天涯硝子 11 - 15


(11)
翌日の大手合いでヒカルは負けてしまった。
碁盤の前でじっと座っていると、身体の冷たさが痺れるようで、落ち着かなかったからだ。
盤上に集中しようとしても、冴木の顔が浮かんできてしまい、振り払えなかった。
ヒカルは何度も溜め息をつき、ついには諦めて投了した。
対局者もヒカルの様子に気づいていたらしく、投了後、具合が悪いのかと尋ねてきた。
ヒカルは何も答えられずに、黙って頭を下げた。
冴木とのことを後悔している訳ではないが、対局に集中できなかった自分が憎らしかった。

(…進藤、負けたのか。俺が)
「冴木さんのせいじゃないよ!」
謝ろうとする冴木の言葉を遮り、ヒカルは叫んだ。
その日の棋院からの帰り、駅に向かう人の流れに背を向け、ヒカルは携帯電話を握りしめた。
ヒカルの声に行き交う人が振り返る。ヒカルは慌てて道の脇により、ビルの壁に顔を向けた。

「今日はちょっと調子が出なかっただけ。次は負けないよ」
ヒカルは足を広げ、仁王立ちになった。
喉をそらして空を見上げ、体を揺らしながら反対側に向き直った。
「――だからさぁ…、冴木さんとこ、また行ってもいい?」
冴木の部屋に行ってもいいかなどと、改めて尋ねなければならない間柄では、もちろんない。
だが今回は別のことを言っているのだと、冴木もヒカルもわかっていた。
棋院の玄関まで、冴木はヒカルを送ってきたが、朝、ヒカルを起こしてから別れるまで、一度も
ヒカルに触れようとしなかった。
ヒカルは対局に負けた自分を責めながら、気持ちの反対側でそのことが不安で仕方がなかった。
(ああ、またおいで)
「…うん」
やさしい明るい声でそう言われ、ヒカルはホッとした。そして、体がすっと軽くなったのを感じた。
いつの間にか体も心も緊張して、こわばってしまっていたのだ。
(俺はちょっと仕事があるんだ。こっちから連絡するから、待ってて)
「うん。冴木さん、仕事がんばって」
そこで電話を切った。

それから三日。
土曜日の朝、夜更かしをした分けでもないのにヒカルは寝過ごした。
土曜は和谷の部屋で研究会がある。金曜の夜まで冴木から連絡はなかったが、今日は和谷の部屋で
会えるかもしれない。
ヒカルは慌てて服を着替え、家を飛び出した。
気持ちが逸り、駅に走りながら和谷の部屋に電話を入れると、冴木は来ていないと和谷は答えた。
ヒカルは足を止めた。
「え?」
(来てねぇよ。進藤はこれから来るんだな?)
日本の夏特有の湿った暑い空気が肌にまとわりつく。急に汗が噴き出して来た。
「…オレ、わかんないや」
(…は?)
「…また、電話する…」
ヒカルは肩を落とし、直射日光を避けて建物の影に入った。

冴木は携帯電話を持っていない。ヒカルや和谷が携帯を使うのを見ていて、どうしても持たなくては
ならないものではないと、持とうとしないのだ。
冴木の部屋に電話を入れてみる。
耳に遠く、コール音はするのに、誰も応える気配はなかった。
「…留守電になってない…」
ヒカルはひとりごち、もと来た道を引き返しながら、何度か冴木の部屋に電話を入れたが、
やはり同じだった。
沈んだ様子で家に戻ってきたヒカルを、母親は心配して、熱でもあるのではと
額に手を当てたりしたが、何でもないと答えるヒカルにそれ以上はつきまとわなかった。
ヒカルは自分の部屋に戻ると、大きな溜め息をつき、ベッドの脇に座り込んだ。
何より碁のことが大切だと思うのに、こんなことで気持ちがかき乱される自分を情けなく思った。


(12)
冴木から電話があったのは、その日の午後だった。
ヒカルが気を取り直し、部屋で棋譜を並べていると、階下で電話のベルが鳴った。
時計を見ると、三時を少しすぎていた。
この時間の電話なんてわけのわからないアンケートか、何かの勧誘だろう。
そう思いながらも母親が電話に出て対応するのを、耳を澄ませて聞いてしまう。
ヒカルはため息をついて首を横に振り、改めて碁石を持った。
夜になったら、また、冴木のところに電話してみよう。そう思っていると母親に呼ばれた。
「ヒカルーっ、冴木さんからよ」
冴木からだと言われたことが、何か不思議なことのようにヒカルは首をかしげたが、
次の瞬間には部屋を飛び出し、階段を駆け下りていた。

