Trick or Treat! 11 - 32
(11)
「ごめんなさいね、緒方さん。芦原さんから聞いたわ」
明子夫人から詫びの電話が入ったのはその日の夜のことだった。
門下の中でも最年少の芦原は、まだ入門して日も浅いというのに夫人やアキラから
抜群に受けがいい。
媚びることなく、自分を歪めることなく、自然体のままで人に好かれる芦原もまた、
緒方にとってはささやかな嫉妬を感じる人種の一人だった。
どれだけ碁の勉強をして強くなっても、自分はきっと一生そんな風にはなれない。
「あ――いえ。オレが大人気なかったのが原因ですし――それで、その――
あの・・・先生にも、そのことは・・・?」
「あの人には、言わないほうがいいと思うわ」
即答が返ってきた。
「芦原さんたちともこのことは伏せておきましょうっていう話になったの。大丈夫よ。
今も、あの人がアキラさんとお風呂に入ってる間にと思ってお電話差し上げたの。
今二人でお歌を歌っているんだけれど、聞こえて?」
「・・・微かに」
「幼稚園のお遊戯の時間に習ったお歌をね、毎晩ああして歌っているのよ。
今日のことも、幼稚園で他の子がお友達にしたのを見て真似したみたい。
男の子が好きな女の子にちゅっ、てしたら、女の子が泣いちゃったんですって。だから」
「ああ・・・」
そう言えばアキラが外で色々なことを覚えてくると、昼に聞いた気がする。
自分が菓子をくれないとわかった後の、そんなことを言ってどうなっても
知らないぞと言わんばかりのアキラの不敵な笑みを思い出した。
(12)
「・・・とにかくそんなわけだから、緒方さんもこのことはあまり気になさらないでね。
今日は本当にごめんなさい」
「いや、そんな――オレは・・・オレよりもアキラくんに、悪いことをしたと思って――」
「あら、どうして?」
「・・・オレはともかく・・・アキラくんにとってはその――初めての」
「ああ。ファーストキス?」
受話器の向こうで夫人がけろっと言った。こんな単語を師匠の夫人に言わせるのは、
いわゆるセクハラというものになりはしないかと少し焦る。
「そんな、だってあの子はまだ子供だし、それに男性同士でしょう?
そんなの、キスのうちに入らないわ」
「そう――でしょうか」
「そうよ。あの子がもっと大きくなって、素敵な女の子を見つけて――
本当に好きだと思う相手とキスしたら、それが本物のファーストキスよ。
口がくっついただけでキスになるなら、私なんて実家で飼ってた犬のペロに
しょっちゅう顔を舐められていたのがファーストキスになっちゃうわ」
夫人がころころと笑った。
「・・・・・・」
「あら、もう出てきたみたい。アナタ、アキラさんの新しいパジャマ置いてあったの
分かりますー?え、なーに?・・・ごめんなさいね緒方さん、それじゃ今日はこれで」
上機嫌らしい師匠とアキラの合唱が大きく近づいてきたところで、電話は切れた。
ツーツーという無機質な電子音の中受話器を置きながら、緒方はなんとなく
深い疲労感を覚えてその場にずるずると座り込んだ。
タバコを一本取り出し煙を吸って吐き出すと、
甘い匂いのするあの感触が、タバコの刺激に紛れて消えていく。
ホッとしたようながっかりしたような、妙な気持ちだった。
(13)
通りすがりの花屋に、見たことのあるオレンジ色の物体がデンと据えられてあった。
「・・・・・・」
立ち止まって眺めていると、店の奥から学生のような若い女の店員がニコニコと出てくる。
仕方なく緒方は呟いた。
「・・・最近は、花屋でもカボチャを売るのか」
「今日はハロウィンですから。大きいのは店の飾り用ですけど、小さいのを
ご自宅用に買っていかれるお客様は結構多いですね」
「小さいの?」
「こちらになります」
店員が体をずらした方向に、緒方の手のひらより一回り小さいくらいの
オレンジ色のカボチャが、大きいカボチャと同じように目と口をくり抜かれて笑っていた。
金色と薄桃色の夕映えが次第に菫色がかった青に染まり始めると、もう黄昏時だ。
逢魔が刻だ。
お化けや魔女が街中を練り歩き、甘い菓子の匂いに誘われて家々の扉を叩く時間だ。
花屋の包みを抱えコートの襟を立てて家路を急ぐ緒方の頭上で、
暮れ時の鮮やかな青い空を背景にした黒い街路樹のシルエットから、
何か黒い鳥の影がバサバサッと飛び出していった。
(14)
