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(11)
チャイムを鳴らすと、いつも通りヒカルの母親は迎えに出てくれた。
「あら、ヒカル……今日は塔矢くんの家に泊まるって……」
「やめた」
ドアを開けて立っている母親を素通りし、そのまま乱暴に靴を脱ぎ捨て階段を登る。
そうしてみても、きっと翌朝には靴は綺麗に並べられているに違いない。
ヒカルには、それがなんだか腹立たしく、そしてとても情けなく感じられた。
「ちょっと、ヒカル! 御飯食べてきたの? 少しならとってあるから、食べるんなら食べなさい」
「いーよ、もう! オレ寝るから。おやすみ!」
母親にあたっても仕方の無い事だとは分かっているのに、
口をついて出る言葉はやっぱり親子の気安さ故か乱暴で、
ヒカルはそんな自分にまた嫌気が差した。
家を出る前そのままの状態の、石を並べたままの碁盤の前にすとんと座り込む。
いつの日か佐為と打った一局だった。
「佐為……オレ、甘えてるのかな。おまえにも、皆にも……」
答えてくれるものはいない。
碁盤の上に目を落とす。
アキラの言った事にヒカル自身全く思い当たる事がない訳ではなかった。
けれど、それは仕方がない事とも言える。
約三年もの間、ヒカルは他人の意識と共に過ごしていたのだ。
今になってみれば結構凄い事だったのかも知れないが、
常に一緒にいるのが当たり前だし(プライバシーも何もあったもんじゃない)、
半分心を共有していたと言っても過言ではない。
実際の距離なんて、どう足掻いたってそれより近いはず無いのだ。
心の中に踏みいられる(といえば佐為に申し訳ないのだが。大体、彼は
ずかずかと入り込んでくる様な図々しい人物ではなかった)事に慣れてしまっていたヒカルには、
他人との距離がうまく計れなくなっていたのだった。
酷く憂鬱な気分で、ヒカルはそのままベッドにもぐり込んだ。
階下で電話が鳴るのが聞こえて、母親の対応から相手がアキラだと云う事が分かる。
呼ばれるかも知れないと思うと更に気が滅入って、布団を頭まで被った。
しかし、結局母親は彼の名を呼ばず、
彼もまた真っ暗な布団の中で徐々にのしかかってきた眠気に勝てずに、
ゆっくりと意識を手放した。


(12)
「あ〜あ、最悪」
「何が?」
我知らず零れた言葉を耳聡く聞いた和谷がヒカルを覗き込んだ。
「う……なんでもない」
「なんだよ、気になるじゃねーか」
そう言ってヒカルの頭に手を置こうとしたのを、手で遮る。
「なんでもないってば……っつ!」
その瞬間、ヒカルが顔を顰めた。
「おい…どうした?」
そのまま、暫く目を閉じて顳かみに手を当てたままのヒカルに、和谷が問いかけてきた。
心配しているのか、さっきまでとは打って変わった神妙な声が、なんだかおかしい。
けれど、笑おうと思ったヒカルの口から漏れたのは呻き声だった。
「進藤……? マジで大丈夫か?」
本当に心配しているらしい、和谷はヒカルの肩を抱いて階段の脇に座らせた。
大丈夫と答えようとしても、口からは、うう、という呻き声しか出ない。
今朝、目が覚めた時から続いていた頭痛が、ここに来て酷くなったようだ。
「森下師匠に言っとくから、おまえすぐに帰れ。顔真っ青だぞ」
「う、うん……」
棋院の玄関までヒカルを連れて出た和谷は何度も、タクシー呼んだ方が良いんじゃないのか、
それともやっぱりオレが家まで送ってった方がいいか、と言っていたが、
そんなのはお断りだったのでヒカルは丁重にお断りした。
だが、ヒカルの姿が見える限り見送り続けるつもりなのか、
一向に棋院の中に入る様子の無い和谷を見ると、そうのろのろ歩く訳にもいかなかった。
それどころか、ここから早く立ち去らなければ、
やっぱり不安だとか言って付いて来るかもしれない。
もう少し、あの角を曲がれば……。
そう自分に言い聞かせてふらふらする足下を急かす。
たかだか二〜三分の距離がこんなに辛いものだとは考えもしなかった。
あと、もう少しだと自分を叱咤する。
三歩、二歩、一歩。
角を曲がると、ヒカルは安心しきったようにその歩みを止めた。
安堵したのも束の間、襲ってくる激しい痛みに全身からどっと冷や汗が噴き出した。
気がつくと衣服はもう充分過ぎる程汗を吸収していて、
それが冷えて身体にぴったりと張り付いていた。
ヒカルはおかしいな、と思った。
今日は残暑が厳しいとニュースで言っていたのに、何故か凄く寒い。
余りの寒さに、歯の根も合わなくなっているではないか。
「進藤!」
突然名前を呼ばれて、けれど身体は云う事をきかず、のろのろと顔をあげる。
「進藤、大丈夫か? どうしたんだ、こんなところで」
「………塔矢」
すぐ近くにその顔があった。
和谷とおんなじだ、とヒカルは思った。
馬鹿みたいに神妙な顔をしている。
「酷い顔色じゃないか……! 動けるか?」
「……そんなデカイ声出さなくても聞こえてるよ」
我ながら酷い言葉だな、と思わないでもなかったが、当のアキラは気にした様子もなく、
寧ろその声の弱々しさに、かえって不安を煽り立てたようだった。
彼はタクシーを呼び止め、半ば強引にヒカルを引きずり込んだ。
そうしなければならなかったのは、ヒカル自身が既にまともに立てない程弱っていたからなのだが。
ヒカルは、言葉も何も吸収しない頭でアキラと運転手のやりとりを暫く聞いていた。
だが、車がゆっくり走り出すと、徐々に彼の意識は闇に飲まれていった。


