とびら 第一章 11 - 15


(11)
ヒカルは扇子を取り出し、それでポンと手のひらを打った。
そうすると緊張がいい意味でほどけていく。
今日は調子もいい。良い碁が打てそうだ。
昨夜、和谷の家に泊まった。
することは最初の夜と変わらない。だが次第に相手の身体を知りはじめたからか、
得られる快感はものすごいものだった。
人の身体は奥が深い、とヒカルは思った。
扇子を見つめ、佐為、と心の中で呼びかける。
佐為がいたころ、自分はあまりそういうことに興味はなかった。
四六時中、一緒にいたからだというのもあるが、囲碁のことで頭がいっぱいだったのだ。
今もそれは変わらないが、たしかに前に進み始めたことによってゆとりが生まれた。
もちろん佐為がいても、たまに妙な気分になったりしたことはある。
そのときはトイレや風呂場でおざなりに性を放った。それで十分だった。
だから人に触れられる刺激を知ったときは、とても衝撃を受けた。
もっと味わいたいと思った。
その思いはヒカルの口から転がり出た。今思えば恥ずかしいことだとわかる。
だが和谷はうなずいてくれたし、肌を重ねてやっぱり言って良かったと思った。
ヒカルは満足だった。しかし和谷の様子が引っ掛かっていた。
回を追うごとに、何か言いたげな表情が強まっていっているのだ。
もうやめたいと言いたいのだろうか。それにしては和谷はいつも積極的に自分に触れてくる。
「ま、いっか」
深く考えるのはやめた。何かあるなら自分で言ってくるだろう。
「あ?」
立ち止まっていた自分の横を誰かがすりぬけた。一瞬、対局室の空気が揺れた。
塔矢アキラが来たのだ。
いつも周りの空気をアキラは変えてしまう。
礼儀正しいから大人受けがいいかと思いきや、その力のために疎ましく思っている者が
けっこういることをヒカルは知っていた。
同年代にははっきり言って評判が悪い。
ヒカルはそんなに悪いやつじゃないんだけどなあ、と思っているのだが。
アキラと目が合った。声をかけようとしたがすぐに何事もなかったかのようにそらされた。
(やっぱり態度わりぃな、アイツ)
棋院で会うとき、アキラはまるでヒカルのことなど知らないかのようにふるまう。
別に親しく口をききたいわけではないが、普通にあいさつくらしてもいいのではと思う。
「ふん」
鼻を鳴らすと、ヒカルは自分の席へとついた。今日の相手は女流棋士だ。


(12)
「で? この後どう打ったんだ、進藤」
「こう打ってこう」
「ふーん。でもこっちに……」
和谷の部屋で対局の検討をする。ヒカルは制服を着たままだった。
火曜日もしくは水曜日、そして金曜日は和谷の部屋に泊まるのが習慣となっていた。
母親は渋い顔をしたが、学校の出席に影響を与えないようにするからと許可してもらった。
そういうことで週に二度、ヒカルは和谷との戯れに没頭することになっている。
「明日みんなが来るから、その時もう一度しようぜ」
和谷の言葉にヒカルはうなずいた。お互いの目を見る。
「……ジュース、飲むか」
静かな声で和谷が言った。
飲む、と言うと和谷は小さな台所に立った。コップにジュースを注ぐ。
そして脇に置いてあったビンを取り、それを少し垂らしてスプーンで混ぜた。
まるで毒を入れているようだ、とヒカルは思った。
自分を狂わす毒。それは少しずつ身体の中に沈み、溜まっていく……。
こう言うと大げさだ。実際はただの酒なのだから。ヒカルはあまり酒に強くない。
少しの量ですぐに気分が高揚する。多くを飲むと意識を失う。
一度、和谷は多めに酒を入れた。もちろん下心があったのだ。
ヒカルは飲んだ直後は普通だったが、いきなり笑い出すとそのまま倒れて寝てしまった。
何とも奇怪で怖くなったと、後で言われた。
「ほら」
コップを受け取り、少しずつ飲む。酒の匂いはしなかった。
この時間が一番、気まずさのようなものを感じる。それを払うようにぐっと飲み干す。
すぐに身体がぽっぽっと熱くなってきた。
「進藤」
和谷はまずキスをしてくる。それは儀式のように思えた。

数回イッて、ヒカルは深く息を吐いた。
和谷が髪の毛を撫でる。冬だというのに二人の身体には汗が浮いていた。
だが放っておくとすぐに冷えてくるので、ヒカルは和谷の腕の中へとすべり寄った。
和谷の手が背をなぞる。敏感になっている身体はそれだけで反応してしまう。
「はぁっ、ふぅ、ん……」
ヒカルは強くしがみつき、喘いだ。和谷の指はそのまま下りていき、尻へとたどりついた。
軽く揉まれ、ヒカルは身体をふるわせた。指が谷間へと滑り込む。
「わ、や……?」
今までそんなところを触れられたことはなかった。
不思議に思って見上げると、和谷は自分をじっと見つめていた。
「進藤……俺……」
何かを言いよどむように口を閉じる。ヒカルは次の言葉を待った。
「俺……ちょっと家に帰らなくちゃいけなくなったんだ。だからしばらくここで会えない。
 母親がさ、すげーうるさくて……」
そんなことのために、こんなに思いつめた顔をしていたのか。
「しかたねえな。次はいつ?」
「一週間もいれば母親の気も治まると思うから……」
わかった、とヒカルが言うと和谷は少しほっとした顔になった。
しかし相変わらずその瞳は揺れているように思えた。