最近は自分で鍵を開ける日と、開けないで済む日とがある。
マンションのエントランスで部屋番号を押す時にふっと思いついて、
包みから取り出した顔つきカボチャをモニターの前に押し付けた。
「はい」とモニターの向こうに現れた相手が、息を呑む音が聞こえる。
その反応に満足しながら、緒方はカボチャをどけ自分の顔を見せた。
「オレだ」
「・・・開けますよ」
一枚板と厚いガラスを組み合わせた、エントランスの自動扉が開く。
エレベーターを降りると、エプロンを着けたアキラが中からドアを開けて待っていた。
「お帰りなさい。あまり変なことをしないでくださいね」
「ただいま。・・・お土産だ」
両手を差し出させて載せてやると、アキラは不思議そうに首を傾げた。
「・・・カボチャ?」
「ハロウィンだ」
「そうですけど。緒方さんの部屋って、クリスマスもお正月も何か飾られていたのを
見たことがないから」
「昔を思い出したのさ」
「ふうん・・・?ボクが、飾っていいですか」
「ああ」
片手でネクタイを解きながら、着替えるために緒方は寝室へと向かった。
(15)
深刻な喧嘩を何度か繰り返した末に、緒方はやっと「アキラと一緒に暮らす」
という選択肢を思いついた。
結局自分はアキラが常に自分の手の届く所にいないと不安なのだ。
年上の兄弟子という立場にしがみついて大人ぶってみせても、
実の所はアキラが離れていくのが怖くて、置き去りにされるのが怖くて、
捨てられるのに怯えているただの情けない男なのだ。
惚れた相手に去っていかれるのを恐れる男など世の中にはいくらでもいて、
自分はその中の一人に過ぎない。
そう自分を相対化してしまうと楽になった。
渋られたら土下座してでも頼み込むつもりで緒方が提案した共同生活を、
アキラはあっさり承知した。
ただし、両親が留守中の家を管理しなければならないし訪ねてくる人々への
応対もあるから、一週間ごとに生家と緒方の部屋を行き来する。
そんな条件だったが、アキラが定期的に自分のもとで暮らすことを承諾したと
いうだけで緒方の精神は格段に安定した。
以後、アキラはまめに通ってきては緒方と共に時間を過ごし、
生家に戻る時は何やかやと自身がいない間の注意事を申し渡して帰っていく。
お守りされている、と思う。
だが見栄や意地を捨て去ってしまえばその状態は信じられないくらい心地よく、
自分たちにとってはむしろこうした状態でいるほうが自然な姿なのだと
思うようになった。
盤上の世界での優位を譲り渡す気は毛頭ないが、
それ以外の部分で、役にも立たないプライドを後生大事に守る必要など
かけらもなかったのだ。
(16)
リビングに戻ると、こちらに背を向けたアキラが
窓辺に居場所をもらった小さなカボチャをよしよしと撫でているところだった。
「気に入ったか」
「はい」
アキラは振り向いて微笑み、ぱたぱたとキッチンへ向かった。
「何か作っていたところだったのか?」
「カボチャと、きのこと、鶏肉のシチューです」
鍋を重たそうに掻き回しながらアキラが言った。
料理に関しては、緒方は酒のつまみか炒飯くらいしか作れない。
一人の時は買ってきた物と外食と出前でどうにかなっていたが、
それでは栄養が偏るからとアキラが調理器具を買い揃えて自炊を始めた。
芦原弘幸のお料理教室などと称しては月に一、二度芦原が上がり込んでいくのは
気に食わないが、家で誰かの手料理が食べられるというのはいいものだ。
自分も料理教室に参加するようにと芦原から再三勧誘されているが、この朗らかな
弟弟子に「教えてもらう」という立場になるのが何となく癪で延ばし延ばしにしている。
「・・・カボチャを入れたのか。ハロウィンだから?」
「いえ、何となく甘いものが食べたくて。緒方さん、苦手でしたか?」
「いや・・・」
鍋からもうもうと上がるシチューの湯気の中に、
甘い毒を混ぜたようなカボチャの香りが妖しく立ち込めている。
甘い菓子のような匂いを嗅ぎつけて、そろそろお化けが集まってくる頃合いだろう。
(17)
「・・・かなり、甘くなっちゃったかなぁ」
鍋の中身を小皿に取って味見をし、上唇についた分をアキラはちろりと舐めた。
「甘いのか」
「ええ。チーズでも、入れてみようかな・・・」
「料理の話じゃない」
「え?」
アキラは怪訝な顔をしたが、緒方が笑みを含んで唇を指してやると
呆れたように肩を竦めてくるりと鍋のほうに向き直った。
