とびら 第三章 11 - 15
(11)
吐き気がした。地面が揺れている。歩くたびに関節が悲鳴をあげた。
ヒカルは手すりにすがりながら階段をおりた。だが踏み外してしまい下まで落ちた。
頬に生暖かいものが流れ、口の中に入ってきた。血の味がした。
意識を失いそうになるのを必死でこらえた。こんなところにいたら和谷に捕まってしまう。
せっかく眠り込んだのを見計らって逃げ出してきたのに。
くしゃみが一つ出た。ヒカルはワイシャツを着ただけで、ボタンをとめていなかった。
はだけた胸元には無数の傷痕があった。特に腹の青い痣が痛々しかった。
どうしてこんなことになったのか。ヒカルは混乱した頭で考える。
研究会が終わって、和谷が声をかけてきたのだ。今日、家に来ないかと。
だがアキラとの約束があったので断った。
そのときの和谷の瞳を思い出してヒカルは身震いした。
静かだが底知れぬものを感じさせる声がよみがえってきた。
――――何で塔矢なんかに抱かれるんだ。
「何で、ってそれは……」
「俺だけじゃ、満足できないか」
その口調が怖くて、ヒカルはわざと笑った。
「何だよ、ヤキモチか?」
「そうだ」
強く抱きしめられた。ここは棋院の玄関だ。周りの者がどうしたのだろうと見ていく。
「和谷!」
「おまえが好きだよ、進藤。だから塔矢がおまえに触れるのが許せない」
「好き? オレを? 和谷が?」
和谷がアキラと同じように自分を好きだと言うことに、ヒカルは驚いた。
みんなして好きだ、好きだとは、何か魔法にでもかけられているのかと思ってしまう。
ヒカルは和谷の腕の中で硬直した。
(12)
「頼む。もう塔矢とはしないでくれ」
その言葉にヒカルは小さく首を振った。まだ棋譜はようやく半分をいったところなのだ。
「あいつが好きなのか」
また首を振った。するとさらに強く抱きしめられた。
「じゃあ、何でだよっ」
「和谷には言えない」
手を張って和谷から離れた。つとめて明るく言う。
「いきなりどうしたんだよ。好きだなんてさ」
「いきなりじゃない。前から思ってた。塔矢だけじゃない、俺だっておまえが好きなんだ」
「和谷……」
何と答えたらいいのだろう。今までそんな目で和谷を見たことなどないのに。
「進藤、俺んちに来い。塔矢なんかと会うな」
命令されているようで、少なからずヒカルはむっとした。
「塔矢もたしかにオレのことを好きだって言ってたけど、そんなことまで言わなかったぞ」
「おまえが誰に抱かれようが気にしてないからだろ。おまえに執着していない証拠だ」
「ちがうっ!」
思わず大声を出してしまった。だが否定の気持ちでいっぱいのヒカルは気にしなかった。
アキラは自分を誰よりも好きだと思っているのだという確信があった。
「何が違うんだよ。あいつは俺がおまえを抱いているって言っても平気そうに笑ってたぜ」
頭を殴られたような衝撃を受けた。本当に自分のことなどどうでもいいのだろうか。
そしてなぜ自分はこんなに傷ついているのだろう。
一刻も早くこの場を離れたかった。今日はアキラが家に来る。
「……帰る。和谷んちには明日行くから」
「進藤!」
腹に鈍い痛みを感じた。息ができない。見ると和谷のこぶしがめり込んでいた。
和谷は床に倒れたヒカルのあごをつかみ、口元にビンをあてがった。
流れ込んでくる液体の独特の風味にヒカルは目を見開いた。
吐き出そうとしたが口を手でふさがれ、しかもまた腹を殴られ、嚥下してしまった。
ヒカルは激しく咳き込んだ。
「きみたち、どうしたんだね?」
声をかけられ、ヒカルは助けを求めるように顔を上げた。だが和谷が立ちはだかった。
