とびら 第六章 11 - 15


(11)
ヒカルはゆるやかに目を覚ました。起き上がり窓を開ける。
すがすがしく、しかしどこか物悲しさを感じさせる朝の空気が部屋の中に流れ込んできた。
今日は卒業式がある。
「あら、早起きね」
階下に下りてきた息子を母親は驚いたように見た。
生返事をし、ヒカルは洗面所に向かった。顔を洗い、軽く髪にくしをかける。
ヒカルは朝の支度に時間をかけない。
ダイニングに行くと、すでに朝ごはんが並べられていた。
「そうそう、制服にアイロンあてといたからね」
「別にいいのに、そんなのしなくても」
「きちんとした格好で行ったほうがいいでしょ。お母さんも卒業式に行きますからね」
あまり来てほしくなかったが、そんなことを言ったら怒りだすに決まっているのでヒカルは
黙って味噌汁をすすった。
母親はヒカルよりもそわそわしているようだった。卒業するのは自分なのに。
「何を着て行こうかしら。あんまり正装なのも良くないわよね」
「大丈夫だよ、だれもお母さんのことなんて見てないから」
失言だった。母親はきつい口調で早く食べて着替えろと言ってきた。
ヒカルはお茶でごはんを流し込むと、居間にかけてあった制服を取って二階に急いだ。
きれいにしわを伸ばしてもらった制服を着る。
自分の身体より一回りもサイズの大きかった制服も今ではぴったりだ。
「これを着るのも最後なんだよな」
入学式のときを思い出す。初めての制服をヒカルは自慢げに佐為に見せた。
大きいですね、と笑う佐為をにらむと、すぐにおめでとうと言われた。
くすぐったくて照れくさくて、そしてうれしかった。
部屋を出ようとして、ヒカルはふと振り返った。
「……オレ、今日卒業するんだ」
誰もいないところに向かってつぶやく。
ヒカルはため息をつき、さびしげに笑ってドアを閉めた。


(12)
教室はいつもと違ってはしゃいだ雰囲気があった。
しかしそれは楽しさよりも、切なさを含んでいるようだった。
黒板にチョークでいろいろと書いたり、写真を撮ったりしている。
みな最後の名残を惜しんでいるのだ。ヒカルはそれらをぼんやりと見ていた。
「進藤、ちょっと」
肩を叩かれて振り向くと、このクラスの級長が立っていた。
「これ鈴木先生に渡す色紙なんだけど、書いてくれないか。あとは進藤だけなんだ」
鈴木先生とは誰かと一瞬ヒカルは考えてしまった。担任だと気付き、自分に呆れてしまった。
何だかとても悪いことをした気分になる。
それをごまかすようにヒカルは愛想良くうなずいた。
「どこに書けばいい?」
「ここ。ほら、ペン」
指し示された場所は本当に狭い空白しかなかった。
それがまるでこのクラスでの自分のような気がした。
他の人の文を読んでみる。それぞれ担任への感謝の言葉を書いている。
最終学年である三年生は受験生でもあるので、多かれ少なかれ担任との関わりは深くなる。
鈴木はけっこういい教師だったらしく、生徒にも好意をもたれているようだった。
だがヒカルはこの担任に対して何の感慨も湧かなかった。
少し考え、キャップを外して一行、書いた。
『一年間ありがとうございました。  進藤ヒカル』
当たり障りのない文面だった。
それを渡すと少年は教室の中央にできていた生徒の輪の中に入っていった。
みなで包装してりぼんをかけ、用意していた花束をそれに添えた。
すぐにそれを紙袋の中にしまい、秘密だと言うように目くばせをし合っている。
いつもは下らないとか言ってくる男子も、今日ばかりは一緒になって笑っている。
あの中にはそこそこ仲の良かった者もいる。だがこの受験期で疎遠となってしまった。
高校に行かないという自分は、まったく別次元の人間として見られていた。
(しかたないじゃん。オレはプロ棋士なんだから)
ヒカルは視線を外すと、配られた式進行の紙に目を落とした。


(13)
始業のチャイムが鳴る前に担任の鈴木は教室にやってきた。
あたりまえだが髪もきちんとセットしており、高そうな背広を着ていた。
生徒を見て、ほっとしたような表情を浮かべる。自分の教え子たちが無事に卒業できるのを
喜んでいるのだろう。かみしめるように出席を取る。
注意事項を伝達すると、後は式開始を待つだけとなった。
「進藤、ちょっといいか」
鈴木が廊下にヒカルを呼び出す。いぶかしげに首をかしげるヒカルに鈴木は言った。
「証書の授与の仕方、わかってるか?」
「一応は……」
「そうか、ならいいんだ。進藤は練習もあまり出なかったし、予行の時も欠席していたから
心配だったんだ」
中学校の卒業式は事前に何度か練習する。だがヒカルは学校自体あまり来ていなかったので
それに参加していない。鈴木が不安に思うのも無理はなかった。
「進藤は高校には行かないが、囲碁のプロで頑張れよ」
「はい、どうもありがとうございます」
励ましてくれる鈴木を見て、さきほどの色紙の一文が頭の中をよぎった。
もっと違うことを書けば良かったと少し後悔した。
鈴木は教室に入っていったが、何となくその後に続く気になれなかった。
(トイレでも行っとくか)
前を通り過ぎる教室からのざわめきが聞きながら、誰もいない廊下を歩く。
トイレのドアを押し開き、中に入った。とたんにヒカルは思わず鼻を押さえた。
ひどい悪臭がしたわけではない。しかしその臭いが胸を悪くさせるのはたしかだった。
吐き気が込みあげてくる。ヒカルは歯を食いしばり、目を閉じた。
生々しい感触が肌の上によみがえってくる。
(和谷は言ったのに。絶対にトイレではしないって。それだけじゃない。オレが大切だって、
甘やかしたいって。なのに……)
棋院のトイレでのセックスは、ヒカルに自分を乱暴に扱った和谷を彷彿とさせた。
和谷は言うことがすぐに変わる。態度も変わる。
もう和谷の言葉をそのまま素直に受け取ることなどヒカルはできなかった。