「おいおい」
「今は、今日美味しいお夕飯が食べられるかどうかの瀬戸際なんです。
邪魔をするなら向こうへ行っててください」
「・・・・・・」
緒方は黙って手を後ろに組み、所在無げにアキラの横に立った。
アキラは無視してチーズを探し始める。
「・・・ここだ」
「・・・ありがとうございます」
軽く頭を下げて黄色い塊を両手で受け取ったアキラに、ふと思いついて聞いた。
「アキラくん。・・・オレたちが初めてキスしたのは、いつだったかな?」
アキラは「は?」というような顔で緒方を見ると、すぐにチーズの包装を開け
ナイフとカッティングボードを並べながら、
「ボクが中3の冬ですよ」
と答えた。
(18)
「・・・いつだって?」
「中3の冬です。緒方さん、憶えてらっしゃらないんですね」
アキラは緒方を見ないまま、チーズにぐっとナイフを突き立てた。
「そんなに後だったかな。もっと、早かったんじゃないか」
「いいえ、あれが初めてですよ。ボクとセックスするようになっても、緒方さん、
長いことキスはしてくださらなかったじゃありませんか」
アキラの声が強張り始める。チーズの大きな塊が音を立てて本体から切り離された。
「・・・・・・」
忘れているのはどっちだと思う。
確かにあの時アキラはまだ子供だった。「お化け」のアキラにとってあのキスは、
従わない者を懲らしめるための単なる悪戯だった。
だからアキラが憶えていなくても仕方がないと頭では思う。
だが、だからと言ってこんな責めるような口調をされるのは心外だった。
――あの時オレがどれだけ驚いたと思ってる?
「おい」
「あの時期、どういうおつもりでボクとセックスなんかしてらしたんですか?
キスしなかったのは、セックスだけで、キスしてやる必要なんてない相手だった
からですか?ボクがあの時期、どれだけ――」
何か甦ってきたらしく、アキラは声を詰まらせ眉間に力を込めて口を噤んでしまった。
鍋がグツグツ言う音と共に重苦しい沈黙が流れる。
アキラを抱くようになってからも暫くの間、唇へのキスを避けていたのは事実だった。
その行動がアキラにとっては不安を呼び起こすものであったらしい。
だが緒方としても別に、したくないとかしてやる必要がないとかいう考えで
キスを避けていたわけではないのだ。
(19)
「あれは――おまえがそのうち彼女でも作って、そっちとキスするようになると
思ってたからさ」
「・・・何ですか。それ」
アキラはますます表情を硬くして、チーズをガシガシと卸し始める。
さぞや自分勝手な言い分に響くだろう。
だが、実際それがあの頃の自分の気持ちだったのだ。
甘い匂いのする小さな唇が自分の唇に触れた日の夜、アキラの母である人が
自分に言った言葉がずっと胸の奥に蟠っていた。
――アキラはやがて好ましい異性を見つけて、その本当に好きだと思う相手と
本物のファーストキスをするのだと。
それは実に尤もだと思った。
それに、乱れた世相の中で大人に肉体を売るようになった少女たちが、
金のために体は許してもキスは許さないといった話も耳にしたことがあった。
他の全てを奪っても、そこは自分などが侵してはならない部分だと
自分に言い聞かせていたのだ。
そこを触れずにおくことによって、まだ自分は理性を残した大人であり、
アキラから全てを奪い去ったわけではないと逃げ道を作りたかったのだ。
――一日も早く、丸ごと奪って全部自分のものにしてやればよかった。
沈黙の中、強張っていたアキラの横顔が少し緩んで哀しそうな顔になる。
パサパサとチーズを鍋の中に放り込み、目尻をほんの少し濡らしながら
おとなしくシチューを掻き混ぜるアキラがいとおしかった。
だがそれと同時に、昔自分自身がしたことはすっかり棚に上げて緒方一人が悪いような
顔をしているアキラに「それはないだろう」と思った。
何やかやの気持ちが混じり合ってむらむら込み上げてくるものがあり、
少し思案してから、緒方はアキラの顔を覗き込んで呪文を唱えた。
「・・・Trick or Treat!」
(20)
「・・・えっ?」
アキラが怪訝そうに振り向く。もう一度繰り返した。
「Trick or Treat!」
「何ですって?」
「お菓子をくれなきゃ、悪戯するぞ」
唐突に妙なことを言い出した緒方にアキラが面食らった顔で答えた。
「・・・お菓子なんて、持っていませんよ」
