うたかた 11 - 15


(11)

 部屋の中はとても静かだった。
 雨が屋根をたたく湿った音と、時計が秒針を刻む乾いた音が、やけに大きく聞こえる。

 ヒカルの涙もいつしか止まっていたが、離れるタイミングを逃して加賀の肩に頭を乗せたままだった。
「………」
「………」
 沈黙に耐えかねて加賀が口を開きかけたとき────
「はっ…くしゅ!!」
 ほぼ裸で布団から身体を出したままだったヒカルの盛大なくしゃみに一気に緊張が解けて、思わず笑うと、ヒカルもつられて赤い瞳のまま笑った。

「加賀」
「なんだ?」
 さっきよりもずいぶん明るくなった表情で、ヒカルが加賀を呼んだ。
「オレ、今日加賀に会えてよかったよ。」
「…何言ってんだ、お前。」
 照れ隠しに加賀が無愛想に言うと、ヒカルは微笑んで続けた。
「今朝からずっとへこんでたんだ、オレ。自分がすげー弱いってことに改めて気付いちゃってさ。」
 少しはオトナになったと思ってたんだけど、と小さく呟いて、ヒカルは溜息をついた。
「でも久しぶりに加賀に会ったら…何て言ったらいいのかな。懐かしいのと嬉しいのと安心したのが一緒になって、寂しいのがちょっと小さくなった。」
「…そうか。」
「加賀ってやっぱりイイヤツだな!いつも助けてくれるし。」
 無邪気に笑顔を向けるヒカルに、加賀は罪悪感を感じていた。
(────オレがお前に良くするのは、純粋な親切心からじゃねぇ…。)

 たまらなかった。
 ヒカルの前でイイヤツを演じていながら、頭の中でやましいことを考えている自分も、そんな自分をすっかり信じきっているヒカルの笑顔を見るのも。

 もう、たまらなかった。


(12)

 この苦しみから解放されたい。
 いっそのこと、自分かヒカルが居なくなってしまえばいいのに。
 何でもいいから蹴りをつけたかった。

 いいかげん疲れた。


「ねぇ、加賀ってばちゃんと聞いてんのか!?」
 風邪でいつもと違うヒカルの声が急に届いたかと思うと、目の前に少し怒ったような大きな瞳があった。
「………。」
「さっきから話してんのに、ずっとボーッとしてただろ!」
 近付けた顔を離すと、ヒカルは布団の中に入り直した。
 その時、ヒカルのきれいな背中やまっすぐな背骨が目に入って、思わず目をそらす。
 ヒカルは手にりんごの皿を持っていた。いつの間に取ってきたんだろう、とぼんやり考えていると、ヒカルが急に振り向いた。
「それで、いつ?」
「あ?」
「さっきの話しの続きだよ!やっぱり聞いてなかったなー!!」
 怒りながらもりんごを口に運ぶ。どうやら食欲は湧いてきているようだった。
「…悪い。何て言ったんだ?」
「『元気になったらまた今度会いたいんだけど、いつなら都合いい?』って聞いたんだよ!」
 急に正気に戻った。
 また会う?
 …進藤と?

「加賀?」
「…ない。」

 会えるわけねえだろ。

「え?」
「……『今度』は、無い…。」

 これ以上自制心きくかよ。

「熱が下がったら、すぐ家に帰れ。」

 取り返しのつかなくなる前に。

「お前とは、もう会わない。」


 本当に大切な相手には、手が出せないという話しを聞いたことがあった。
 それは進藤と出会う前で、その時の自分には理解不能だったけれど────




 進藤が大切で大切で、どうしようもねえんだよ、畜生。


(13)

 突然の言葉に、ヒカルがきょとんとした顔で加賀を見つめる。
 その視線が、加賀には痛かった。

「…なんで?」
「………。」
「どうしてだよ、加賀。オレ何か悪いこと言った?」
 戸惑ったような声。
 ヒカルと目を合わせることが出来ない。
「加賀ってば…」
「………。」
「…黙っててもわかんないよ。」
 加賀もわからなかった。何をどう言えばいいのか。
 だんまりを決め込む加賀に頭に来たのか、ヒカルが枕を投げつけた。
「もういいっ!!加賀はオレのこと嫌いなんだろ!!言われなくったって出てってやるよ!もう会わないっ!!!」
(────嫌いじゃないから苦しんだろが、バカ進藤。)
 加賀が、肩に命中して床に落ちた枕を拾い上げるのと同時に、ヒカルは起き上がって服を着始めた。
「おいっ!熱が下がってからって言っただろ!」
 思わずヒカルの腕を掴むと、すごい勢いで振りはらわれた。
 俯いたヒカルの表情は、ひどく辛そうで────絶望に満ちていた。

