邂逅 11 - 15
(11)
ヒカルは少し考えていたが、結局緒方に付いてきた。「食事を奢る」の一言が効いたのかもしれない。
彼が緊張しなくてもすむように、気安いイタリア料理の店に入った。ヒカルはパスタを
うまく扱えないらしく苦労して口に運んでいた。
「もう!ラーメンだったらよかったのに…!」
ブツブツと言いながら、スパゲッティをフォークに絡めていく。
その幼い仕草に自然と笑みが零れた。天衣無縫なヒカルの性格を無礼だと怒る者もいるが、
緒方はその無邪気さを気に入っていた。礼儀も言葉遣いもまるでなってはいないが、
それは許容できる範囲のものだ。むしろそこが気に入っていると言っても良い。自分も
お世辞にも品行方正とは言えない身だ。
「あーもう…!」
イライラとフォークを操るヒカルの口元に、ソースが付いている。
舐めとりたい。人目がなければ、やっていたかもしれない。もし、本当にそれをしたら、
ヒカルはどうするだろう。真っ赤になって黙り込むか…それとも、泣いて怒るだろうか。
緒方は、からかいたい誘惑を必死に堪えた。口の中で笑いを噛み殺すのが難しい。ヒカルは、
そんな緒方をキョトンと見ていたが、「あっ」と、小さく声を上げた。
「ん?どうした?」
緒方の問いには答えず、ヒカルはひたすらスパゲティを口に運ぶ。
「ごちそうさま…」
紙ナプキンで口を軽く拭い、水を飲んでホッと一息溜息を吐いた。
ヒカルはモジモジと身体を揺らし、何度も口をパクパクさせる。何か言いたいことでもあるのだろうか。
緒方はヒカルが話すのを待った。やがて躊躇いがちに怖ず怖ずと、彼が口を開いた。
「あのさぁ 緒方先生さぁ。恋人いる?」
(12)
「オレ、この前告白されたんだ…でも…考えたこともなかったから…どうしたらいいのか…」
自分の中の感情が全て凍り付いたように、笑顔が消えた。
「オレ、そいつのことすごく好きなんだ…好きなんだけど…付き合うとか思っても見なかったから…」
頬を紅く染め、俯いたまま語る彼の瞳に、嫌悪の色はない。「わからない」と言いながら、
彼は既に答えを出しているように思えた。
黙ったままの緒方の顔をヒカルが覗き込んできた。
「せんせぇ?」
大きな瞳を不思議そうに何度も瞬かせ、彼が呼びかける。甘ったるい舌足らずな声。
―――――――とられる………!!
咄嗟にそう思った。何故、そんなことを思ったのだろう。いったい、誰に何を盗られるというのだ。
―――――――アキラを進藤に盗られる…
緒方はその考えを打ち消そうとした。何故、自分はこんなにも狼狽え、衝撃を受けているのだろうか。
そんな必要ないではないか。自分とアキラの間に、恋愛感情は存在しない。身体と感情を持て余したとき、
ほんの少し時間を共有するだけだ。お互い身体の熱を吐き出すための道具でしかない。
そうだ。道具だ。お気に入りの玩具を横からとられそうだから、戸惑ってしまっただけだ。
そう思いこもうとした。
「先生…」
怯えたような声に我に返った。自分は今どんな顔をしていたのだろう…般若のように嫉妬に
狂った顔していたのか…それとも、二十余のように哀れな姿を見せていたのだろうか…
(13)
俯いて震えるヒカルを、改めてよく見た。柔らかそうな髪や、優しい曲線を描く頬。彼の
幼さをなおさら強調してみせる大きな瞳に、吸い込まれそうだ。
大人に囲まれた生活を送ってきたアキラには、ヒカルの子供らしい素直さやワガママが
どれ程新鮮に映っただろうか。皮肉屋の自分でさえ、ヒカルの愛らしさに取り込まれてしまいそうだった。
これではアキラはひとたまりもないだろう。ヒカルとアキラの立場が逆だったとしても、