「だろうな」
緒方は不敵に笑ってアキラの顎を持ち上げ、瞳の中を覗き込んだ。
「なら、おまえを寄越せ」
「・・・ふざけてるんですか?」
「くれないのか?」
「駄目ですよ。お鍋ついてなきゃ、焦がしちゃう」
「そうか。くれないなら・・・」
緒方は焜炉の火を止め、アキラの身体に腕を回すとそのまま抱き上げた。
「おまえに、悪戯する」
「ちょっ・・・緒方さん!?」
アキラがシチューを掻き混ぜていた杓子が手から落ちて床に当たった音がした。
大股で寝室まで運びベッドの上に投げ出すと、アキラが怒りを含んだ声で言った。
「・・・ボクをからかってるんですね?」
「からかってるように見えるか?」
「そうとしか見えません」
「心外だな」
さっさと覆い被さって唇を塞ぐと、そこにはまだ少し澱粉質の甘い味が残っていた。
(21)
「ん・・・ん・・・っ、んぅ・・・っ?」
自分の唇をアキラの唇に押しつけ、むにむにと無闇に動かしながらその感触を楽しむ。
弾力のある柔らかな唇肉の向こうに、それが生え揃うまでを見守ってきた
繊細な歯の存在を感じる。その向こうには自分が良く知っている温かな口腔がある。
唇を触れ合わせたまま上唇と下唇を交互に食むように軽く吸い、それから改めて
唇全体を強く吸い上げ、今度こそきちんと音を立てて離してやった。
「・・・・・・?」
キスの名残りで少し濡れた唇を光らせながら、アキラは肩を上下させて緒方を見た。
潤みかけた黒い瞳には、警戒と不信と幾らかの期待と、灯りはじめた甘い熱とが
一緒くたになって揺れている。
その瞳の色をつくづくといとおしみながら、緒方はもう一度アキラの唇に口付けた。
ん、とアキラが身を捩ろうとする。
それを押さえてもう一度。
顔を背けて逃げようとするのを固定してもう一度。
寝室の中にチュッ、チュッとわざとらしいくらい可憐で一途なキスの音を
途切れることなく響かせた。
「ん・・・ふぅっ、おゎ・・・おぁたさっ、・・・ど、して・・・」
片時も離れない唇に発音を妨害されながら、アキラが懸命に聞いた。
「なんだ?よく聞き取れないぜ」
一息つくように唇を離し、アキラの顔の上に覆い被さるように両肘をベッドに突いて
瞳の中を覗き込む。
出来るだけ真面目くさった声で言ったつもりだったが、目が笑っていたのだろう。
潤んで揺れていた黒い瞳がむっとしたように強い光を宿し、緒方を睨みつけた。
(22)
「・・・やっぱり、からかってるんじゃありませんか。何で急に、こんなこと」
「キスして欲しかったんだろ?」
目で笑いながら言ってやるとアキラの顔が見る見る赤く染まり、眉間に皺が寄せられる。
ぐっと悔しげに緒方を睨みつけるその目には、だが少し哀しそうな色が宿っている。
潤んだ目から目尻へと光るものが溜まり始め、
緒方の下のアキラはべそを掻きたいのを必死で堪えるような表情になった。
――ちょっと突付いたら、たちまち溢れ出て泣き出してしまいそうだ。
自分はアキラを泣かせるのが上手いと思う。
滅多に泣かないアキラの心身の弱い所を自分は良く知っていて、
そこを突付いては泣かせてみたくなってしまう。
だが一生こんな風に傷つけて泣かせてばかりいるくらいなら、
自分などさっさと死んでしまってアキラを自由にしてやったほうがいいのだ。
緒方はふっと表情を和らげ、静かにアキラの瞳を覗き込みながら言った。
「・・・すまん。少しからかった。・・・本当は、おまえがして欲しがるから、じゃない。
・・・オレだ。オレが、おまえにキスしたい。今まで足りなかった分も、全部だ。
そして、これからも一生、おまえにだけキスしたい。おまえにキスして、おまえに触って、
毎日暮らしたい・・・んだぜオレは」
最後のほうは恥ずかしくてつい口籠もった。
こんな告白をするなど初めてな上に、自分の言葉が進むにつれて
アキラの目が大きく大きく花が開いていくように見開かれて揺れるので、
くらくらしてきた緒方は自己防衛のため目を閉じた。
(23)
しばらくの沈黙。
照れ臭くて目を開けられたものではない。
自分の下でアキラが小さく息をつく音が聞こえた。
それっきり何も反応がないのを不審に思ってそろそろと目を薄く開くと、
眼下には見慣れた大きな黒い目があり、それがぐんぐんぐんぐん近づいてくる。
――だからちょっと待て!今コイツとオレの距離は何cmになってるんだ?
