パッチワーク 11 - 15


(11)

水曜日

対局の当日、専門チャンネルで生中継を見ていると終局後、ヒカルが倒れるところが一瞬映った。
すぐ画面が検討室に変わってしまった。
目の前でヒカルが倒れるところを見たアキラのことも心配だった。
アキラから電話が入り塔矢先生のところへゆくと聞いて安心した。こちらに戻ってきても私もヒカ
ルのところへ行ってしまうので一人になってしまう。区役所に勤めている金子さんがやはり育休中
で今は家にいるので事情を話して三谷君が道玄坂のお店に行ったあとうちへ来て子どもの面倒を見
てくれることになっている。どちらの家も父親は碁を打つのに一番上の子は二人とも加賀さんが教
えた将棋の方が性にあっていると奨励会に入ってしまった。今日は定例の研究会だから帰りは遅い
だろう。金子さんが来てくれた。双子の娘のうち暁子が少し体調を崩しているので家で休んで、ス
イミングは彩子だけゆくよう二人に伝えるように頼む。棋院からも連絡が入った。金子さんに雪彦
を預け車で箱根の病院に向かった。


(12)

土曜日
ヒカルが入院してから毎日病院の帰りにケアマンションに寄りアキラに報告していたがどうも悪い
方へ悪い方へ頭が行ってしまうらしく憔悴してゆくばかりだった。しかも表面上つきあいのないア
キラは棋院の誰かに見られてはとヒカルへの見舞いを躊躇していたが、見ていられなくて昨日は病
院へ行く前にケアマンションに寄り連れていった。もし、見られたら敵情偵察だとでも言えばいい
でしょ。と言ったが幸い誰にも会わなかった。

今日は子供たちも学校が休みなので病院へ連れてきた。でも、子供たちのお目当ては入院している
父親の見舞いより子どもに大甘な箱根のおじいちゃん・おばあちゃんかもしれない。暁子のことが
わかって以来どちらの親とも疎遠になってしまい、塔矢先生夫妻とのおつきあいが始まった。お二
人が私や暁子のことをどう思っているかはわからない。アキラに言わせると自分が子どもの時と比
べると子どもたちへの態度はお二人とも大甘5乗らしい。

言葉では入院したと聞いてもイメージが沸かなくて、しかもアキラも不在で不安を感じていた子供
たちも4日ぶりにヒカルを実際に見て少し安心したらしい。他の子と離れてベッドの反対側に回っ
た暁子のおかっぱ頭をヒカルが掌でくしゃくしゃにする。ヒカルが家に帰ってきたときのいつもの
習慣だ。暁子は緊張が取れて涙腺がゆるんだらしく泣き笑いの顔になっている。ヒカルが他の子の
話を聞きながら指で暁子の涙を拭ってやると暁子は両手でヒカルの手を包み離さない。そのまま
じっとヒカルを見ている。まるで昨日のアキラのようだ。


(13)

そうこうしているうちにヒカルの同期という方がお見舞いに来た。暁子に興味を持たれてはやっ
かいなので子どもたちを早々に連れ出した。塔矢夫妻が今日・明日と子どもを預かってくださるの
でホテルに荷物を預けた後、マンションに向かう。

マンションでアキラの顔を見たとたん彩子はこの四日間の報告をアキラにしている。アキラが帰宅
したときのようだ。アキラも実際にヒカルにあったせいか昨日までのピリピリしか感じが無くなっ
ている。

このまま穏やかに日々が過ぎていって欲しい。だが子どもたちがもう少し大きくなれば私たちの関
係を疑問に思うであろう。自分たちの欲望のまま走った結果が子どもたちだ。子どもたち、特に暁
子にはリスクを背負わせ過ぎている。どう答えるべきか私たちはもう考えはじめなくてはならなく
なっているのかもしれない。

パッチワーク 2026.05 あかり 了


(14)
2013年 アキラ(25)