「気分が悪いみたいです。タクシーを呼んでもらえますか」
ヒカルは声をあげたかったが腹の痛みと、先ほど飲まされた液体――催淫剤だった――の
せいで喉が思うように動かなかった。
「ほら飲めよ」
さらに流し込まれ、ヒカルは飲まざるをえなかった。
周りは水か何かを飲ませていると思っているか、誰も止めようとはしない。
「ふ、く……」
いつもは一口ぐらいだ。こんなに飲んだことはなかった。
身体が発熱したようになり、耳鳴りがした。気分が悪い。
なのに突き上げてくる感情があった。
抱いてほしい――――
肌に触れる服ですら感じてしまう。乳首に痛みが走る。すでにペニスは勃っていた。
「来たみたいだぜ」
和谷に抱き起こされ、支えられるようにしてヒカルはタクシーに乗り込んだ。
もちろん和谷も一緒だった。和谷の告げた先はヒカルの家ではなかった。
和谷のひざにヒカルは頭を乗せた。和谷がジャンパーをかけてきた。
「ん、ぁう……んん……」
車が揺れるたびに声が出てしまう。
「ずいぶん具合が悪そうだね、その子」
「そうなんです。急いでください。大丈夫か?」
ぽんと肩を叩かれた。それだけでも身体がびくりと反応してしまう。
和谷の手がジャンパーの中へと滑り込み、ヒカルの股間に触れてきた。
「わ、や……」
手がゆっくりと動き始める。服の上からなのに敏感に感じた。ジーンズがきつい。
手馴れた様子でチャックを外した和谷の手が入ってきた。
「くぅっ……」
さすられ、先端を押さえられただけなのにヒカルは達してしまった。こんなのは初めてだ。
下着が湿り、和谷の手も濡れていた。だが和谷は気にしないようでまた弄りはじめた。
すぐに勃起した。ヒカルの目から涙が出てきた。思い切り和谷にしがみつきたかった。
だが理性のかけらがそれを押しとどめた。
やっとタクシーを降り、和谷が部屋のドアを開けたその瞬間、ヒカルは自分を捨てた。
(13)
最中のことはよく覚えていない。とにかく飽くことなく和谷を求め続けた。
和谷の命令にも従い、ヒカルはまるで獣のような格好をさらした。
イッても少しも気分はおさまらず、辛くて仕方がなかった。
そしてとうとう勃っても達することさえできなくなり、熱が身体を容赦なく苛んだ。
触られると痛くてどうしようもなかった。なのに触ってほしくてたまらないのだ。
身体が、気持ちが、バラバラになっていく気がした。
狂ったように自分を貪りつづける和谷はヒカルの知らない人であった。
殴られ、痛めつけられ、罵倒された。ヒカルは抵抗することもできず、ただそれを受けた。
今までの自分たちは何だったのだろうか。
院生時代のときは面倒を見てくれて、プロになってからも何かと世話を焼いてくれた。
ヒカルは和谷を信頼していた。だが和谷はそれを無残に打ち砕いてくれた。
いつものようなヒカルに快感を与える抱き方ではなかった。
ただ己の性欲を発散するかのようなそれであった。
同じセックスなのに、どうしてここまで違うのだろう。
和谷の前で自分は肉の塊だった。
そんなふうに扱われたことのなかったヒカルはショックを受けていた。
「和谷、本当はオレのこと、嫌いなのかな……」
抑揚のないつぶやきは宙に吸い込まれていった。
みんな本当は自分のことが嫌いなのかもしれない。
和谷も、アキラも、そして――――佐為も……。
そんなことはない、と否定できるものをヒカルは持っていなかった。
際限なく思考は暗くなっていく。
ヒカルは裏切られたという思いでいっぱいだった。和谷だけでなく、アキラにも。
アキラにまでそんな思いを抱くのは筋違いかもしれない。