(13)
まったく和谷の部屋に行かないというわけではなかった。
しかしその時には伊角や院生仲間がいたし、和谷は必ず自宅に帰って行ったので、ヒカルは
何となく物足りなさを感じていた。自分でしても、やはり少しも満足できなかった。
身体の奥がくすぶっているような感覚を抱いたまま、対局日がきた。
今日は本因坊戦の一次予選決勝だ。これに勝てば二次予選にコマを進めることが出来る。
苛々していたので序盤は良くなかったが、何とか逆転できた。
「…………ひっくり返された……一目半……負けかっ」
相手が青ざめて、信じられないと言うようにつぶやいた。
ヒカルは少し頬をゆるめて息を吐いた。
「ありがとうございました」
石を片付け、立ち上がる。対局室を出たとたん、ヒカルは軽く肩を叩かれた。
「よ、進藤」
「和谷! 今日は手合いの日じゃないんじゃないのか」
「でも進藤は今日だろうと思ったから来たんだ。その、今から来れるか?」
ヒカルは嬉しくて抱きついた。和谷も抱きしめようと腕をまわしてきたが、思い直したよう
に引きはがした。ヒカルは首をかしげて和谷を見上げた。
「和谷?」
呼びかけると和谷はヒカルの手首をつかみ、階段の陰へと引っ張っていった。
そしていきなり唇に吸い付いてきた。
「わ、や……おい! んぅ、ふ……」
久しぶりのキスだった。和谷は執拗に唇を求めてきた。舌がその形をなぞる。
指がシャツのぼたんを外し、その中に入ってきた。
乳首をつままれ、ヒカルは声をあげそうになった。身体がむずがゆい。
ここがどこであるのかも忘れて、ヒカルは和谷の愛撫を受けた。
かたん、とかすかな音がした。
音をしたほうを見ると、目を大きく見開いたアキラがいた。
最悪の相手に見られたとヒカルは熱っぽい頭で思った。


(14)
アキラは信じられないものを見た表情をしている。
ヒカルは小さくため息をついて肩をすくめた。さてどうしようか。
他の人相手ならばふざけてたんです、と笑えばすむ。だがアキラでは……。
「な、にをしているんだ……」
「別に。何もしてねえよ」
「キスをしていたじゃないか!」
「わかってるなら聞くなよ。あーあ、和谷がこんなところでいきなりしてくるから、
塔矢に見られちゃったじゃんか」
「俺が悪いのかよ! ……まあ、悪いか……。でもおまえだって嫌がらなかったじゃないか」
「そりゃあイヤじゃなかったからな」
「君たちは何を考えているんだ。こんなところで、こんな淫らなことをして!」
ヒカルはその言葉に苦笑した。
「みだら、って……おまえすごい言葉使うな。言っとくけどオレたち何も悪いことしてないぜ」
アキラの顔がますます険しくなった。
「悪いこと、していないって? ここは碁を打つところだ。服を乱すようなところじゃない!」
確かにそのとおりなのでヒカルは言い返さなかった。
和谷をうかがうと、憮然とした表情をしている。アキラは憤慨して、ますます睨んでくる。
ここは自分が謝ったほうがいいとヒカルは判断した。
「悪かったよ、塔矢。もうしないから」
しかしアキラの怒りはおさまらなかった。
「プロの自覚があるのか! ふしだらなことをして神聖なこの場所を汚して! 不潔だ!」
さすがのヒカルもその一言にはかちんときた。
悪かったのは認める。だが、そこまで言われなければならないとは思わない。
「オレが不潔だって?」
ヒカルはこぶしを握り、アキラに歩み寄るとその胸倉をつかんだ。


(15)
殴られると思ったのだろう、アキラは目をつぶった。
実際なぐってやる、とヒカルは思っていた。しかし振り上げたこぶしは落ちた。
ヒカルはアキラを思い切り引き寄せ、キスしてやった。
驚いてアキラは離れようとする。だがヒカルは頬をつかみ、かじりつくようにキスを続けた。
「ん、んん……」
唾液を吸い上げ、うつし、歯列を割って舌を侵入させた。
逃げる舌を追いかけ、自分の舌を絡ませる。自分の背をつかむアキラの手がゆるんできた。
反対にヒカルは頬をはさむ手に力をこめた。深く唇が合わさる。
「はぁっ、しんど……やめろっ……」
息の合間にアキラは言った。しかしヒカルはわざと濡れた音をたててその唇をふさいだ。
アキラの足がふるえ、折れた。そこでようやくヒカルは手を放してやった。
呆然と座り込むアキラをヒカルは勝ち誇ったように見た。
「へん! ざまあみろ! 不潔菌をうつしてやったぞ!」
「な……進藤!」
「やーい! 不潔菌! 不潔菌が来るぞ!」
和谷が呆れたようにヒカルを見た。そうだろう、これでは小学生の会話だ。
「……進藤、行くぞ」
もう付き合ってられないと言うように和谷は階段を降り始めた。
「あ、待てよ、和谷」
ヒカルも慌ててその後を追った。すでにアキラのことなど忘れていた。
早く和谷の部屋に行きたかった。



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