そう思った瞬間長い睫毛がパサリと閉じて、
緒方の唇にあの日と同じ、優しいアキラの唇が押し付けられた。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
ちゅっ、と小さな音を立てて唇が離れ、アキラの上体がばふりとベッドの上に倒れ込んだ。
腹筋だけで身を起こす体勢で口付けていたため、長く保たなかったらしい。
「はぁ・・・」
腕を左右に大きく投げ出し、天井を見上げてアキラが溜め息をつく。
何だか疲れたような、清々しいような顔で微笑んでいる。
「おい――」
それだけか?
このオレがあんな恥ずかしい思いをしてあんな台詞を言ってやったのにそれだけか?
と心に思う。
だが清々しく微笑んでいたアキラの瞳は見る見る潤み、
両の目尻からポロリと水が零れたかと思うと、アキラは枕を抱え顔を隠してしまった。
「どうした」
「・・・・・・」
アキラは答えず、枕の下で声を殺して泣いている。
枕をぎゅっと掴んでいるこの手も、あの頃に比べれば随分大きく育ったものだ。
「じゃあ、・・・嬉しいのか嫌だったのか、二択で答えろよ。・・・どっちだ」
「・・・れし、・・・れしっ、・・・うれしいです・・・」
ひどくしゃくり上げながら枕の下のアキラが答えた。
「・・・嬉しいなら、そんな枕なんかよりオレに抱きついて泣け」
枕を部屋の隅に放り投げ、キラキラと涙に濡れた瞳と目が合うと、どちらからともなく唇が触れた。
(24)
まだ時折小さくしゃくり上げながら、アキラは必死で緒方の唇に吸い付いてきた。
泣くことで熱を持った吐息が、ふっ、ふっ、と癇癪を起こしたような声と一緒に洩れる。
ぐいぐいと引き寄せられしがみつかれる首や背中が痛いほどだ。
「・・・おまえ、そんなにキスが好きだったのか?」
いつになく積極的なアキラに面食らいながら、だったら今までセックスをした時にも
もっと唇に触れてやればよかったと思いつつ緒方は呟いた。
アキラはまた泣き出しそうな顔になって、
キスが好きなんじゃなくて緒方さんとするキスが好きなのに、と言った。
アキラが言い終わるのを待たずに口付けた。
唇を吸っては触れるだけのキスから、舌を差し入れて温かな中をゆっくりと
掻き回してやると、アキラの舌がぴくんと起き上がって絡み付いてくる。
濡れた音を立てながら動きの不自由な口腔内での交歓を続けるうち、
溜まった唾液がアキラの唇の端から零れて、吐息には湿った甘い熱が混じり始める。
それを見て取った緒方は一際優しいキスをアキラの上唇に施してから顔を離し、
舌の代わりに右手の指を一本濡れた唇の中に滑り込ませた。
「んっ、・・・」
「しゃぶらなくていい。そのまま、口を開いておけ」
口腔の内部に溜まった唾液を指に掬い取り、赤い唇の裏側のごく浅い部分を
細かな動きで掻くように何度も擦ってやると、アキラの首から肩にかけてが
目に見えてびくりと竦み、首の後ろに回された両手に力が込められた。
(25)
「んぁ、・・・はぁ・・・っ、・・・ぁあ・・・」
「気持ちいいか?口の中も、粘膜だからな」
笑いながら緒方は指を二本に増やして更に奥へと差し入れ、温かで滑らかな頬の内側や
繊細な凹凸のある硬口蓋を焦らすように何度も撫でた。
「んっ・・・、んぁ、」
開いたままのアキラの口が次第にカクカクと震え始め、首に回されていた手が降りてきて
緒方の手首に添えられる。
「どうした?」
笑みを含んだ緒方の目と視線が合うと、アキラは反応を窺うように甘く潤んだ目で
緒方を見つめながら、そろそろと唇を閉じた。
「開いておくように言っただろうが」
優しく囁くだけで緒方が指を引き抜こうとはしないのがわかると、
アキラは嬉しそうに微笑んで両手を緒方の手首に添え、ニコニコと棒状のキャンディでも
しゃぶるように二本の指をしゃぶり始めた。
「指なんかしゃぶって、旨いのか?」
