とびら 第五章 11 - 15
(11)
つっぷしたヒカルを和谷が抱きしめる。
息が鎮まるまでヒカルは和谷の胸の上にいた。
気だるくて動きたくなかった。だが和谷が身体を起こした。
引き抜いたペニスを包むゴムはところどころ破けていた。
和谷はそれをティッシュでくるみ、続いて脱いだ服で濡れたところをぬぐった。
ヒカルは寝転がったままそれを見ていた。
すると和谷はヒカルの足を開かせ、体液を丁寧に拭いていく。
別に恥ずかしいとは思わなかったので、ヒカルはされるままだった。
そんなヒカルに和谷は下着とジーンズを放った。
「はかせてやろうか?」
からかうように和谷は言う。ヒカルは口を尖らせた。
「自分ではくよ」
和谷は着替え、ヒカルも服のしわをのばした。
だが二人ともどこかくたびれた感じがした。実際に疲れてはいるのだが。
「棋院でこんなことした、ってばれたら大目玉だよな」
「大目玉で済めばいいけどな。進藤、こっちに来い。髪がぐちゃぐちゃだ」
ブラシをカバンから取り出し、和谷は手招きをする。
髪をとかしてもらう。甘やかされているようでくすぐったい。
「ああ、本当に疲れた」
「オレも。でもまだしてもいいぜ」
「冗談だろ」
頭を軽くこづかれ、ヒカルは笑った。だが言ったことは嘘ではなかった。
物足りないわけではなかった。どころか満足している。
それでも和谷が求めれば、自分は素直に応じてしまうとわかっていた。
しかも何度も。
(前はもう十分、これ以上はちょっと、って思ってたはずなのに……)
自分の身体が際限のない熱に囚われている気がした。
いつのまにこうなったのだろう――――
「進藤のリュックもけっこう重そうだよな。何が入ってるんだ?」
「え? ああ、それは……」
ヒカルは口ごもった。出来ればあまり言いたくなかった。
リュックのなかには和谷と同じように着替えなどが入っている。
なぜなら今日、アキラの家に泊まりに行くからだ。
(12)
正直に言っても和谷は怒らないだろう。しかし気を悪くするのは目に見えている。
できればこのままいい感じで今日は別れたかった。
(でも嘘をつくのはなあ。いや、ごまかすのは嘘には入らないかな)
だいたい和谷だって深い意味で聞いてきたわけではないはずだ。
それならこっちがしらを切れば、すべては丸くおさまるではないか。
「あ〜、とな……」
ヒカルは口を開いた。だが和谷が怖い顔をして「しっ」と鋭く制してきた。
一瞬、何もかもがばれたのかと思った。だが違った。
物音がする。
障子がすっと開かれ、二人はぎくりとした。
そんな二人を入ってきた人物は一瞥して、声をかけてきた。
「なんだ、誰かいると思ったが、おまえだったのか」
「緒方先生……」
思いもかけない人物の登場に、ヒカルも和谷も慌てた。
「ここで何をしていたんだ?」
「そ、それは……」
二人は顔を見合わせた。まさかセックスしていたんです、なんて言えない。
しかしとっさのことでうまい言い訳も見つからない。
「ああ、ここで菓子を食ってたのか」
「え? あ、そうなんですっ」
和谷がチョコレートの包みを手に持って見せた。
一つそれを緒方はつまんだ。顔をしかめ、甘いな、とつぶやく。
「対局室は飲みもんはいいが、食いもんはだめだぞ」
「はい。すみませんでした」
ヒカルが頭を下げると、緒方は口の端をあげた。笑っているのか。
「散らかしたものはちゃんと片付けろよ。あと、換気もしとけ」
チョコの匂いが残っている、と緒方は言いながら出て行った。
二人は同時に息を吐いた。
だがあらためて部屋を見て、息が止まる思いになった。
最初に使用したコンドームは目に付くところに落ちていたし、湿ったティッシュがあたり
にこれ見よがしに転がっている。
(13)
「……なあ、和谷」
「なんだよ」
力ない声で話しかけるヒカルに、和谷は緒方の去ったほうを見たまま返事をした。
「ばれたかな」
部屋に視線をめぐらせ、和谷はため息をついた。
「ばれたと思う。緒方先生、そういうことには気付きそうな感じだし、何よりもこの部屋
を見たらなあ……」
「それじゃあわかってて、ああいうふうに言ったのかな」
「…………じゃねえ?」
今さらながらに緒方の言葉が意味深に感じられた。
二人にどっと疲労感が襲ってきた。
とりあえず言われたとおり窓を開け、散らかっていたものを片付けた。
「来たのが緒方先生で良かったよな、進藤」
笑って言っているがその表情はひきつっていて、本心だとはとても思えなかった。
まあ何とか前向きに考えようとしているのは読み取れるが。
「見逃してくれたからそう言ってもいいかもな。でもオレ、見られたくなかった」
「それは俺だってそうだぜ。棋院でこんなことして、棋士の風上にもおけないって、緒方
先生に軽蔑されたかもしれないんだぜ?」
「いや、オレは……」
同じ見られたくなかったという言葉でも、ヒカルのそれは和谷とは違う意味であった。
