出された子供のように心細かった。
(15)
そしてドアが開いて、驚いた。
パジャマの上にガウンというラフな格好であの人が立っていたからだ。
―どこか具合でも…?
もしそうなら上がり込む訳にはいかない。タイミングが悪かったと思った。
―そういうのじゃない…君の方こそどうしたんだい?
―進藤が…、
会いたかったという本音を塗り込めるようにして夢中で言葉を強めた。
―進藤が、囲碁をやめるって…、もう打たないって言うんです。それで…
―進藤が?
その人は壁にもたれてけだるそうに髪をかきあげる。かきあげた髪の中で手を止め、
思い当たるふしがないように首を傾げていた。
―確かに君にとっては一大事だな、それは。…上がりなさい。
―いいんですか…?
―君が構わなければ。
上がって直ぐに酒とタバコの強い残り香がした。リビングに酒瓶が転がっていて
灰皿は吸い殻で溢れていた。明け方まで飲んでいたような様相だった。
良い飲み方をしていなさそうなのは明白だった。
―今日は久々のオフだったものでね。塔矢先生に知れたら大目玉かな。
―言い付けたりしませんよ!、ボク…、
思わず真剣に言ったのがおかしかったのか、あの人にククッと小さく笑われた。
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