「しんど…」
「なんでだよ……。」
「…え?」
「なんでみんなオレを独りにするんだよ…っ‥」

 佐為も、加賀も

「………ヤダ……」

 もう独りは嫌だ

「ヤダよ…かが…っ」

 すがるように、加賀の背に腕をまわした。
 加賀がおそるおそるオレを抱きしめるまでに、数秒ためらったのがわかった。

 ────ふいに、視界が歪む。


 泣くもんか
 薄情な加賀のために流す涙なんて、一滴もないんだから。

 でも、背中をぽんぽんってする加賀の手が優しくて。
 『会わない』って言ったのに、優しくて、それが余計に哀しくて。

 泣きたくなんかないのに、涙はしつこく出ようとしていた。




 雨はまだ止まない。


(14)

 頭の中でシグナルが鳴り響いているのが聞こえた。
 抱きしめたヒカルの肩は、薄く小さい。中途半端に着かけた服の上からその肩に触れると、ヒカルはしがみつく腕に力を込めた。
(────参ったな……。)
 ヒカルとこんな風に抱きしめ合うのも、ヒカルのあんな表情を見たのも初めてだった。

「…ごめん…。」
 弱く声を出したヒカルを見下ろすと、ヒカルは加賀の胸に額を押しつけたままもう一度、ごめんと言った。
「オレ…加賀に迷惑がられてんのに気付かなくて……色々ごめん…」
「迷惑とか思ってねぇよ…」
「じゃあなんで…っ」
 顔を上げたヒカルの瞳に心が捕らわれた。

 ほら。シグナルが黄色から赤に変わる。

「…加賀?」
「……そんなに知りたいのかよ。」
 どうしてオレがお前を引き離そうとするのか。
「…うん。」
 知らねぇぞ、バカ進藤。

 でも、人を疑うことを知らねぇこのチビは、オレの本性をわかってねぇと、また無防備にノコノコついてきちまうだろ?


 もうこれで終わりだ。徹底的に繋がりを断ち切ってしまおう。
 これ以上オレだって苦しみたくねぇんだよ。


「わぁっ!?」
 加賀はヒカルの腕を思い切り引くと、噛みつくようなキスをした。そのまま音を立ててベッドに倒れ込む。
 何の免疫もないヒカルは抵抗することすらできずに、ただされるがままになっていた。
 ヒカルの柔らかい唇の奥に舌を侵入させると、涙を含んだ声が漏れた。
 ────りんごの味がした。
 ヒカルがさっきまで食べていたりんごの皿は、とうにヒカルの手から離れて床の上に落ちていた。
 加賀はそれを味わうように、ヒカルの舌をきつく吸い上げた。

 どうしてだろう。
 こんなにもヒカルを守りたいのに、こんなにもヒカルを壊したい。

 唇を離すと、ヒカルの怯えたような瞳と目が合った。
「…わかったか、進藤。オレはこういう対象としてお前を見てる。」
 ヒカルはまばたきもしないで加賀を見つめていた。
「オレをあまり信用するな。買い被るな。オレがお前に今まで優しくしてきたのは下心があるからだ。」
 ヒカルに覆い被さっていた体をゆっくり離す。


(ああ、サイテーな告白になっちまったな。)


 胸の痛みを自嘲すると、心は余計に血を流した。
 雨なんて、もっとざあざあ降ればいい。
 そしてこの血を洗い流してくれ。


(15)

 加賀とヒカルはしばらく見つめあった。
 ヒカルは困惑したような瞳をしていたし、加賀はその表情に、虚無感にも似た色を浮かべていた。

 何か言わなきゃ、とヒカルは思った。でも何を言えばいいのかわからない。
「じょ…冗談だよな?」
 言ったとたん、自分が失敗したことを悟った。加賀がすごく怒った表情になったからだ。
「お前…オレがどんな気持ちで…っ」
 そう言い終わらないうちに、加賀はヒカルの肩を強く掴み、再び口づけた。
 ヒカルの方が熱があるはずなのに、加賀の唇が触れる所はもっとずっと熱い。

 どうしよう。
 抵抗しなきゃと思うのに、身体が思うように動かない。
 ただ、オレの肌を撫でる加賀の手と、熱い唇と、痛みを堪えるような瞳が、オレが今この世で感知できるものの全てだった。

「…?」
 ふと、加賀の温度が離れていったのがわかって、ヒカルは瞳を開けた。
「…お前、オレの理性が残ってるうちに帰れ…。このままじゃオレ、本当にお前に何するかわかんねえぞ。」
 加賀はヒカルの視線を避けるように、背を向けて座っていた。

(…加賀……。)
 どうして加賀は、こんなにも辛そうなのだろう。
 加賀が自分に恋愛感情を持っているということに嫌悪感は感じなかった。
 でも自分が加賀のことをどう思っているかは、よくわからない。
(……わかんないよ‥)
 顔を上げて、加賀の後ろ姿を見る。
(────……あ)

 加賀の背中に、佐為の背中がダブった。
 あの夢が、鮮やかによみがえる。

 佐為と加賀は全然似ていないのに、置いていかれる寂しさは同じ。


 気が付くと、加賀のシャツを握りしめていた。
「……なんだよ。」
「…いい…」
「進藤…?」

「何されたっていいよ…」

 だから

 だから、お願い。

「…そばにいて…」


 この不安を 痛みを 寂しさを
 消し去って

 おねがい



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