敗着-透硅砂- 11 - 15


(11)
(名人が見たら卒倒するな…)
余裕たっぷりの表情で足を組み、ソファに深く沈み込んで煙をくゆらせている目の前の少年を見て思った。
アキラはそれを気にする風もなく、灰皿を引き寄せちらりとこちらを見た。
そして、煙草を大きく吸い込み灰皿へ置くと、グラスを自分から離すようにテーブルの中ほどに滑らせる。
サイドテーブルのこちら側にグラスが滑ってきた。
ソファから体を少しずらして前に移動すると、挑発するような目つきでこちらを一瞥し、上半身を倒して手を使わずに、自分からは離れた場所に置かれたグラスに口を近づけて来た。
その姿はまるで、トカゲか何かの爬虫類のようだった。
サイズの合わないバスローブの胸元がはだけ、幼い色の乳首が見えた。
アキラが前のめりに顔を伏せたグラスに白い煙が静かに注ぎ込まれていく。
目を閉じて少し頬を紅潮させたアキラの紅い唇から、煙草の煙がとめどなく流れ出て、やがて、グラスのブランデーの入っていない空間は煙で真っ白になった。
それを薄目を開けて確認したアキラは体勢を戻して座り直し、グラスの上に手を当ててそれを塞いだ。
得意げに満足そうに足を組み替えると、それを”見ろ”と言わんばかりに、さも愉快そうにこちらの様子を伺っている。
そして、塞いでいたその手をずらしてグラスを包み、目の高さに掲げ持つと、冷ややかな目でこちらを見つめて一言だけ言った。
「乾杯」
グラスの口から溢れ出た白い煙が、グラスを包んだ細く長い指に、ドライアイスのようにもうもうと降りかかっていた。


急に風が吹きつけ、煙草の先が赤く光った。吹いた風のせいではない、身震いをした。
関係を持ったからこそ知った、アキラのもう一つの顔。
年上である筈の自分でさえも、それを空恐ろしく感じることがあった。
深く煙草を吸い込んだ。

あのアキラが本気を出せば、いつでも進藤を取り返せる―――。
(手を出さなければいい)
自分と進藤とは、いわば体だけの関係だ。
本気で進藤に惚れているアキラのことだ。あいつをオトすことなど、その気になればた易いことだろう。
(二人で、どこへでも行くがいい――。俺はもう、お役御免だ……)
煙草を灰皿に押し付けると、林立する高層ビルや遠くに見える繁華街の夜景を見つめた。
雨が止んだばかりのせいか、少し滲んで見えた。


(12)
「和谷、帰ろっ」
研究会が終り、ヒカルが和谷に声をかけた。
「……」
だが和谷はヒカルをちらりと見ただけで、何も答えなかった。
(あれ……?)
「あの、和谷…」
「オレ用事あるから帰るな」
ぶっきらぼうにそれだけ言うと、ムスッとした表情のまま振り向きもせずに靴を履いて、さっさと出て行ってしまった。
「…あれェ…?オレ、なにかしたかなあ…。」
頭をかきながら、後ろで見ていた冴木の方を振り返った。
「ねえ冴木さん。和谷、今日キゲン悪い?何か怒ってる?」
取り残されたヒカルは、冴木と和谷が出て行った方向を交互に見ながら訊いてみた。
二人のやり取りをそれとなく見守っていた冴木は腕を組んで天井を見上げると、「うーん」と考え込んでいたが、やがてヒカルの肩をポンと叩いて一言だけ言った。
「そっとしておいてやれ。」


マウスを滑らし、カチカチとクリックする。
(あった…。ここだ…)
緒方が部屋でパソコンと向き合っている。
新人棋士の戦績を見た。
(進藤…。プロ一年目、最初は勝ったんだな)
知らずに頬が緩んだが、すぐに胸がちくりと痛んで表情を戻した。
マウスを放し、右腕で左の二の腕を掴んで画面上の
「進藤ヒカル」
の文字をじっと見つめた。腕を掴んだ手に無意識のうちに力が入る。
横を向いて水槽を見て、また画面を見た。
(……潮時かもな…)
眼鏡を外して横に置くと、椅子に深くもたれ掛かり、顔を天井へ向けてしばらく目をつむっていた。
(今が潮時なんだ…。今なら、引き返せる――)
その考えを肯定するように画面に向き直ると、手早くパソコンを終了させ「進藤ヒカル」の文字をモニターから消した。
そして立ち上がって椅子を水槽の前まで移動させると、いつもヒカルがしているように前に座って水槽を見つめた。蛍光灯の光が顔を仄青く照らしている。
(進藤…。お前はこうして、ここで魚を見て、何を考えていたんだ――?)
我関せずという顔をして、熱帯魚がひらひらと水槽の中で泳いでいる。
片膝を椅子の上に立ててその上に顎を乗せると、もう片方の脚をぶらぶらと振ってみた。
同じようにしてみても、ヒカルの気持ちは分からなかった。
水槽に備えつけられたフィルターが低音で静かに唸っている。
まだ無邪気にこの部屋で遊んでいた頃のヒカルの顔が、頭に浮かんでまた消えた。
(…コノヤロ、)
思わず水槽を軽く叩いてしまってから、慌ててその部分を撫ぜた。
(このグッピーは、国産の優良種なんだ…)