アキラは簡単に陥落したに違いない。
「先生…」
その声に我に返った。テーブルの向こう側に座っている彼の瞳は不安に揺れていた。
「オレ…オレ…」
居心地悪そうに身体をもぞつかせ、視線をあちこちに彷徨わせている。
「進藤。」
ヒカルの身体がビクンと跳ねた。それが、ウサギの子供を連想させて、酷く可愛らしかった。
と、同時に自分が情けなくなる。こんな子供に本気で嫉妬しているのか。自分とアキラは
そんな関係ではないではないか。ただ、ときどき無性に寂しくなる。その隙間を埋めるためだけに、
付き合っている。それだけだ。裏切るとか裏切られるとかそう言った関係ではないのだ。
改めてそう自分に言い聞かせた。胸の痛みがまた少し大きくなった。
(14)
「悩む必要はないだろう。」
ヒカルはポカンと緒方を見た。緒方は出来るだけ優しい笑顔をヒカルに向けた。青ざめていた
彼の顔がパッと明るくなり、満面の笑みを浮かべた。そのお日様のような笑顔に目を奪われた。
「え?どうして?オレわかんねえ…」
甘ったるい声で…とろけそうな笑顔で…緒方を見つめる。
そんなヒカルから目を離せないでいるうちに、彼に対する激しい嫉妬は霜が溶けるように
忽ち消えてなくなった。
だが、代わりにその全てがアキラへと向けられた。嫉妬も怒りも憎悪も全部。
「さ、そろそろ出るか?」
伝票を持って立ち上がった。歩き始めた緒方の背中に向かって、ヒカルはオロオロと
情けない声を投げた。
「え?待ってよ。オレ、まだ教えてもらってねえよ…」
その時の気持ちをどう表現すればいいのだろう。どす黒い靄が胸の中に広がっていく。
「じゃあ、オレの家に来るか?」
今の自分の姿を絶対に鏡に映したくないと思った。 見なくてもわかる。さもしい…卑屈な目を
した男がきっと映るだろう。
「ホント?行ってもいいの?」
うれしそうに自分に向かって駆けてくるヒカルから目を逸らした。
―――――今夜あたりアキラはやってくるだろう…
無邪気になつくヒカルに後ろめたさを感じながらも、その暗い考えを捨てることが出来なかった。
(15)
道路側に出て、タクシーを拾おうとしていると、
「先生、今日車じゃないの?」
と、ヒカルがいささか落胆したように訊ねてきた。
「どうしてだ?」
タクシーのドアが開かれ、緒方は身体を少し横によけて、ヒカルを促した。彼が素直にそれに
従い車に乗り込むのを見届けると、自分もあとに続いた。
「だってさ…緒方先生の車カッコいいじゃん。オレ、一度乗ってみたかったんだけど…」
なるほど、確かに男の子の好きそうな形ではある。緒方自身も、実用性とか利便性を考えると
もっと他にいいものがあったにもかかわらず、そのミニカーのようなフォルムが気に入って
つい買ってしまった。
「今度乗せてやるよ。」
「え?いいの!やったあ。」
狭い車内の中でヒカルが飛び上がらんばかりに、バンザイと手を挙げた。
「おい…!危ないだろう。」
「ア、ゴメンなさい…」
ヒカルはシュンと項垂れたが、上目遣いに緒方を見つめると、ペロッと舌を出した。
自分の年齢を考え、子供っぽい衝動買いだったなと多少後悔したが、隣に座るこの少年が
そんなに喜んでくれるのなら、それだけでも買った甲斐があるというものだ。
さほど親しくない自分に対して、ヒカルはまるで疑いを持っていない。その全幅の信頼が
いったいどこから来ているのか緒方にはわからなかった。ただ、その屈託のない瞳を見ていると、
胸の奥に鈍い痛みを感じて、緒方はさり気ない振りで窓の外に視線を逸らした。
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