(14)
一度でも表出してしまった凶暴性というものは、なかなか消えないのかもしれない。
きっと和谷はまた、あのように自分を抱くだろう。
そう考えて背筋が震えるのとともに、それを待ち望んでいる自分をヒカルは感じた。
(オレがおかしいから、和谷もおかしくなるのかもしれない)
消えることのない、欲望がある。めちゃくちゃにされたいような衝動が、ある。
いつだって本当はセックスをしたくてたまらなく思っているのだ。
自分は病気かもしれない。今だって気分が悪いのに――――
「あっ……」
ヒカルは思わず下半身を見た。前の部分が膨らんでいる。
慌てて個室に入り、ファスナーをおろした。下着の中に手をすべらせる。
ペニスをそっと握りこみ、外へと出した。己のこぶしの中でどんどん硬くなっていく。
ヒカルは便座をあげ、その方に向かって手淫をはじめた。
ぬめった精液を竿の部分にまぶすようにこすりつける。
しかし射精には至らない。ヒカルの目に涙がにじんできた。
ずぼんを下げ、空いている手を後ろにまわす。そして温かな肛門のなかへ指を突き入れた。
「あぁっ」
前立腺のある場所を掻きまわすと、しびれるような快感がヒカルを襲った。
ぐん、とペニスが上向き、先端からはさらに雫がこぼれた。
声を漏らさないようにするために口を閉じているので、鼻息が荒くなってくる。
視界にトイレットペーパーが目に入った。それを手荒に外すと中の芯を手に取った。
ヒカルはプラスチックの白いそれを口に含み、しゃぶった。
変な味がしたがそれでも舌を這わせ、ぞんぶんに舐めた。
唾液をしたたらせたそれをヒカルはためらうことなく自分の中へと埋めていった。
「くっ……ふ」
わずかに出ている端を持ち、抽挿をはじめる。長さも太さも物足りない。それでもヒカルは
懸命にそれで自分の中を犯した。
ヒカルが指を芯とともに奥までめり込ませたと同時に、びしゃりと水音がした。
便器の中で白濁した液が揺れていた。


(15)
レバーを押して水を流しながら、たまっていたのだなとヒカルは自嘲した。
せっかくアイロンを当ててもらった制服にしわが出来ていた。
汚れなかったのがせめてもの救いである。
「……したいな……」
ぽつりと言う。思えば和谷が自分を犯す前の状態が一番良かった。
和谷とアキラがほとんど日替わりでヒカルの性欲を解消してくれていたからだ。
しかし今は二人とも、あの頃のようにやっきになって自分を抱こうとしない。
だから自分で処理するはめになるのだ。そう考えて気が滅入った。
(……なんかオレそれだけが目的みたいなヤツだな。それにあいつらが変わったのは、オレ
が原因なんだから、文句は言えないんだよな)
わかってはいるがどうしようもなかった。これは理性で解決できるものではないのだ。
チャイムの音がトイレに響いた。ヒカルは思考を中断し、トイレを出た。
ヒカルが戻ると廊下ではすでに出席番号順に列が作られていた。急いで自分も並ぶ。
入場アナウンスが入り、列が動き出した。
体育館が近付くと拍手の音ともに“蛍の光”が聞こえてきた。吹奏楽部が演奏しているのだ。
卒業生が全員着席を終えると、場内は静まりかえった。
式は滞りなく進行していく。保護者席は満席で、みな我が子の証書授与を見守っている。
『進藤ヒカル』
名前を呼ばれ、ヒカルは立ち上がった。場内の空気がわずかに揺れた。
「あの子よ、碁を打つのを仕事にしてるの」
「たしか高校には行かないって、うちの子が言っていたわ」
ひそひそとした声だったが、ヒカルの耳には届いた。居心地が悪い。
壇上への階段をのぼる前に貴賓席に頭を下げた。そして校長の前に立ち、証書を受け取る。
正面を向いて、自分が広い体育館の中央にいることに気付き、足がとまりそうになった。
気を落ち着けて階段を下りる。今度は先生の座っている席に頭を下げる。
好奇の視線を向けられるなか、ヒカルは自分の席に着いた。思わずため息が漏れる。
ふとアキラを思い出す。アキラならきっとこんな中でも堂々としているのだろう。
(あいつの卒業式っていつだろ。まあ今日じゃないだろうな。何てたって本因坊リーグ戦が
あるんだから。帰ったらすぐに見に行くか)
すでにヒカルの心は卒業式から離れていた。



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