とびら 第四章 11 - 15


(11)
予定よりも早く着いてしまった。平日でも原宿は人が多く、雑多な雰囲気がある。
紺の制服を着た少し浮いた学生がちらほら見えた。修学旅行生だろうか。
(修学旅行か……行っておけば良かったな……)
ヒカルの中学では6月の初め頃にあった。2泊3日、行き先は京都、奈良であった。
居心地の悪い時期だった。
三年生は最後の息抜きに浮き足立っていたが、ヒカルはそれに入ることができなかった。
プロになった時点で、たぶん行くことができないだろうと踏んだので、修学旅行の積立金
を払うのをやめていたのだ。
実際、旅行日は手合いと重なっていた。その手合いも無断欠席したが。
佐為をなくしてちょうど自分がふらふらしているところに、同級生たちが楽しそうに
行き先を決めたり調べたりするのを見るのは寂しかった。
母親が今からでも遅くないわよ、と言ったが結局ヒカルは行くことにしなかった。
4月当初から班分けがなされており、今さらヒカルの入る余地はなかった。
そして何よりも、佐為の跡をたどるのが辛かった。京都にいるかもしれないとは思った。
だがそれは期待に過ぎず、本当はもういないのだと、心のどこかで認めていた。
だからもう、ただじっと碁を打たずに自分の中に閉じこもったのだ。
今ではそれが逃げでしかなかったことがわかる。
(京都って佐為が……生身の佐為が住んでたところなんだよな)
佐為はあまりその頃のことを語りたがらなかったし、ヒカルも深くは尋ねなかった。
今ではもっと聞いていればよかったと思う。平安時代と一口に言っても四百年あるのだ。
たぶん末期頃なのだろうとは思うのだが、それにしても範囲は広い。
ヒカルは佐為の痕跡を探ろうとこの時代のことを調べた。
わかったことは、佐為はまったく違う世界に住んでいたということだ。
同じ日本なのに現代とはかけ離れている。それは140年ほど前の江戸時代にも言えた。
秀策の生きた時代もやはり末期で、今からは想像つかないことが展開されている。
佐為と出会った不思議をヒカルは思う。本当に奇跡のようだ。
(あいつもオレに会ったことをそんなふうに思ってくれてたかな……)
誰かとぶつかってヒカルはよろけた。ちっ、と舌打ちの音が耳に入ってきた。
ヒカルはすみの方へと寄った。腕時計を見る。12時30分、約束の時間だ。
改札口のほうに顔を向ける。アキラの姿はまだ見えなかった。


(12)
何度目かの電車が来た。ヒカルは人があふれ出てくる改札口を見た。
だがそこにアキラを見つけることはできなかった。
遅すぎる。今までアキラは待ち合わせに遅刻したことなどないのだが。
(何だよ。せっかく初めてオレから誘ったのに、遅れてくることないじゃん)
来たら思い切り文句を言ってやる。自分の機嫌の悪さに慌てふためけばいいのだ。
「……ったく。遅いな」
ヒカルの横に立っていた男がつぶやいた。誰かを待っているようで、ものすごい形相を
している。腕を組み、足を苛立たしげに揺すり、何度も時計を見ている。
これは遅れてきた人はものすごく怒られるだろうなとヒカルは思った。
向こうから女が駆け寄ってきた。急ぎすぎたためか、改札口で引っ掛かっている。
ピンポンピンポンと鳴るほうへ横にいた男が走り出した。
「何やってんだ、おまえ! このバカ!」
大きな声が響く。女は泣きそうな顔をして、頭を下げた。すると男が手を振り上げた。
ぶつのか、とヒカルは息をのんだ。だが男はその髪を撫でまわすと破顔した。
二人は手をつないで歩き出した。ヒカルのそばを通っていく。
風が一瞬巻き起こり、前髪が揺れた。ため息をつくとヒカルは足元を見つめた。
また電車がホームに入ってきた。もう来るだろうと思って顔を上げた。
だがほんの少し怒ったようなその表情はすぐに沈んだ。
(どうしたんだ、あいつ……何かあったのかな)
心臓が早鐘をうつ。まさか事故などということはないだろうか。不安が広がっていく。
早く来てほしい。来て、寝坊したとでも電車を乗り間違えたとでも何でもいいから言い訳
をしてほしかった。そしたら自分は笑って許してやれる。
ふと一つの考えに思い当たった。ヒカルは胸元を握り締めた。
(あいつ、来るつもりがないのかもしれない)
昨日、ヒカルは和谷とアキラの二人が必要だと言った。
その時アキラはそれでもかまわないと、気にしないと言ったが、そんなはずがないこと
くらいヒカルにだってわかっている。
だからせめてもの罪滅ぼしに今日こうして誘ったのだ。純粋な思いからではなかった。
そんな浅ましい自分をアキラは分かったのかもしれない。
アキラは自分に嫌気が――――
(塔矢、早く来いよ!)
駅は騒がしく、人でごった返している。だがヒカルは一人だった。
どんなに静かで、誰もいない場所にいるよりも、一人だった。