 軽い鬱状態から拒食症になってしまい栄養失調で入院して一ヶ月後やっと退院できた。入院している間に
国会では国際人権条約との関係で同性同士の法律上の婚姻を認める法律が成立したが、社会通念上はまだまだ
壁がある。両親には風邪をこじらせたため大事をとって入院したと言ってある。カウンセリングに週に一度
通院するのが退院の条件だった。医者の診断は「遅れてきた反抗期に父親と言い争い。直後に父親が心臓の
発作を起こしたことに罪悪感を感じ、成長を拒否しようとした。」ということらしい。僕としては
納得しがたいが退院をしたくて同意した。手合いにも先週復帰した。入院して以降会っていないヒカルの
ことが気になったがヒカルは手合いがなく来ていなかった。自分のマンションに戻るつもりだったが母に
反対され両親がいる箱根のケアマンションから東京に通うことにした。母が安心すればすぐに東京に
もどるつもりだ。父が僕とヒカルのことをどう考えているかわからないが表面上は穏やかな状態だ。

 東京の僕の育った家はいま人に住んでもらっている。父の海外での対局に母が同行することが多くなり僕は
家に残っていたが家の世話が仕切れなくなったのだ。古い日本家屋は毎日手を掛けてやらなくてはならない。
手を掛けられなければ加速度的に痛んでしまう。母が家にいるときには母の毎日の手入れ以外に週に3日
業者に来てもらっていたけれど家の者が誰もいないときに他人に家に入られるのを僕が嫌がったのだ。父も
母も子どもの時から家や家族の世話をしてくれる人が家族以外にいるという生活になれていたので
そういったことに抵抗がないらしい。両親は留守がちになること、医師が常駐していることを考慮して
母方の祖母が晩年を過ごしたこの箱根のケアマンションを日本での住まいにした。僕は母が都内に持っている
賃貸マンションのうち新宿御苑脇のマンションの一室を選んだ。母は結婚するまで台所を使ったことが
無くてあのタイル張りの流しがある旧式の台所があたりまえだとおもっていた。僕もそうだ。母は箱根に、
僕も新宿御苑のマンションに住んでみて文明の利器に感動した。


(15)
昨晩も両親は遅くまで話し合っていたようだった。
いや、正確に言うと母が父へ一方的に言い募っていた。
このマンションは世帯毎の防音はきちんとしているがそれぞれの部屋は具合が悪くなったとき家族が
すぐ気づくようにとパーティーションは天井までの高さがないので音は素通りだ。

朝食の時母が父に
「今日、森下先生がいらっしゃいますから」というと
父が驚いたように母の方を見る。
「私が来ていただくようお願いしました。」
「何故」
「私が何を言っても聞いていただけませんでしょう。ですからあなたがお話を聞いて下さる方に
お願いしました。」

森下先生はヒカルの師匠で、いや研究会に行くようになったのは院生になった後だから弟子とは
少し違うのかもしれない。研究会があるのは手合いと同じ木曜だから二人で検討したくてもできなくて
いつも夜ヒカルが僕の部屋に来た後になってしまう。そして父の同期でもある。この狭い世界で父のことを
呼び捨てにしているのは森下先生だけだ。弟子たちにも「打倒!塔矢門下」といつも気合いの入れるそうだ。
前に棋院で身分証明書の写真を撮ってもらったとき順番待ちで僕の前が既に引退されていらしたがやはり父の
同期の方だった。手合いのと同じ日だったので結構混んでいて順番を待つ間に父の若い頃のことを
いろいろ教えて下さった。親鳥の後ろについて行く雛鳥のように父がいつも森下先生の後ろについて
行っていたこと、森下先生も父のことをよく面倒を見ていたこと。「森下君が結婚したあたり
くらいからかな、塔矢君が一人でいるようになったのは」そこで順番が回ってきてしまって後の
お話は伺えなかった。

父は朝食の後、自室に籠もってしまった。



TOPページ先頭 表示数を保持: ■

PC用眼鏡【管理人も使ってますがマジで疲れません】 解約手数料0円【あしたでんき】 Yahoo 楽天 NTT-X Store

無料ホームページ 無料のクレジットカード 海外格安航空券 ふるさと納税 海外旅行保険が無料! 海外ホテル