失着点・境界編 11 - 15
(11)
その先には非常階段に通じるドアしかない。だが、閉ざされた空間では
ない以上、いつ人が来てもおかしくない。
突き当たったそこは全面の窓になっていて、隣接する大きな庭園緑地と高速
道路を挟んでいるとはいえ、同じ高さに窓があるオフィスビルもある。
そしてまだ昼下がりの明るい日ざしの中で、ヒカルはアキラに唇を貪られる。
上質のカーペット張りの廊下では人が来ても足音を聞き取れない。
もし、誰かに見られたら、そんな緊張感がヒカルの感覚を尖らせた。
たった数日間会わなかっただけなのに、キスだけでヒカルの全身の血液が
アキラを欲して瞬時に一ケ所へと流れ込んでいくのがわかった。
それを感じてかアキラはヒカルを壁に押さえ付けるように下腹部を密着させ
さらに深く舌を絡ませて来た。そしてヒカルのネクタイを外しにかかる。
「だ…だめだよ!塔矢…!」
アキラはヒカルの抵抗を無視してシャツの襟を開き、首元に噛み付いてきた。
「…痛うっ…!」
その時ヒカルは理解した。これはアキラの仕返しなのだ。
アキラはヒカルの首の柔らかさを楽しむ吸血鬼ように歯を立て強く吸った。
そしてその部分に歯形とはっきりした痕跡がついたのを確認すると、
満足したようにようやく顔を離した。そして
「今夜…おいでよ。ボクはちょっと遅くなるけど、部屋で待ってて…。」
と耳打ちし、呆然としているヒカルのネクタイとシャツの襟元を整え
痕跡を隠すと、何ごともなかったように廊下を引き返していった。
アキラが去った後、ヒカルは壁にもたれ掛かったままずるずると落ち
ペタンとその場に座り込んだ。
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ヒカルは髪をかき上げるとハーッと深くため息をついた。
アキラに噛まれたところがドクンドクンと脈打っている。
「しばらくは首の開いたやつは着れないな…。」
のそりと立ち上がると、ヒカルも廊下を戻った。
「本当に塔矢って、自分本位なヤツ…!」
そうブツブツ言いながら歩く。すると会場のドアの外に和谷が立っていた。
「…何ニヤついているんだよ、進藤。」
「えっ!?べ、別に…」
ニヤついているはずがない。自分は腹を立てているはずだ。アキラに対して。
「塔矢と何か話していたのか?」
「い、いや、塔矢なんか知らねえよ。」
ついそう口にして、つかなくていい嘘をついたと思った。和谷はしばらく
じっとヒカルを睨んでいた。
「…?」
何だか見透かされているような気がしてヒカルは襟元をぎゅっと手で握った。
「ふうん…、まあ、別にいいけど。パーティーはお開きだって。帰ろう。
今からオレンとこで打つか?」
そう和谷に誘われてヒカルは少し考えた。夜まではまだ時間がある。
「うん、打とう打とう。久しぶりだなー、和谷とは。」
「何か嬉しそうだな、進藤。ついさっきまでは妙に機嫌悪かったのに。」
「そんな事ないよ」
そういってふとホテルの玄関先のタクシー乗り場の方を見ると、
アキラがいるのが見えた。アキラの隣には、あの酒のグラスの男がいた。
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思わずヒカルの足が止まった。アキラと、その男と続いて同じタクシーに
乗るとヒカルの視界から消えていった。和谷も立ち止まり、
走り去るタクシーとそれを見つめるヒカルをジッと見ていた。
和谷のアパートに着く迄も、着いてからもヒカルは無言だった。
和谷もあえてそんなヒカルに何か話し掛けようとはしなかった。
「ニギるぜ。」
二人の間の碁盤の上で和谷が碁石の音を響かせた時、ようやくヒカルは
我に返った。
「あ、ああ。」
呼吸を整え、ヒカルは気を取り直して和谷との対局に専念しようと思った。
アキラにとって大事な仕事の事かもしれない。自分が嫌だと思った相手と
アキラが行動を共にしたからと言って、いちいちショックを受けていたら、
それこそアキラにバカにされる。