下りてきたヒカルの顔を見て、母親は何か言いたそうにしていたが、黙って受話器をヒカルに渡した。
「…冴木さん? オレ」
冴木の、相手を確かめるような一瞬の間が怖い。
『進藤か?何だおまえ、和谷んとこ来てないからあせったぞ』
「え? 冴木さん行ったんだ。和谷が冴木さん来てないって言うから、オレ、行く気なくしちゃってさぁ」
『まあ、俺も行ったの遅かったしな。ごめんな、連絡しなくて』
「ううん…。…冴木さん、今どこにいるの?」
『和谷んとこから帰って来た。部屋にいるよ。……進藤、今から俺のとこに来いよ』
嫌だったからではなくて、嬉しかったからなのだけれど、ヒカルは少し間をおいた。
「…うん。行く」
冴木の住む街の、駅で待ち合わせの約束をして、電話を切った。

受話器を置いて振り向くと、母親が心配そうな顔をして立っていた。
「ヒカル、あんたやっぱり具合が悪いんじゃないの? 顔が真っ赤よ?」
ヒカルはギョッとして後じさり、あわてて言った。
「何でもないよ!。平気。…オレ、冴木さんとこ行くからっ!」
まだ、何か言いたそうにしている母親を置いて、ヒカルは二階の部屋に駆け上った。
「いっぱい待った?」
電車の乗り継ぎのタイミングが合わず、ヒカルが待ち合わせの駅に着くまでに、ずいぶんと時間がかかってしまった。
「いいや、そうでもないよ。店に寄ったりしてたし」
時刻は五時をずいぶん過ぎている。
二階の部屋に戻って、着替えの服をバックにつめ込んだり、持って行っても使わないだろうという物を手にして、考え迷ったりしていたために、家を出るまでにも時間がかかった。
「どこかでメシ食って行くか。何がいい?」
冴木の部屋に行く時には、いつもコンビニによって何かを買って行く。
この街で、何かを食べて行こうと言われても、和谷とふたりで冴木のところからの帰りに、ラーメン屋に入ったことがあるだけだ。
「ラーメンがいいなぁ。あの商店街を抜けたとこの、雑居ビルの二階の」
「ああ、白龍だな? …あそこまで行ったのか。駅と逆だな」
「うん? そんな名前だっけ?」
「他は? 何かない?」
「いい! いいよ。ラーメンがいい!」
ヒカルはあわてた。
小学生の時、両親がふたりだけで食事に出掛けると言うので、祖父の家に預けられる時に、
だだをこねて無理に着いて行ったことがある。
行った先の店はテーブルにキャンドルが灯り、大人ばかりが静かに過ごすような落ち着いた雰囲気の店で、ヒカルは急に恥ずかしくなり、もじもじと大人しくしていると、母親がヒカルの体調が悪いのではと、家に帰ろうと言い出したのだ。
「結婚記念日だったんだよ…。お母さん、本気で心配してさぁ。悪いことしちゃった」
「それは失敗したな」
「それでさぁ、大人の人が行くような店って、苦手だから」
「ははは。大丈夫だよ、俺だって苦手だ。そういうとこはプロになったお祝いに、白川さん達に連れて行ってもらったくらいだ」
「そう? 冴木さんも? オレ達って碁会所がどこにあるかとか位しか、知らないよねぇ」
ヒカルがそう言うのに、冴木は声を出して笑った。


(13)
夏の陽はこの時間でもまだ残っていて、風は暑いままだ。
ふたりは並んで歩き、たわいない会話をしながら商店街を抜けて、白龍のあるビルに入った。
一階の階段の脇にあるエレベーターの前に立ったヒカルの腕を、冴木は乱暴に掴んだ。
「二階じゃないか。こっち来いよ」
ヒカルは引っ張られるようにして階段を登り、踊り場でくるりと振り向いた冴木に力強く引き寄せられた。
「あっ…」
冴木の胸にぶつかったかと思うと、そのままきつく抱きしめられる。
その瞬間、冴木がここで何をしようとしているかわかった。そして、同時にこんなところで?と考え、
ヒカルは少し戸惑った。
冴木が一階から見えない場所の壁に寄りかかり、ヒカルの顎をとらえて上向かせる。
ヒカルは爪先立ちになり、胸を反らせ両腕を、少しかがみ込んだ冴木の首にからませて、目を閉じた。
冴木がヒカルの小さな口に、噛みつくように口付ける。
薄く開けた唇の隙間から、冴木の舌が暴れ込んで来る。その舌に自分の舌を絡めとられ、ヒカルは息を詰めた。
冴木がヒカルの背中にまわした腕に力を込め、すくい上げるようにヒカルを抱きしめる。
ヒカルの爪先が浮いた。