(13)
タクシーが目的地に着いた時、ヒカルは浅い呼吸を繰り返しながらぐったりとしていた。
アキラは呼び掛けにも応じないのを見て、一瞬だけ病院に行こうか迷ったが、
結局それはやめておく。
アキラはタクシーの運転手に手伝ってもらいながらヒカルを背負った。
もともとヒカルが細身な方だというのは分かっていたが、余りの肉付きの薄さに少し驚く。
意識の無い相手は、全身の筋肉が弛緩している分、起きている人間よりもかなり重い。
それでもアキラが無事自宅の客間にヒカルを寝かせる事が出来たのは、
多分思っていた以上に彼が軽かったからだろう(勿論全く苦戦しなかった訳ではないが)。
敷布団を引いて、そこにヒカルをそっと横たえると、ヒカルが微かに呻いた。
「進藤? 苦しいのか?」
返事はやはり無く、聞こえてくるのは荒い息だけだった。
良く見ると身体が微かに震えている。
汗を吸った衣服が冷たくなっているのだと気付いたアキラは一瞬躊躇った後に、
ヒカルの衣服を脱がせた。
下着以外を全て取り払い、熱い湯で絞ったタオルで身体を丹念に拭う。
そして客人用の浴衣を着せて、少し暑いかとも思ったが、羽毛布団を掛けた。
その一連の作業が終わるまで、アキラの胸中は酷く複雑だった。
今も、頬を上気させて荒い息を吐くヒカルを見ていると落ち着かない気分になる。
氷枕を作ろうと思い立ち、そこから離れたのは決してそれだけが理由ではなかった。


(14)
その日の午前中、アキラは彼の父親の経営する碁会所に居た。
そこにたまたま居合わせた芦原に、アキラはここ数日腹に溜め込んでいた悩みを打ち明けた。
普段なら父親辺りに相談していたかも知れないが、両親ともども海外にいるのでは仕方がない。
それにいつだったかアキラは芦原を友達だと言ったが、
人生においてはまぎれもなく頼りになる先輩だと思っていた。
だから、自分の悩みにもきっとなんらかの形でヒントをくれるだろうと思ったのだ。
話始め真面目に聞いていた芦原は、暫くすると腕を組んで椅子に深く凭れ掛かった。
話が中盤に差し掛かった頃には足を組み、時々何かを堪えるように口元を押さえ下を向いた。
堪えなければならない何かは、なんとなく想像出来た。
というのも俯いている芦原の両肩が不自然に震えていたからである。
そしてそろそろ話が終わろうとする頃には、彼は既に隠そうともせず
奇妙な笑みを顔に張り付かせていた。
それは、アキラの神経をなんとなく苛立たせた。
「何がそんなにおかしいんですか?」
一向にそのにやけた笑いを引っ込めない芦原に、腹に据えかねたアキラが
それでも怒りを押し殺した声で問いかけると、芦原は堪らないように噴き出した。
「あ、はは、あははははっっ、アキラらしー。自覚ないんだ、オマエって」
屈託無く笑う芦原に一瞬毒気を抜かれたが、もう一度きっと睨むと芦原は
「あ−悪い、悪かったよ、ごめんな」といって目尻に浮かぶ涙を手で拭った。
「だって、誰が聞いたって今の話、のろけられてるんだと勘違いするぞ?」


(15)
「…… …… え」
アキラの思考が一瞬停止する。
いつもの思考速度の百分の一くらいの速度で、芦原の言葉がアキラの脳内を巡った。
全身をだらだらと汗が流れ落ちる。
耳まで真っ赤になったアキラが次の言葉を放出するまでに要したエネルギーは甚大だった。
「な、な、なんでそーなるんですかっ!!」
体内を程よく循環し、集められたエネルギーをまともに喰らった芦原は一瞬その剣幕にたじろいだが、
続く返事はその被害を全く感じさせない、いつもの彼らしいどこか呑気で飄々としたものだった。
「だって、好きな子じゃなきゃそんなに神経質になる事でもないだろ?」
言われて一瞬面喰らう。
「あんまり無防備に他人に近付くから心配、とか、時々自分が傍にいるのに
どこか遠い所を見てるのが気になるとかさー、それって単なる嫉妬じゃないか」
芦原は自分と『その相手』がつき合っているものだと決め込んでいるようだったが、
今のアキラにそんな事を訂正している余裕はなかった。
「で、でも自分にも無防備に近付いてくるんですってば!」
必死の反撃虚しく、芦原はアキラにとどめの一撃を刺した。
「それはアレだろ? お前、自分を制御する自信がないんだよ」
自分の中で何かが崩れ落ちるような音をアキラは聞いた気がする。
いやーお前がそんな男の悩みを持つようになるなんてなー、で、その相手の子はどんな子なんだ?
等と嬉しそうに話す芦原に、今更「相手は進藤です」などと言える訳はなかった。
冗談が冗談で済まされないのは、図星だからだ。
初めから『その人』等と抽象的に言わずに、せめて『彼』にしておけば
こんな地雷を踏まずに済んだかも知れなかったのに、と思ってみても時既に遅し。
若いって良いなぁ、と連発する(本人もまだ若いはずの)芦原を恨めしく思った。



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