悪いことをしたという後ろめたさとともに、秘密めいたものをヒカルは感じていた。
きっとそれは和谷も同じだろう。しかし偶然ではあるが、そこに他者が介入してきた。
ヒカルは二人の共有するものを緒方に荒らされた気がしたのだ。
(緒方先生は少しも悪くないし、そんなふうに思うのはオレの身勝手なんだってわかって
はいるんだけど……思っちゃうもんは仕方ねえよな)
黙り込んだヒカルを心配したのだろう、和谷が勢いよく背中を叩いてきた。
「心配すんなって。何があっても俺はついてるから」
何かあったら和谷ではどうしようもできないだろう。
だがそう言ってくれる和谷の気遣いがうれしいので、ヒカルは笑顔でうなずき返した。
廊下のざわめきが聞こえてくる。もうほとんどの対局が終わったようだ。
もう一度確認して、ヒカルと和谷は部屋を出た。
(14)
ちょうど森下が大部屋から出てきたところに遭遇した。
「森下師匠!」
和谷が駆けていく。その表情から森下をとても慕っているのがよくわかる。
目が合ったので、ヒカルはぺこりと頭を下げた。
「進藤も何か用事があったのか」
「いえ、えーと、はい、そうです」
要領を得ない返事をしてしまった。
だが森下はさして気にとめていないようで、すぐに和谷と話しはじめた。
ヒカルは師匠と弟子の会話を横で聞いていた。
森下は隣に立つ教え子がつい先ほどまで同じ階の別室で、自分を抱いていたなどとは想像
もつかないだろうなあ、とヒカルはぼんやり思った。
(和谷がどんなふうに求めてくるかを知っているのは、オレしかいないんだ)
そう、誰も想像できない。それが何だかとても不思議で、また甘美な気がした。
「よし、帰るか」
三人でエレベーターへと向かう。そこは帰る棋士たちで混んでいた。
開いた箱に、乗れるだけ乗る。中は窮屈で、人いきれで息苦しくなった。
隣に立つ和谷の手が触れた。そっとうかがうと、和谷は自分を見ていた。
また体温が上がりそうになる。
(オレ本当におかしいかも。ずっとしてなかったからって、いくらなんでもこれは……)
早く外の冷たい空気を吸いたかった。
一階につくまでがいつもよりも長い気がした。
ようやくドアが開き、いっせいに皆は出て行く。
ヒカルも後に続こうとした。しかし身体が強く後ろに引かれ、逆戻りしてしまった。
ドアが閉まる。
「んんっ……」
和谷がいきなりキスをしてきた。ヒカルは突然のことで腕を張って逃れようとした。
だが抱きすくめられて、より深く唇を合わせることになった。
柔らかい感触がヒカルをうっとりとさせる。
ヒカルは和谷にもたれるようにして立った。腰を引き寄せられ、さらに身体が密着する。
エレベーターの中には二人しかいない。
うぃぃぃん、という音をたてながらまた上昇する。
六階へと到着する短い間、二人はお互いの口腔を味わった。
(15)
再び一階に戻ってきた二人を呆れ顔の森下が迎えた。
二人が降りそこなったのだと思っているようで、ぼうっとしているなと言われた。
実際は色欲にとりつかれて二人はエレベーターに残ったのだが。
外に出たとたん、夕陽が目を射抜いた。まぶしくて顔の前に腕をかざす。
空が燃えるように紅い。
(あっ! いっけねえ!)
アキラとの約束の時間が過ぎていた。ヒカルは先に行くことにした。
それを伝えると、和谷がひらひらと手を振った。
「じゃあな、進藤。気をつけて帰れよ」
あまりにもあっけらかんとした言い方に、ヒカルは寂しくなった。
(そんなに森下先生んちに行くのがうれしいのかよ)
理不尽な不満を感じてしまう。何だか今日の自分は駄々をこねる子供のようだ。
どうすれば自分の気がすむのかを考えて、鼓動が速くなった。
「どうしたんだ進藤、顔が赤いぞ。夕陽のせいか?」
森下が怪訝そうに見てくる。ヒカルは勢いよく身をひるがえした。
「さようならっ」
雑念を頭から追い払うように、駅へと走り出した。早くアキラの家に行かなければ。
(塔矢に会うのは久しぶりだ)
ヒカルは北斗杯の東京一次予選があったし、アキラだって棋戦などの手合いが多くある。
それにともなって碁の勉強に時間を割くことになるので、ますます会う時間がなかった。
たまたま重なったのが今日だった。
アキラの家ということは、あの塔矢名人がいるということになる。
そう考えるととても緊張する。
背中のリュックが揺れる。そう言えば和谷には知られずに済んだ。
(和谷とのことも、塔矢に言わないほうがいいよな)
アキラにばれるほうが怖い気がした。
黙っていればいい。そうヒカルは単純に考えた。
「今ごろアイツいらいらしてるだろうな」
アキラの逆鱗に触れるのを避けるべく、ヒカルは電車ではなくタクシーをつかまえることにした。
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