だがそんなふうに思えてしまうのだからしかたがない。
不意に階段が揺れた。誰かが下りてくる。ヒカルは身体を強張らせた。
和谷かと思ったのだ。しかし現れたのは和谷の隣に住む男だった。
(14)
男は驚いたようにヒカルを見た。
だがその目がやがて暗い光をたたえた。舐めるようにヒカルの身体を見つめてくる。
ヒカルは着崩れていてしどけなく、まだ薬の余韻のために艶めいた表情をしていた。
「おれサ、和谷さんちの隣の者だけど、キミよく来るよねェ」
ねちっこい口調だった。ヒカルは身体を起こした。
「大丈夫? 何か調子悪そうだョ? おれンち来る?」
ヒカルは首を振った。だが男は薄笑いを浮かべたまま近付いてくる。
カンカンと階段を下りてくる音が神経に障る。
「キミが来るとさァ、声が聞こえるんだよネ。カベ薄いから、ツツヌケ」
肩に手が置かれ、気持ち悪くてぞわりとした。
「男の子、だよねェ、キミ? 和谷さんとどういう関係なのカナ?」
「さわるな!」
ヒカルは声を荒げたが、男の手は開かれた胸のあたりへとおりてきた。
「や、ぅん……」
思わず喘いでしまった。そんな自分が恨めしい。
「キミかわいいよねェ。そこらの女の子より、ずっと」
気を良くしたのか、その汗ばんだ手で鎖骨のくぼみをなぞってきた。
「ふっぁ」
「気持ちイイ?」
「……っく、良くないっ」
男は舌なめずりをした。
「でも、声が出てるョ?」
「相手が誰でも、くすぐられたら笑うのと一緒だ。オレの身体に触っていいのはオマエ
なんかじゃねえよ! 触っていいのは……」
塔矢と、和谷だ――――
二人の名が同時に浮かんだ。ヒカルはとても驚いた。そんなふうに自分が思っていたとは。
たまたま相手が和谷やアキラだったのだと、別に執着があったわけではないのだと、そう
今まで思っていた。だが自分は明らかにこの二人だと決めていた。
「……言うじゃねえかョ。じゃァ、ホントかどうかためさせてくれョ。きみが気持ち良く
なったらおれの勝ちさァ!」
ヒカルは乱暴に手首をつかまれ、地面に引き倒された。
(15)
悲鳴は男の口に封じられた。
生臭く、寒気のするようなキス。ヒカルは歯を食いしばって舌の侵入を拒んだ。
すると思い切り頬を殴られた。
「くっ……」
痛みのために開けてしまった口に舌がねじ込まれた。ヒカルはそれを噛んでやった。
「ぎゃァッ」
血の味がする唾液をヒカルは吐き出した。
ヒカルは立ち上がり、逃げようしたが足をつかまれ転んでしまった。
「コノ! 大人しくしろョ!」
男はヒカルの尻の上にまたがってきた。
「和谷! 和谷っ!」
ヒカルは叫んだ。だが和谷は現れない。そうだ、眠っているのだ。自分の声など届かない。
男はジーンズを剥ぎ取ろうとするが、ヒカルは膝を曲げてさせまいと踏ん張った。
すると男はヒカルを仰向けにし、己のゴムズボンをずらしてペニスを取り出した。
ぽろりと出てきたそれを見て、ヒカルは他の二人と比べてしまった。
(なんか、ちっせえな……)
元気になっているのにこの程度の大きさだ。通常だとどのくらいなのだろう。
「と、わっ! やめろっ!」
ヒカルの口元へとそれが近付いてくる。手を振り回したが押さえつけられてしまった。
イヤな臭いがする。悪寒が走った。ヒカルは何も考えていなかった。
だが身体が勝手に動いた。ヒカルは目前に迫ったそれに思いきり頭をぶつけていた。
「ぎゃァ――――!!!」
股間を押さえてうずくまる男の脇をヒカルは通り抜け、走り出した。
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