「んっ・・・」
答える代わりに嬉しそうな顔をして、アキラはぴちゃぴちゃと緒方の指を舐める。
「オレの指が、好きなのか」
「ん」
真面目な瞳で軽く頷いてからまた嬉しそうな顔に戻り、遊ぶようにちゅうちゅうと
音を立てる。
――今アキラが愛撫してくれているのは自分の指だが、それと同時に自分自身でもあり、
自分の全てだ。
この口がまだ食べる事も喋る事も出来なかった頃からアキラを知っている。
時を経て自分たちが今こうしているのは不思議なようでもあり、
また初めから決まっていたことのようでもあった。
(26)
「・・・指だけで満足か?そろそろ、他のご馳走も欲しそうな顔をしてるぜ」
濡れた唇の中へと二本の指をゆっくり押し込み、とあるリズムで抜き差しを
繰り返してやると、アキラは悪戯っぽく微笑んでから目を閉じ、
指の動きに呼吸を合わせるように口腔をうっとりと収縮させた。
緒方の腰にのしかかられている下腹部には、既にゆっくりと立ち上がっていたものの
気配がある。
それを承諾の合図と取った緒方は指を抜き、仰向けのアキラのエプロンの下に
手を差し入れてウエストのボタンを緩めた。
アキラが小さく息を乱しながら身を起こし、自分でエプロンを外そうとする。
「外すな。そのままだ」
「え?だって」
「いいから」
細い腰の下に手を差し入れて下着ごと下半身の衣服をずり下ろすと、
アキラが小さく声を上げた。
「"アキラくん"はなかなか力持ちだな」
喉の奥で笑いながら言ってやると、アキラが少し顔を赤くしてそっぽを向く。
エプロンの薄い布地が下から持ち上げられて見事な山型を成していた。
山の頂点にはじわりと内側から滲み出た染みがある。
緒方はためらいなくその中へ頭を潜り込ませ、中心にあるものを口に含んだ。
「あ、緒方さん・・・っ、アッ、ぅん、あんんっ!」
驚いて身を起こしかけたアキラが、身をのけぞらせた気配がする。
エプロンの中の世界は薄暗く暖かく、アキラの匂いがした。
さっきアキラが自分の指にした行為のお返しのように念入りにしゃぶってやると、
アキラが細い声を上げてエプロンの上から緒方の頭を押さえた。
逃れたいのか、より深い快楽を得たいのか、太腿の途中に引っ掛かったままの
衣服によって脚の動きを封じられたアキラが激しく腰をくねらせる。
「いいから、出せよ・・・」
差し入れた両手でアキラの尻肉を強く鷲掴みにしながら吸い上げると、
アキラは声を上げながらビクッビクッと痙攣して、緒方の口中に一度目の精を放った。
(27)
口内に流れ込んできた青臭い迸りと共に、
手に掴んだ尻肉と、顔の間近にある太腿とが一気に弛緩する。
じわっと汗ばんだ小ぶりな尻肉をやわやわと揉みながら、
最後の一滴まで搾り取るように丁寧に吸い上げてやると左右の太腿がぴくんと動いた。
エプロンに包まれた薄暗い空間は、濡れたアキラの膚が発する熱の籠もった匂いで
濃密に満たされている。
アキラの出したものを含んだままの自分の口にも、アキラの香りが充満している。
目を閉じてそれらを堪能しながら、
緒方はゴクリ、ゴクリと幾度かに分けてアキラの出したものを飲み下した。
名残り惜しい思いでエプロンから頭を抜いて見ると、
アキラは薄目を開いた瞼の縁を濡らしてハァハァと荒い息をついている。
「はぁ・・・ぅ・・・」
「いいのが出たじゃないか」
痺れたように力が抜けてしまったアキラにしれっと労いの言葉をかけながら
再びエプロンの下に手を差し入れ、太腿に引っ掛かったままの衣服と下着を
まとめて脱がせた。
太腿から引き下ろす拍子に手に触れた下着の股当ての部分が、
先にアキラが一人で滲ませたものによって冷たく濡れていた。
(28)
「まっ・・・て、緒方さん・・・エプロンだけ、外させてください・・・」
身体の下に手を差し入れられ、ころんと引っ繰り返されながらアキラが訴えた。