(13)
(帰るの遅くなったな…)
掃除が長引き、急いで学校を飛び出すとそのまま緒方のマンションへ向かった。
(早く行かないと、先生いつも飲みに行っちゃうからなー…)
それで何度か肩透かしを食わされている。
部屋の前に到着するともどかしげに呼び鈴を押して返事も待たずにドアを開いた。
「よお、お前か」
中から扉を開けようとしていた緒方といきなり鉢合わせをした。
その姿に息をのんだ。
黒スーツに黒ネクタイと、緒方は全身黒ずくめだったのだ。
さっさと中へ戻っていってしまったその後ろ姿に見惚れながら、靴を脱ごうとして下を向くと、磨かれた黒い革靴がきちんと揃えられていた。脇には靴クリームのチューブと薄汚れたスポンジが転がっている。
「今日お葬式なの?」
部屋に入って忙しなく動き回っている喪服姿の緒方に尋ねた。
「いや、通夜だ。さっき電話が入ったばかりでな…。六時半から…なんとかホールで…。葬儀は…明日の十三時から……」
腕時計を見ながら、頭の中で反復するように言う。
「それ、棋士の人?」
「いや、関係者――エライさんだ」
リュックを背中から外し脇へ置いた。
「衣替え――したんだな。制服――」
こちらを見ずに背を向けたままでボソッと緒方が言った。
「先月からだよ。もうずっとだよ」
「――そうか」
てきぱきと出掛ける支度をしていたが、ふと動きが止まった。
「……どうした?さっきからじろじろと見て」
「いっつも白だから」
「そうだな」
「フッ」と笑うと引き出しから封筒を取り出す。
「ヤクザみたい」
「よく間違われる」
真顔で答えた。


(14)
椅子を引いて食卓につくと、緒方は香典袋を前に置いて筆ペンを持った。
筆ペンを握って字を書いている緒方の手元を背後から覗き込んだ。
「………字はフツーなんだね」
「碁は上手いけど」と小さく付け足した。
「黙ってろ。歪む」
慎重に字を書き終えると、息を吐いて立ち上がった。
「ちょっと通してくれ」
自分の体を脇へよけ足早に隣室へ入っていき、しばらくして数珠を手にして帰ってきた。
「遅くなるの?」
「さあ…。焼香だけだと思うが…」
字が乾いているのを確認すると、中に数枚の札を揃えて入れ、熨斗袋に水引を掛けながら答える。
「車で行くの?」
「いや、下にタクシーを待たせてある。駐車場は親族が使うだろうし…」
香典袋を上着の内ポケットにしまうと、改めてネクタイを締め直した。
「じゃあ行ってくるから、部屋を荒すなよ」
「わかってるよ…」
向き直って言った緒方に少しムッとして答えた。
「パソコンは触るな。テレビは好きに見ていい。冷蔵庫の中のものは食べて良いから。後は…、とにかく大人しくしてろ」
早口でそれだけ並べるとばたばたと玄関から出て行ってしまった。

(チェ――…。行っちゃった…)
しんとした部屋に取り残されて、少し心細くなった。
冷蔵庫へ行って扉を開け中を覗き込む。
(ハムもサラミもチーズも食べ飽きた…)
冷蔵庫を閉めてテレビの所へ行き、置いてある数本のビデオテープのラベルを読んだ。
(GT……鈴鹿8耐……なんだコレ…)
テレビから離れると、水槽のある場所に行って熱帯魚のエサを取り出す。
(いっつもこれくらいだよな…)
緒方がエサをやっている光景を思い出しながら、パラパラとタブレットを水面に落とした。
エサの容器をしまってひと息つくと、部屋を見回した。
部屋の隅にあるチェストに目がとまった。


(15)
(何が入ってるんだろう…)
適当に選んだ引出しを大きく引いた。すると、半分に折られた大きめの茶封筒が奥に入っているのが見えた。
(―――?)
取り出して中を開いて見ると、大量の写真が束になって保管されている。
一瞬、どうしようかと考えたが、そろそろとその束を取り出してみた。その一番上の写真に息が止まりそうになった。
そこには、アキラと緒方が二人で映っていた。
(塔矢…!と、緒方先生……。)
心臓が一気に高鳴った。
慌てて次の写真をめくって見た。和室に数人の男性が映っている。一人は緒方だった。
(これは…先生……若い……あ、塔矢のオヤジじゃん、これ…今とあんま変わんねーな……。もう一人は……。見たことある。塔矢門下の人だ……)
次の写真をめくった。
(車……。先生のかな…。今のと色が違う…)
バラバラとめくってみたが、一番最初の写真を上に置いた。
日の当たる植え込みの木の前で、アキラが屈託の無い表情で無邪気に笑っている。
艶々と輝いている黒髪からも、天気の良い日に撮ったことが分かる。その笑顔は安心しきっていた。
二人とも胸から上しか映っていないが、アキラの隣にいる緒方も、穏やかな表情をしていた。
その手はアキラの肩を抱いていた。
胸を締め付けるような感覚が徐々に襲ってきた。
背の高さを考えると、アキラが台か何かの上に乗っているようだった。
(なんだよ……アイツ…、笑うとすっげーかわいいじゃん……。……昔はよく笑ったのかな……)
眼鏡をかけずに、眩しそうに目を細めている緒方の顔を見つめた。
(この二人……仲…良かったんだな……)
それ以上は考えたくなかった。
二人の写真から目を逸らすと、乱れた写真の束の端を床で整え、封筒に入れ二つ折りにした。
雑多に物が入れられている引き出しの奥へ苛々としながらねじ込もうとする。
(ヤバイ、ぐちゃぐちゃになった)
それでもガタガタと引き出しを閉め、大きなため息をついた。
ごろんと床に寝そべると大の字に手足を伸ばす。変哲の無い白い天井が広がっていた。
(塔矢と――仲良かったんじゃん、先生――)
次第に気分がざわついてきた。
写真の中の二人の笑顔が脳裏に焼き付いていた。



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