失着点・龍界編 11 - 15
(11)
殆ど聞き取れないくらいの小さな声で三谷が謝罪する。だが気持ちの半分には
「よけいな事をしようとするから」という非難が込められていた。
「…警察に行こう…、三谷…。」
そのヒカルの言葉に三谷が驚いたように目を向けて来た。
「…オレ達は…暴行されたんだ…警察に行こう…」
三谷はヒカルから離れた。だがすぐバランスを失って背後の閉じたシャッター
にふらふらともたれかかった。軋んだ軽い鉄の音が小さく夜の街に響く。
ヒカルが手を出そうとするが三谷はそれを払い除ける。
「…行くんならおまえ一人で行けよ。オレはご免だね。」
そして三谷は、ヒカルを嘲るように笑みを浮かべた。
「お前、棋士仲間と逃げ出したんだってな。急にプロの仕事が嫌になって」
ヒカルはハッとなった。
「ホント、結構いい加減な奴だよな、お前って。」
「…三谷…」
何も言い返す事は出来ない。そう受け取られても仕方ないのだ。
三谷は自分の体を必死に支えるようにして、そんなヒカルの前から無理にも
早足で足を引きずりながら立ち去ろうとした。
ヒカルは少し迷い、やはり決意してそんな三谷を追った。
「その体じゃ、無理だよ、三谷…」
信号機のない道路を足早に横切った三谷に続いて渡ろうとした。
次の瞬間、直進して来た車のヘッドライトがヒカルの体を包んだ。
(12)
ピシリ、と碁盤の上に迷いのない清々した石の音が響く。
背筋をピンと伸ばし、首元まで伸びた黒髪が静かにそよぐ。
緊張した空気が漂う大手合いの空間の中でも塔矢アキラの周囲だけは、
また違った神々しさが漂っていた。数ヶ月間に及ぶ空白の後戻って来た彼の
碁は、ますます輝きと鋭さを増して周囲の人々を驚かせた。
ふと、盤上に落とされていた視線が辺りを漂い空いている席に移される。
「…進藤…」
相手に聞こえぬよう、その席の主の名を呟く。
同じようにその席に気持ちが移りがちな者達が居た。伊角と和谷だった。
それぞれがヒカルがこの場に来ていない事に動揺し心配していた。
早々と対局を終えたアキラが会場の外へ出て携帯電話を取り出す。
ヒカルに連絡を取ろうとしたのだ。そのアキラの視界に自動ドアが開くのも
もどかし気に早足で入ってくる緒方の姿が入った。緒方もアキラに気がつくと
真直ぐ足を進めて来る。
「アキラ君、ちょっと、」
直感的に悪い予感を嗅ぎ取って、アキラは携帯を閉じた。
アキラの肩に手を置いて一緒に来るよう促し、緒方は今来た道を戻る。
建物を出て、アキラを車の助手席に乗せて発進させ、ようやくアキラも緒方に
問える状態になったと理解して口を開いた。
「進藤に、何かあったんですか?」
「ゆうべ、車にはねられたらしい。」
(13)
「えっ!?それで…!?」
「オレにも詳しい事はわからん。とにかくそう連絡があったらしくて、
さっき、棋院会館の職員から病院の場所だけ教えてもらった。」
「…進藤が…」
スーツのズボンの膝を両手で握りしめ、アキラの体が小刻みに震え出す。
「…しっかりしろ、アキラ君。」
緒方の言葉は、聞こえていなかった。
病院に着くなり急いで受付に向かい看護婦に部屋を教えてもらう。
面会謝絶という訳ではなかったのがせめてもの救いだった。
「…進藤!!」
「だからあ、守るだけじゃダメなんだってば。常に攻めるのと一緒に考えて
石を置く場所を決めないと…」
病室のドアを勢いよく開けたアキラが見たものは、ベッドの上にあぐらを
かいてマグネットタイプの囲碁板を使って入院患者相手に碁を教えている
進藤の姿だった。
「…塔矢…、」
呆然と立ち尽くしているアキラの背後で緒方も「やれやれ」といった感じに
息をつく。進藤の方が二人の切羽詰まった形相にビビりながら右手を上げた。
「…よ、よお。」
ヒカルに教えてもらっていた老人や中年の男性達が色めき立つ。
「お、お、緒方十段だ!さ、サインサイン!!」
(14)
ヒカルはあちこちにかすり傷を負っていたものの、背中の打撲位で入院も3日
程度だという。病院の中庭でベンチに3人で腰掛ける。
「びっくりしたよ、塔矢,すげえ恐い顔して立ってンだもん。誰か死んだの
かと思った。」
「…驚いたのはこっちだよ…。あの緒方さんがあんなふうだったから…」
ヒカルはちらりと緒方を見る。緒方は視線を逸らしてタバコを吹かしている。
ヒカルが一度だけ緒方と関係を持った事をアキラは知らない。
そのことは緒方と二人だけの一生の秘密だ。それは暗黙の了解となっている。
特に、アキラには。
それでも、緒方が自分の事を心配してくれた事がヒカルは嬉しかった。
突然行方をくらまして棋院の人たちに多大な迷惑と心配をかけた二人の処分を
決める場で、桑原と共に緒方が終始庇ってくれたと言う話を聞いている。
緒方にはいろんな意味で感謝している。
そして、こうして話を聞いて駆け付けてくれたアキラにも。
だからこそ、ゆうべの出来事が重くヒカルの胸を締め付ける。
アキラにはこれ以上心配をかけたくない。自分に何かあったら、こうして
アキラは何ごとに引き換えてでも自分との事を優先させてしまうだろう。
今回の件も自分だけの力で解決しなければいけない。
(15)
車はスピードがかなり落ちていたのでヒカルの体をボンネットに跳ね上げ
たものの、意識がはっきりあって、ヒカルは病院に行く事を必死で断った。
それでも運転していた人が良心的でヒカルを自宅まで送り、
連絡先を置いて行った。
話を聞いて心配する両親をなだめて体を洗いうがいをし、右手首に男に掴まれ
た痕が痣となって残っていたのを隠す為にリストバンドをはめた。
皮肉にも事故のおかげで体に所々残った痣をごまかす事が出来たのだ。
あくる日ヒカルは大手合いに行こうとしたが体に力が入らず、結局病院に
出向き検査を受けるため入院することになってしまった。骨には異常がなく、
背中の打ち身と、何か精神的なものが原因だろうと言われた。
三谷は…ヒカルの事故を見て一たん戻ろうとしていたが、運転手が降りて
来たのを見て立ち去ってしまった。
「…本当に…大した事はないんだね…良かった…。」
アキラが心の底から安堵したような目をヒカルに向ける。ここが病院でなく
二人きりだったら間違いなく抱き締め合い、長いキスを交わしていた。
だがヒカルは、真直ぐ向けられて来るアキラの目、誠実な言葉だけが
語られる唇、それから一瞬、自分の目を反らした。
やっぱり綺麗だな、と思う。
アキラのどこまでも澄んだ深い色の瞳と薄く形が良い唇。
いまのアキラに比べて、自分はあまりに汚れている。そう思えてしまうのだ。
そんなヒカルの苦しい胸の内を読み切れずアキラが怪訝そうな顔をした。
「アキラ君、オレはもう行くけど、君はどうする?」
黙ってそんな二人の様子を見ていた緒方が声をかける。
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