その腰を上に引っ張り、尻だけを高く上げさせながら緒方が惚けて聞いた。
「どうしてだ?」
「どうしてって、ご飯を作る時に使うものなのに・・・不衛生です」
胸から膝上あたりまで覆うタイプの薄い小花模様のエプロンの他に、
上半身にはシャツと薄手のカーディガン、足には白い靴下を着けたままで
尻から足首までの部分のみを剥き出しにしたアキラが戸惑った声で言う。
「どうせさっき汚したから、後で洗うんだろ?だったら、着けたままでも同じことだ」
一旦ベッドを離れて引き出しから潤滑剤を取り出し、片手でキャップを開けながら
アキラの脇に立つ。
「で、でも・・・何だか」
「何だか?」
高々と突き出された白い尻の尾?骨の部分に容器の丸い口を当てゆっくり傾けると、
小ぶりな双丘の間の細い小道を薄い色のついた液体がつうっと足早に伝い落ちていく。
「あッ・・・!」
咄嗟にアキラが左右から尻肉を緊張させ小道の途中で液体を堰き止めようとした。
が、努力空しくそれらは小道の終着点まで達すると、ポタリポタリとアキラの下の
エプロンに落下して幾つもの染みを作った。
「・・・・・・」
声を詰まらせて、アキラが悔しそうに顔をしかめる。
「なかなかいい締めつけ具合だったぜ」
緒方はニヤニヤと笑いながら自分の指にもたっぷりと潤滑剤を取り、
アキラの後ろに押し当てた。
(29)
クチュ、ネチュと粘着性の音を立てて緒方の長い指がアキラの中を動く。
その間アキラはもう観念したというように目を閉じ、片手の親指を唇に押し当てて
耐えていた。
閉じた瞼の縁は赤みが差して濡れ、緒方の指に探られる内部は先ほどの口唇以上の
貪欲さで侵入者に熱く吸い付き、生き物のように蠢きながら締め付けてくる。
「・・・オレの指が、好きなんだな」
揶揄するように先刻の言葉を繰り返してやると、アキラは一層悔しそうに唇を噛み
無言でシーツに顔を埋めてしまった。
そんな態度とは裏腹に、指を埋めた箇所がキュッキュッとせがむように何度も
指を締め付けてくるのが可笑しくいとおしい。
「・・・よし」
十分に慣らした感触を得た緒方はアキラの背後に膝をついて熱い昂りを取り出し、
薄い腰骨を掴んで狙いを定めると、一息に腰を進めた。
「あ、あー・・・っ、ンくっ、・・・フゥッー・・・!」
アキラの手指が握り締めるようにシーツの上を掻く。
熱く湿った柔らかな肉できつく締め上げられ、緒方は思わず全身を強張らせた。
「こら、もう少し、・・・緩めろ」
アキラはやるせなく息を荒げながら関節が反り返るほど強くシーツの上に指を立てて、
何とか緒方の注文に応えようと努めている。
緒方の眼下にあるアキラの肩から背中にかけては薄青い小花模様のエプロンの紐が
罰点形に渡され、それがウエストの部分で蝶々の形に結ばれている。
それはアキラが自分の帰りを待ちながら夕飯の支度をする為のものだったと思うと愛しい。
それと同時に、台所という限りなく日常的な場所でシチューなど掻き混ぜていたアキラが、
いまエプロン姿のまま下半身だけを剥き出しにして自分に貫かれ喘いでいるという
非日常的な状況が緒方を煽った。
「・・・動くぞ」
馴染ませるのもそこそこに腰を動かし次第に加速し、
アキラの鳴き声と痙攣する内部の感触を余すことなく堪能しながら、
緒方は締め上げてくる器官の最奥目がけ熱い迸りを叩きつけた。
(30)
「んぅ・・・」
ぐったりとベッドの上にくずおれたアキラの身体を仰向けると、
アキラは目尻をうっすらと濡らし、蕩けてしまったような表情で瞼を閉じている。
濡れた目尻を指で拭ってやりながら緒方が囁いた。
「・・・痛かったか?」
「だいじょ・・・です・・・」
「そうか。・・・よかったか?」
潤んだ瞳が薄く開いて緒方を見た。
「・・・よかっ・・・・・・とっても・・・」
「・・・そうか」
唇を触れ合う寸前の距離まで近づけ、濡れたアキラの瞳と見つめあった。