身体はしっかりと抱きこまれていたものの、浮いた両足は不安定に揺れていた。
その足の間に冴木が膝を割り入れて来る。
「…んっ、冴木さん…誰か来たら…」
やつと唇が離れたすきに、ヒカルは喘ぎながら言った。
冴木はストンとヒカルをおろし、床に立たせると少しおかしそうに笑い、ヒカルのこめかみと明るい前髪に軽くキスしながら言った。
「何を、言うのかと思ったら、…会いたかったって言えよ」
ヒカルもつられて笑顔になり、身体を冴木にもたれかけながら応えた。
「…会いたかった。…ずっとだよ」
鼻先をくすぐる冴木のかすかな匂いと、頬寄せた胸から伝わる熱い体温。
ヒカルはふと、佐為にも身体があったら、こんな風に匂いがして、身体の熱を感じる瞬間があったかもしれないと思った。
上の階から人が下りてくる足音がして来た。
一階からも数人の男性の声がし、階段を使いそうな話し声が聞こえる。
時刻はもう六時近い。勤め帰りの人もいれば、土曜の夜を楽しもうと繰り出してきた人たちで、街は賑わい始めている。
この階段の踊り場は、今、そんな人たちで溢れる街の、ほんの僅かの時間生まれた、ふたりだけの
空間なのだ。それも、もう、シャボンのように壊れようとしている。
冴木はもう一度ヒカルを抱きしめ、名残り惜しそうにヒカルを見つめながら腕をほどいた。
ふたりの間に流れ込む空気が冷たい。…こんなことが前にもあった。
「行こう」
冴木はヒカルの手をとって、階段を登った。

冴木の部屋に入り、ヒカルが靴を脱いでいると後ろから冴木に抱きつかれた。
「あっ、冴木さん、靴脱げないよ」
ヒカルは安定感をなくし、フラフラと床に崩れた。ゴトゴトと床に、途中で買って来たペットボトル等が散らばる。
「ああ、ごめん」
腕を引かれ、立ち上がったヒカルは上目使いに冴木を見て尋ねた。
「あのさ、今日泊まってってもいい?」
「…帰すつもりはないけどな」
「……電話した時さ、そのこと聞かなかったなと思って」
明日はふたりとも仕事はないのだと了解して、ほっとする。では、ふたりで過ごす時間はたっぷりあるのだ。焦ることはない。
「じゃあ、一局打とうよ。この前負けてから、誰かと打って勝ちたくてしょうがないんだ」
冴木は散らばったペットボトルを拾い上げ、笑いながら言った。
「何だ? 負けてなんか、やらないぞ」
ヒカルは部屋の隅に寄せてあった碁盤を引き出し、空のマグカップを用意してくる冴木を待った。
そんなヒカルの様子を見ていた冴木が言う。
「やっぱり違うな、碁を打つとなると」
「え?」
「今日、最初に俺に会った時からのおまえの顔は、どことなく緊張してたのに、今はイキイキしてるぞ。楽しそうだ」


(14)
冴木は続けて、
「だからって、俺といると緊張するんだろうか、なんて思わないよ。…実を言うと俺も今日は緊張してたんだ。おまえと一緒さ」
以前、母と出掛けた時に、 おまえはつまらなそうな顔をして張り合いがないと言われたことがある。
一瞬、そんな顔をしていたのかとヒヤリとしたが、冴木も自分と同じような緊張感を持っていたのだと気づいてホッとした。ふたりともこんな風に誰かと会うことに、慣れていないのだ。
「…おまえが黒だな」
碁盤の向こうに座る冴木の声が柔らかい。力の入っていた体がほぐれ、安心感に満たされた。
そしてすぐに盤へと気持ちを向ける。胸の中に冴え冴えとした空気が流れ込む。
碁盤の前では、ふたりともプロの棋士なのだ。

17の四、3の十七、16の十七と始まった碁は、中盤までヒカルの優勢で続いたが、終盤のヨセで勝ちを急いだヒカルの手順の間違いで、最後には逆転されてしまった。
「うわぁぁ。…半目負けかよ…」
ヒカルは後ろへひっくり返って、悔しがった。
「どうしたんだ。おまえらしくないな」
「…負けがこんでんなぁ、オレ。勝てると思ったのに」
「オレも勝った気がしないな、おまえの間違いに気づいたし」
「…ちぇっ。次こそ負けないぞ。絶対勝ってやる…」
手で顔を覆い、そうつぶやくヒカルに冴木の近づく気配がした。
ヒカルがハッとして見上げると、すぐ隣りに冴木が寝そべった。
するりと冴木の身体の下に抱きこまれ、両足を冴木の足に挟まれ体重を掛けられて、ヒカルは身動きが取れなくなった。
「…冴木さん、重いよ」
「んー? 進藤は華奢だなぁ。俺の言うこと聞くか? そしたら放してやる」
「…何?」
「俺にキスしてくれ」
そう言われてヒカルは笑い出した。
「何言ってんの! 人が来るかもしれないとこでオレにキスした人がさぁ!」
「笑ったな? おまえからキスして欲しいんだよ」
ヒカルは緩められた冴木の腕の中から手を伸ばし、冴木の首に絡ませ引き寄せた。
目を閉じるとすぐに冴木の唇が触れた。ヒカルの唇がジンと痺れる。
冴木の舌がヒカルの唇を割り、深く入り込むとヒカルの方から舌を絡ませ、強く吸った。
ヒカルの身体の下に腕を差し入れ、冴木は強く抱きしめる。少し浮いたヒカルの頭がずれ、唇が離れた。冴木はヒカルの唇を追い、ヒカルは冴木の首にしがみついた。
お互いの唇の間に隙間を作るまいとするように、その口付けは長く続いた。