ただ、何かあのツーショットには何故か胸の奥がひどくざわついた。
「あいつ、男と寝てるらしいぜ。」
最初、ヒカルは和谷が何の話をしているのか分からなかった。序盤を
どういくか考えている頭の端がようやく和谷の言葉の意味をとらえ、
ヒカルは石を持つ手を止めた。
「…何言ってんの?和谷…。」
「そういう噂があるって聞いたんだよ。塔矢アキラは囲碁界やその他の
業界のお偉いサン方のお気に入りで、何人かは特に本気で入れ込んでいて、
塔矢はそのへんの扱いも心得ているって…。棋士の中にも奴と関係したのが
いるってさ。」
「…あいつはそんなヤツじゃないよ。」
ヒカルの石を持つ指先が色を失い、カタカタと震えた。
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強すぎる戦績と孤高を保つ態度がくだらない噂を呼ぶ事もあるのだろう。
笑って受け流せば済む話だ。だが、『棋士の中にも奴と関係したのがいる』
というところにヒカルはひどく動揺した。
アキラと初めて関係を持ってから、それまでもそうであったが、彼のアパート
や囲碁を打つ時以外却って逆に特にアキラと接点を持たなくなった。
今日のように彼の部屋以外の場所でああいう事をしたのも初めてだった。
初めて碁会所で唇を重ねた事の他には。
自分達のことは誰にも知られていないはずだ。
だが冷静に和谷に詳しく噂の中身を確かめる事は出来そうになかった。
「…和谷らしくないよ。そんな話持ち出すなんて…。見損なったよ。」
青白い顔でヒカルはそう言うと立ち上がり、部屋を出ようとした。
「だったらオレを殴ればいい。まったく根もハも無い噂だと言うならな。悪い
事は言わない。あいつに関わるのはよせ。あいつはオレ達とは違うんだ。」
和谷も立ち上がり、真剣な目でそう言って来る。ヒカルは一瞬言葉に詰まる。
「…はは、どうしたんだよ、和谷。お前何かゴカイして…」
突然和谷は強引にヒカルの背中を押し出すようにして洗面台の方に連れて
行くと襟元をはだけさせた。
「な、なにするんだよ!」
「じゃあ、これは何なんだよ!」
和谷に羽交い締めにされるようにして、顎を上向きに持ち上げられる。
洗面台の鏡の中のヒカルの首元にアキラの刻印が映し出された。
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「離せよ…!」
ヒカルは必死になって和谷の手を振りほどいた。すると今度は和谷はヒカルを
こちらに向かせて壁に押し付けた。
「お前が会場を出た後すぐに塔矢がお前を追って出ていったんだ。
見てたんだよ、オレ。」
ヒカルは体から力が抜けそうになった。和谷がどこまで知っているのかは
分からなかったが、誤魔化しきれない、そう思った。
俯きかけたヒカルの顔を和谷は両手で挟み上げて、自分と目を合わさせる。
「自分達が何をしているのか分かってんのか…?いずれお前の事も噂に
加えられて面白おかしく言われるぞ。」
ヒカルはハッとなって怯えた目で和谷を見つめた。
「オレはみんなに言ったりしないよ。だけど、あんな事してたらいつか
ばれる。それ、塔矢に無理矢理されたんだろ。…あいつ、頭おかしいよ。」
違う。おかしいのは塔矢だけじゃない。だがその言葉が口から出てこない。
和谷はヒカルの両肩を持って強く揺すった。
「しっかりしろよ。…変なところまで行っちゃう前に、あいつに近付くのは
もうよせよ。今日の事で良く分かっただろう。あいつは、塔矢アキラは
オレ達とは違うんだよ。」
同じ会場にいても華やかなステージの上のアキラ。本年度の本因坊戦挑戦者の
可能性として筆頭に上がっているアキラ。自分の首に噛み付き、部屋に
誘うアキラ。それらがヒカルの頭の中を駆け巡った。
「ああ、…そうか…。」
ヒカルは自分とアキラを隔てているものの正体にようやく気が付いた。
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