(13)
不意に肩を叩かれ、ヒカルは勢いよく振り返った。
だがそこにいたのは求めていた人物ではなかった。
「きみ、ずっとここにいるよね。俺とどっかに行かない?」
柳のような緑の長い髪を背中までたらした男がいた。にこにこ笑っている。
手の指すべてに変な形の指輪をはめ、服装も何というか、奇抜だ。
こんな風体の男に声をかけられたことが不思議でならない。
「あの……?」
「一人でつまんないだろ? だからさ、俺と遊ぼうよ」
腕を引っ張られる。呆然としていたヒカルは我に返って慌てて振り払った。
「オレ、人を待ってるんです」
「来ないじゃん。もう40分近くもここに立ち尽くしてるよ、きみ」
つまりこの男はそんなに前から自分を見ていたのか。しかも時間をはかっている。
気味が悪くて、ヒカルは表情を険しくした。
だが男はやはり笑顔のまま、腰に腕をまわしてきた。耳元でささやく。
「いいだろ?」
何がかはわからなかったが、良からぬものを感じた。
とっさにヒカルはその腕をひねり上げた。男は悲鳴をあげる。
「良くねえよ! 気持ち悪いから触るな!」
ヒカルは男に向かって大声で叫んだ。
通行人が何だろうと見ていく。その多数の視線に怯んだのか、男は去っていった。
しっかり捨て台詞は残していったが。
「もの欲しげな顔してたから声かけてやったんだよ!」
ヒカルは目を丸くした。いったいどういう意味だ。考えて、身体が怒りでふるえだした。
(あいつ、オレをたらしこむ気だったんだ。オレは男だぞっ!?)
おまけにもの欲しげとは何だ。たしかに人を待ってはいたが、そんな顔はしていない。
(そういうことばっかり考えてるから、他のやつもそう見えるんだろ!)
脳みそピンクにしてんじゃねえよ、とヒカルは心の中で毒づいた。
だが激情が去っていくと、寂しさが残った。
そうか、自分はもう40分もここにいるのか。ヒカルはきびすを返した。


(14)
切符を買い、改札口に向かう。もう帰ろうと思った。自分にしては待ったほうだ。
だが入れようとした瞬間、また電車が来た。今度こそ来るかもしれない。
何度そう思って見たことか。
そのたびに自分はがっかりした。そしてやはり今回もそうだった。
ヒカルは切符を見つめた。首を振ってそれをポケットに突っ込んだ。
(……もうちょっと待ってみるか)
あまりすみに寄らず、人が良く通るほうへと行き、壁にもたれた。
「あのォ……」
おずおずとした声音で話しかけられた。また男だ。
ヒカルは顔をこわばらせて振り向いた。話しかけてきた男はその表情に身をすくませた。
手にガイドブックらしきものを持っている。
「あ……」
道か何かを尋ねようとしてきたのだ。ヒカルは慌てて表情をやわらげたが遅かった。
「すみません!」
男は走って行ってしまった。それを見送り、ヒカルは軽く息を吐いた。
ぴりぴりしている自分を反省し、落ち着けと言い聞かせる。
もう電車が来ても顔を上げないことにした。何も考えずに待とうと決心する。
(詰碁集でも持ってくれば良かったな。仕方ない……)
ヒカルは頭の中で棋譜を並べはじめた。目の前の景色が遠くなる。
検討をするわけでなく、ただ石の流れを感じながら追っていく。
すると次第に心に平静さが戻ってくる。しかしそれは甲高い声によって破られた。
今度はそっくりな女が二人いた。よく見たら違うのだが、服や髪型、雰囲気が似ている。
長いマフラーが重そうに揺れている。それに対しスカートは短くて寒そうだ。
ちぐはぐな印象を受ける。さっきの男とは別の意味で気味の悪さを感じた。
「こんにちは! 良かったら一緒にお昼を食べない?」
くすくす笑いながら上目遣いに見てくる。ヒカルは戸惑った。
もしやこれは逆ナンというやつだろうか。
こんなふうに誘われたことのないヒカルは返す言葉が思いつかなかった。
「ね! いいでしょ?」
無理やり腕をつかまれ、ヒカルは思わず振りほどいた。


(15)
二人はほんの少し驚いた顔をしたが、すぐに笑みを浮かべた。
「彼女こないんでしょ?」
「友達を待ってるんだ。だから」
ほっておいてくれと言おうとしたがそれはさえぎられた。
「じゃあ来るまでおしゃべりしようよ」
「ただぼんやり待ってるなんて退屈でしょ?」
「おもしろい話があるんだぁ。あのね……」
矢つぎばやに口から言葉が飛び出してくる。迷惑だと思っているのがわからないのか。
頭が痛くなってきた。身体はまだ本調子じゃない。
もう一度すがりつくように女の手がヒカルの腕にからみついてきた。
腕が重たくて動かない。ヒカルが拒まないことに気を良くしたのか、さらに身体を押しつ
けてきた。その柔らかな感触が背筋を這いのぼってくる。
「ね、あっちに行こうよ」
二人がかりで連れて行こうとする。あらがえなくてヒカルが歩を進めたそのときだった。
身体が後ろに戻された。誰かが腕をまわしている。荒い息遣いが聞こえた。
「塔矢?」
顔を見る前にその名が口を出た。はたしてそうだった。
「きゃっ! こっちもカッコいいじゃん!」
色めき立った声が上がる。二人はアキラを見て頬を染めている。
そんな彼女たちをアキラは一瞥し、ヒカルを自分のほうへとさらに引き寄せた。
「ねえ、一緒に……」
その言葉は続けられなかった。アキラの眼光の鋭さにヒカルもたじろいだ。
(こ、怖えよ、塔矢……)
見ていてかわいそうになるほど二人は青ざめて、小走りに離れていった。
するとアキラはしゃがみこんだ。立っているのも苦しいのだろうか。
「おい塔矢、大丈夫か?」
汗まみれで、せわしなく息をしている。だが顔を上げ、ヒカルを見つめてきた。
「本当に、遅れてすまない。遅れたのは、その……」
アキラは口ごもった。ヒカルは笑って手を伸ばし、アキラの少し湿った髪に触れた。
「いいよ、別に」
来てくれたのだから。それでじゅうぶんだった。



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