朧月夜 11 - 15
(11)
宮中で何度か彼の姿を見かけた。
辛い事は無いかと、聞いてやりたかったが、何も言わなかった。
無い筈が無い。
表立った理由もなく職を離れた彼が、また前のように戻ってきたとしても同じように迎える者は少な
かろう。むしろ大きな咎めもなく帰ってきた事を不審に思う者のほうが多かろう。かつて囁かれた噂
を元に彼を中傷し、また、厭う者もいるだろう。かつて君に暖かかったその場所も、今では針の筵に
近かろう。
けれどそれはもはや自分が関与すべき事ではない。
そして、それに負けるような彼ではないと、信じていた。
信じていたからこそ、彼をまた、元いた場所へと送り出した。
損なってしまった信頼は自分で取り戻していくしかないのだ。彼にはそれができる力があると、信じ
ている。だから、後姿を見送るだけで声はかけなかった。
桜の木に縋って泣いている君を見た時、僕は君に、君は彼を思い出して泣いているのかと、問いた
かった。けれど、そうだ、という応えが返ってくるのが怖くて、口に出せなかった。
手を伸ばせば届く筈の、こんな近くにいる君が、とてつもなく遠く思えて何も言う事ができなかった。
一月前に見たこの樹の、咲き誇る花々のように、華やかで艶やかだった、逝ってしまったあの人を
思い出す。
美しい人だった。優しい人だった。けれどただ一点、たった一つの事に関してだけ、とても厳しい人
だった。きっとその為ならば鬼にもなれる人だったのだろうと思う。だからそのたった一つの情熱を
汚されて、奪われて、彼はこの現し世に自ら背を向けた。
きっと、人が知るよりも遥かに、厳しく、激しく、怖ろしい人だったのかもしれない。
そうして、桜の精のように美しかったあの人が、やはり桜の花のように儚く潔く散ってしまった事を
思い、僕はその符号に一筋の戦慄を感じた。
(12)
どうかこんなふうに僕を試さないでくれ。
布越しに肩から伝わる君に、僕の肩を熱く濡らす君の涙に、喜びか悲しみかもわからない情動に
震える僕を気付かれたくない。
思いのままに君を抱きしめ、あの時のように君を貪りつくしてしまいたい衝動に負けそうになる僕を、
宥めるように彼の枝がそっと僕の頬を撫で、胸がつぶれそうな想いで、僕はその樹を見上げた。
萌黄色の若葉をつけた枝は、春の風に優しくそよいでいた。
「佐為、」と、彼の名を呼ぶのが君の声に、僕の心は引き裂けそうに悲鳴を上げる。泣き出しそうに
なるのをこらえながら、君の背をそっと撫でた。壊れるほどに強く強く君を抱きしめたい気持ちを
必死で堪えて、今だけは優しかったあの人の代わりに君を慰めてやれるように。
こんなふうにいつも、いつも僕は思い知らされる。君の心を永遠に捕らえて放さないあの人の存在
を、その大きさを、その不在を、いつもいつも、思い知らされる。
例え君がここにいても、僕の腕の中にいたとしても、君の心はここから遠く離れて中空を彷徨い、
優しく美しかったあの人のみを求め続ける。
いっそあの人を憎めたらよかったのに。
君を置いて、一人で行ってしまった勝手な奴などさっさと忘れてしまえと、今ここにいる僕を見ろと、
どうして僕は言う事ができないのだろう。
今ここにいるのは僕だ。
今君を抱いているのは僕だ。彼じゃない。
彼はもういない。もうどこにもいない。
だから今ここにいる僕を見てくれと、彼の代わりでもいいから、それでも構わないから、せめて僕
を見て僕の名を呼んでくれと、どうして僕は言う事ができない?
そんな目で僕を見るな。
僕に縋って彼の名を呼び、彼を想って泣く君に、僕が一体なにをできる?
(13)
縋るように見上げる瞳に、惑うように揺れる瞳に、心がざわめく。
袖を掴んでいた腕が、背を撫でていた手が、小さく震えているような気がする。
発しきれない言葉に、唇が微かに震える。
動く事もできない。息をする事さえ、できない。
いっそ、いっそのこと。
この身体にしがみついてしまえば。
この身体を引き寄せて抱きしめてしまえば。
不意に強い風が枝を揺らし、立ち竦む彼らをばらばらと打った。
咄嗟に枝から庇うように、縋りつくヒカルの身体をアキラは抱き寄せた。
腕の中でヒカルが小さく身じろぎするのを、アキラは感じた。
肩に寄せるような彼の頭を片腕で支え、もう片方の手で背を抱いた。
「ヒカル、」
思わず、彼の名前が口をついて出てしまう。
「……ヒカル、」
そしてもう一度、ほとんど口元に近い位置の彼の耳にだけ届くように、そうっと、できる限りの優しさ
を込めて、囁くように彼の名を呼ぶ。
また穏やかさを取り戻した春風が、さわさわとしなやかな枝を揺らす。
風に乗って届く藤の香りが誘うように甘く鼻腔をくすぐる。
「ヒカル、」
呼びかけるたびに、彼の身体からふうっと力が抜けていくのがわかった。
同時に自分の心も、柔らかく安らいでくるのを感じた。
(14)
何を、僕は。
一体何を、僕は望んでいたのだろう。
あの夜、僕の腕の中で君の命が消えそうになった夜、消えかけた細い灯火が奇跡のようにまた
揺らめき光を放ったあの時、誓ったはずではなかったか。
君がこの世に生きていてくれればそれでいい。
それだけでもういい。それ以上は望まない。
僕のためには何も要らない。
それなのに、何をまた、僕は望もうとしていたのだろう。
例えこの腕が彼の代わりに過ぎないのだとしても、君がそれを望むのだと言うならば、何を
惜しむ事があるだろう。
君がどんなに苦しんでいたか、僕は知っていたはずだったのに。
君がどれ程辛い状況に置かれるか、僕はわかっていたはずだったのに。
わかっていてそれでも尚、君を一人、送り出したはずだったのに。
せめて君が心細さを感じる時、涙を流したい時に、支えにもなれなくてどうする。
一時でも縋るものが必要なのだと君が言うのなら、僕の腕でよければいくらでも貸そう。
他所では泣けないというのなら、此処で存分に泣くがいい。
(15)
そんな思いを込めて、片腕で抱いた彼の頭を優しく叩き、そして気付かれぬようにそっと、彼の
髪にくちづけを落とした。
「アキラ…」
小さな涙交じりの声で、ヒカルがアキラの名を呼ぶ。
「アキラ、ごめん。」
応えるように小さく、彼の身体を抱く腕に力をこめる。
「ごめん、でも、今だけは、」
「…いいんだよ。」
いいんだよ。君が気にする事は何もない。
今僕は君のために此処に在るのだから。僕の全ては君のものだから。
だから、今はもう。
今は、もう、いい。
何も言う事はない。
沈黙が安らかに彼らを包んでいた。
再会した時には東の空にぼんやりと大きく見えた月は、今は天頂から西に傾きながら朧な光を
放っていた。薄い雲はところどころ途切れ、その隙間からは星がきらめいていた。
春の夜の柔らかく朧な月明かりの下、互いの温もりに包まれながら、二人とも、それぞれが
それぞれの安らぎを感じていた。
<了>
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