どちらからともなく唇が触れ、ちゅっ、とうぶな音を立てて離れた。
廊下のほうでは洗濯機が控えめな音を立てて回っている。
二人が食卓についたのは普段の夕食より一時間遅れた時刻だった。
「やっぱり、少し甘かったですね」
煮崩れしてしまったカボチャのシチューを口に運びながらアキラが言った。
「そうか?美味いぞ」
――アキラが作った物なら何でも美味い。
そう言おうかどうしようか照れ臭くて迷っていると、
アキラが窓辺の小さなカボチャに目を遣り言った。
「あの子。昔を思い出して買ったっておっしゃってましたよね。
昔、ハロウィンで何かあったんですか?」
(31)
――あの日目を閉じて甘い柔らかい唇を押し付けてきた小さなお化けと、
ついさっき同じように唇を押し付けてきた優しいアキラが重なる。
だがあの時の思い出をアキラに明かすのはどうも気恥ずかしかった。
「あれはその、まぁなんだ・・・おまえが気にするようなことでもないさ」
カボチャと鶏肉を一緒に口に押し込みながら緒方はモゴモゴと言葉を濁した。
「ボクには話せないことですか?」
アキラが首を傾げて緒方に微笑みかける。その目が笑っていないのが怖い。
「考えてみれば、ボクのファーストキスも初めてセックスした相手も緒方さん
でしたけど・・・緒方さんにとってはボクが初めてじゃないんですよね。
ボクの前にも何人かの女性とお付き合いがあったみたいだし、
そのうちのどなたかとの思い出なのかな・・・」
言いながらアキラが緒方のサラダの鉢を引き寄せ、マスタードをたっぷり
スプーンに掬って何杯も盛り付け始めた。
「おいおい」
「はい、どうぞ」
澄ました顔でアキラが押し戻したサラダの上には、黄色いマスタードが
てんこ盛りに乗っている。
「オレがおまえと幾つ年が離れてると思ってるんだ。おまえが育って
今みたいな関係になる前に、他の人間とセックスしてたくらいは大目に見ろよ」
「それを残さず食べてくださったら、大目に見てもいい・・・かも」
「おまえなあ。・・・後で口直しさせろよ?」
サラダ鉢を手に取って口につけ、むせ返りそうになりながら一気に掻き込んだ。
(32)
ドンッと鉢を置くと、アキラが頬杖を突き悪戯っぽく頭をユラユラ揺らして微笑んでいる。
「ゴホッ、グォフォッ。・・・ほら!こっち来い、口直しだ」
「緒方さん、涙と鼻水が・・・」
「口直しが先だ!」
「んっ」
ティッシュペーパーをヒラヒラ差し出したアキラの顎を強引に引き寄せて、
マスタード味のキスをする。
「ぅぷ。辛いっ」
「オレがその何倍辛かったと思ってる」
鼻汁を押さえゴクゴクと水を喉に流し込みながら、緒方は涙目で言った。
「・・・これで、許すんだろ?」
「ん・・・でも、ボクも緒方さんの初めてが良かったな・・・」
「・・・言ったって仕方ないだろうが」
「・・・でも、これからは一生ボクにだけキスしてくれるんですよね?」
「ああ」
「キスだけじゃなくてセックスも、ボクとだけ?」
「・・・約束するよ」
アキラは満足そうにニッコリと笑った。
「なら、許してあげてもいいです!」
菓子か悪戯か。小さなお化けが大の大人に理不尽な要求を突きつけたあの頃から、
自分の人生は結局アキラの願いによって全て支配されているらしい。
洟をかみ終えて振り向くと、アキラが楽しそうに目を輝かせて緒方を見ている。
もう一度唇が触れる。
ちゅっ、と音を立てて離れる。
それを何度でも繰り返す。
「緒方さん、緒方さん、大好き・・・」
甘い言葉を紡ぐ唇の持ち主を再びベッドへ運ぶかどうか迷いながら、
実はあの小さなお化けに奪われたのがいい年をした自分のファーストキスだったとは
口が裂けても言えない緒方だった。 <終>
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