誘惑 第一部 11 - 15


(11)
「誘惑?」
アキラが目を丸くして、和谷の言葉を繰り返した。
「へぇ、そうなの?」
それからヒカルに向かって、こんな風に言った。
「ボクがキミを誘惑したんだってさ。そうなのか?進藤。」
「塔矢っ…!」
面白がっているような口調のアキラを咎めるように、ヒカルはアキラの名を呼んだ。
「今、誘惑されてたのはボクのほうだと思うんだけど、ねえ、進藤?」
確かに仕掛けたのは自分の方だ。
和谷に自分とアキラとのキスシーンを見られただけでも恥ずかしいのに、こんな事を言われて、
ヒカルは恥ずかしくて死にそうな気分だった。
いつから見られてたんだろう。こんな所でキスをねだっていた自分をみられてたんだろうか。

からかわれているのがヒカルなのか、自分なのか、それとも両方なのか。
こんな場面を見られても、ひとかけらも慌てた様子を見せないアキラに腹が立って、和谷はアキラ
を睨みつけた。アキラはそんな和谷の視線を平然と、いやむしろ面白がるように受け止めた。自分
を、そしてヒカルをも、もてあそんでいるような、そんなアキラの態度に怒りが湧いてくる。
「塔矢、おまえ…」
怒りに震える声で自分を呼ぶ和谷に、アキラは小さく微笑った。


(12)
「誘惑って言うのはね、」
アキラはヒカルの肩を抱いていた手で、そのままそこにいるように、と、ヒカルを押しとどめ、それ
から、つい、と和矢に向かって足を踏み出した。
気圧されたように、和谷が一歩後ろに下がった。
気にせず、アキラが和谷に詰め寄り、アキラの目が和谷の目を覗きこんだ。真っ直ぐ向けられた
アキラの視線から逃れようと、和谷は視線を揺らした。だがそれに構わず、アキラが今にも触れ
そうな至近距離まで顔を近づけると、和谷はもう、逃げられない。底の見えないような深い黒い瞳
に、幻惑される。
和谷の瞳に怯えを感じ取って、アキラは目をすっと細め、唇の端を軽く持ち上げた。それから、
両手で和谷の頬を包み込み、引き寄せ、目を伏せて唇を重ねた。
呆然としている和谷の中にアキラの舌が侵入した。逃げようとする和谷の顔をアキラはしっかり
と押さえつけ、舌を絡めとる。和谷の抵抗など意にかけず、アキラが和谷の口腔内を蹂躙する。
膝の力が抜けて立っていられなくなりそうになり、和谷はアキラの腕と肩にしがみつく。それでも
アキラは和谷への攻撃を止めない。薄目を開いて和谷の表情を観察し、そして和谷から完全に
抵抗の意思が消えたのを確認してやっと、アキラが和谷の唇を解放し、顔をはなした。
アキラがとん、と和谷の肩をつくとそのまま和谷はカベにもたれかかって、呆然としてアキラを
見上げた。
「こういうのを言うんだよ。誘惑するっていうのは。」
アキラは和谷の耳元でそうささやくと、一歩下がって、クス、と笑って和谷を見た。


(13)
かあっと和谷の頬が赤くなった。
悠然とその様子を見下ろしながら、そのまま、立ち位置を変えずにヒカルの方を振り向いて、
「進藤、」
と呼んで、手を伸ばした。
「塔矢っ…」
目の前で起きていることにどう反応したらいいのか―怒るべきなのか、 わからないまま、ヒカル
は自分に向かって伸ばされたその手を掴まえた。
が、逆にアキラがその手を取って、強引にヒカルの身体を引き寄せた。
そしてそのまま、うろたえたヒカルの唇を塞ぐ。
そしてゆっくりとヒカルを味わった後に、ヒカルの目を見つめたまま、顔を離した。
「…塔矢っ…!」
今度はヒカルがはっきりと非難を込めてアキラの名を呼んだ。
「口直し。」
そう言ってアキラがにこっと笑ったのを見て、ヒカルはかっと身体が熱くなるのを感じた。
それからアキラは和谷を振り向くと軽い笑みを返し、それからヒカルの肩を抱いて、
「行くよ、進藤。」
と言って、和谷をそこに残したまま、歩き出した。
ヒカルがアキラの顔を見、それから、和谷を振り向き、何か言おうとしたが、強引なアキラの手に
引きずられるように、歩き出さざるを得なかった。


(14)
カベにもたれたままずるずると腰をおろし、しばらくの間、和谷は呆然とそこに座っていた。
足に力が入らなくて立てなかった。
何もできずに、何も言えずにいるまま、アキラとヒカルが去っていくのを、ただ見送っていた。
よろよろと手を口元へ持ってきて、指で唇の輪郭をそっとなぞる。
アキラの唇の感触を思い出しながら。
いったい、今、自分に何が起きたのか。
キスって、あんなものだったのか、と陶然としながらも、アキラの顔を思い出した。
それから急に腹立たしさがこみ上げてきて、ぐいと唇をぬぐった。
なんのつもりだ。アイツは。オレを、もてあそんだのか?いきなりあんな、激しいキスをしてきて。
しかも、「口直し」だって?悪かったな、口直しが必要で。
アイツは、何を考えてやがるんだ。
この間のパーティでは突然、今までの諍いなんてなかったように笑いかけてきて。
オレときたら、それだけであがっちまって。蛇に睨まれた蛙みたいに。
そして今日はオレをからかうように、キスなんかして。
あの悪魔は一体何を考えてやがるんだ?
進藤の事も、こんな風にたぶらかしたのかよ?


(15)
「おまえ、なんて事するんだよ…」
「何が?」
アキラはヒカルの方を見ず、真っ直ぐ前を向いたまま、答えた。
「何が、じゃねぇよ、どういうつもりだよ、和谷にキスなんかしてっ!」
「声が大きいよ、進藤。」
低い声でアキラが言った。
階段から廊下に出て、振り返らずにすたすたと早足で歩いていく。ヒカルは必死に後を追う。
アキラは廊下の奥の小さな会議室に入った。
「おい、塔矢、」
ドアを後ろ手で閉めながら、アキラの背中に呼びかける。
「なんなんだよ、さっきのは。なんで、和谷にキスなんかすんだよ、オレの、目の前で。」
「わかってないね、進藤。」
滅多にない厳しい声色の理由が、ヒカルにはわからない。
「怒ってるのはボクの方だよ。」
やっとアキラが振り向いて、言った。
だがその表情の険しさにヒカルはぐっと押し黙ってしまった。
「先にボクの前であいつと仲良くしてたのは誰だ?
今までもずっとずっと、ボクの目の前で楽しそうにあいつと喋ってたのは誰だ?
大事な友達だなんて言ったのは誰だ?あいつと仲良くしろ、なんて言ったのは誰だ?
今までずーっとキミがしてきた事を思えば、キスの一つや二つ、何だって言うんだ。」
「な、何言ってんだよ、それとこれとは全然話が違うじゃ…」



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