「…オレからキスして貰いたかったんじゃないの?」
ようやく唇が離れ、呼吸を整えながらヒカルは囁いた。
冴木は目を閉じたまま、名残り惜しそうにヒカルの唇を舌先で舐めている。
「ねえってば!」
答えない冴木にヒカルも少し舌先を出し、冴木の舌を舐めた。


(15)
ヒカルはそっと冴木の顔の輪郭をたどり、指先でもその唇に触れた。ついばむような口付けから徐々に深く熱い口付けに変わっても、ヒカルは重なり合った唇を指で触れていた。
ふいに唇が離れ、冴木がヒカルの指を食む。
指先からも痺れるような心地よさが広がる。冴木はゆっくりとヒカルの指を舐めた。
「……」
指先が濡れて行くのを、ヒカルは夢心地に見た。冴木の赤い舌と、濡れて光る指先がなまめかしい。
次第にもっと何か強い刺激が欲しくなって、ヒカルはその手を冴木の唇から離し、冴木の下腹へと持って行った。
「ダメだって…」
冴木は眉根を寄せ、苦しそうに言った。そして「シャワー浴びて来いよ」と言うと、
起き上がり、ヒカルに背を向けて、そのままになっていた碁盤の碁石を片付け始めた。
「…一緒に入る?」
ヒカルは横になったまま尋ねた。
「いや、…」
そっけなく答える冴木に、ヒカルは寂しさを感じながら起き上がり、そっと冴木の隣りに座って寄り添った。上目遣いに表情を見ると、冴木はどことなく怖い顔をしている。
「何で?入ろうよ」
「もうさ、乱暴なことしたくないんだよ。…体格の差も、力の差もあるだろ?俺とおまえは。
俺は力づくでおまえをどうとでも出来るんだ。…この前みたいに一方的なのは、いやだろ?」
あの時は怖かったけれど、それは初めてだったからで、冴木が一方的に自分を抱いたからではないとヒカルは思っていた。しかし、冴木は自分に乱暴に接したと後ろめたさを感じているようだった。
「おまえに優しくしたいんだよ」
そっと体重をヒカルの方に掛け返しながら、冴木は言った。
ヒカルは寄り添った冴木の身体から微かに汗のにおいを感じながら、冴木のやさしさを思い、
冴木の腕に顔を押し付けるようにして、うなづいた。

ヒカルがシャワーを浴びて出てくると、入れ替わりに冴木がバスルームに入った。
部屋は窓が閉められ、エアコンが入っている。この前は窓を開けて寝ていたことを思い出した。
バスタオルでごしごしと髪を拭きながら、ヒカルはベッドに入り込む。バスルームから聞こえてくるシャワーの水音。…これから冴木さんとするんだよな。そう思うと、胸がつまるような感じがした。
自分の心音が耳に響く。少し前に冴木にとキスした時は妙に冷静だったのに、ひとりでここにいると
怖くなり、逃げ出したい気持ちになる。あのまま冴木がヒカルの服を脱がし、乱暴にことを進められていたら泣き出したかもしれない。優しくしたいと掛けてくれた冴木の言葉が、今はありがたかった。
シャワーの音がやみ、冴木が出てきた。ヒカルは背中を向けたまま俯き、近づいてくる冴木の気配を感じていた。ベッドが揺れ、冴木がそっと後ろからヒカルを抱きしめた。その身体はまだ濡れていて、
ひんやりしている。ヒカルは自分の方がよほど熱くなっている気がして恥ずかしくなった。
冴木はさらにヒカルの身体を抱きこみ、口付けしようとヒカルの顔を自分の方に向けさせた。
ヒカルはそうされて身体をねじり、向きを変えてしっかりと自分から冴木に抱きついた。
冴木は足をひろげ、ヒカルの身体を引き寄せ抱き込んだ。
ヒカルの細い身体の内を、呼吸する息が通っていることがよくわかる。
ヒカルのことが堪らなく愛しい。



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